うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

電話は未知の世界

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先日、電車に乗っていたら、駅と駅の間が不通(平成23年あたりから)になっており、タクシーを呼ばないといけないという事態がありました。

タクシーを呼ぶためには電話が必要で、待っているだけでは本当に来ないという田舎。

普通ならその場でスマホから電話をかけて、タクシーを呼んで、というふうにスムーズにいきます。

今回は同行メンバーが全員、耳が聞こえないので駅員さんに頼んでみました。

「ウチはそんなの、できまへん」。

 

仕事の範囲を超えているからなのか、理由は分からないけれど断られました。

他に人がいないか探してみたものの、ここは田舎。誰もおりませんでした。

交番を探してみたら、3km離れているところにあるという。

 

そんな状況の中、久しぶりに使いました。電話リレーサービス

スカイプのアプリを使って、タクシーを呼ぶ用件を通訳オペレーターに連絡します。

そこからタクシー会社に伝えてもらい、やりとりを行うというサービス。

チャット形式だけでなく、今はLINEでも対応可とのこと。使ったことがあるユーザーは分かるのですが、非常に助かるツールです。

 

今時、電話が必要な場面ってそう多くないものの、どうしても今すぐに電話しなければならないという事態が起こった時に、こういうサービスがあって本当に助けられました。便利で素晴らしいサービス。

 

でも、一つだけ課題が。聴者から、ろう者・難聴者に電話したい時に電話をかけることができないシステムになっています。通訳オペレーターと繋がったとしても、通訳オペレーターがろう者に電話するときの場面、対応ができないようです。この課題解決に向けて取り組みが以前、あると伺っていましたが最近はどうなっているのか気がかり。

 

さて、電話リレーサービスを使った結果、タクシーは本当に来れたでしょうか。

 

はい、見事に来れました。タクシーを見ただけでもう安心しきってしまい、行き先を尋ねられたとき一瞬答えられませんでした。

それにしても、電話はろう者にとって未知の世界に映ります。声を出すだけで伝わるのか?と不思議に見えます。

 

近年はスマホの進化が激しく、メールだけの機能ではもの足りない。スマホでなんでもできちゃう時代だけれど、電話はまだまだ圧倒的な存在感を示しています。

 

電話ができることが当たり前の環境にいる中、私にとっての電話は「当たり前ではなく、不思議な存在」に映っています。電話が必要だと思った場面が多い中、私の場合は耳から入ってくる音に気付くことができないので使いようがありません。

 

ろう者側から電話できるだけでもかなりの進展。次は、向こうからかかってくる電話が取れるようになること、電話リレーサービスの改善を祈っています。

 

タッチ感よりも中身

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急に寒くなってきました(月末とはいえ、まだ9月)。秋の夜長に漫画を読んでみました。

 

昨日久しぶりに読んだ「淋しいのはアンタだけじゃない」。 

漫画を読むとき、絵が気に入って買う人もいればあまりこだわらない人もいると思いますが、私の場合はどうしてもタッチ感が気になったらあまり買わない。でも、今回は絵の描き方(タッチ感)よりも、中身が重要だったので1巻、2巻と購入しました。

 

2巻の方がより、聴覚障害について病理的かつ生物的に研究されているように感じました。当事者の私でさえ、中途失聴者が悩みがちな「自分の声が聞こえない」ことについて、何も感じないと言ったら嘘になるかもしれない。自分の声が聞こえない、それが当たり前のまま過ごしているので、今回の漫画はとても良い内容が含まれていると実感。

 

漫画家は聴者、聞こえる側。にもかかわらず、専門家に取材したり当事者の話に耳を傾けたりと渾身の一冊になっています。

ぜひ、読書の秋にオススメです。

 

 

下手だったら下手のままになっちゃう

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ここ数日、新しい仕事も入って一日の時間があっという間に過ぎています。

外に出る時間が増えて、夕暮れの時間になると夏の終わりを実感。なんだか切ないような。センチメンタル。

 

久しぶりに知人に会い、なぜか仕事の話になりました。

一緒に働いている人が「私、頭悪いからムリ、ムリ」が口癖のようで、知人は困っていました。「つべこべ言わずにさっさと取り掛かってくれ」と言いたいところを我慢しているとのこと。ああ、大変ですね、これは。

 

そういえば、似たようなケースが手話の世界にもありました。

手話通訳者の中にもそういうタイプの人がいて「手話下手だからごめんなさいね」とろう者に伝えている人がいます。

ろう者のほとんどは「そうですよね」と同意はせず、「いえいえ、そんなことないですよ」とやんわりと否定し、励ますつもりで答えていると思います(というより、そういう対応の仕方しか見たことがない私。「そうじゃ、君は下手じゃ」とストレートに言う人は稀かもしれない)。

 

手話通訳がなかったら困るのは、ろう者本人。それを一番、本人が分かっているから、できるだけ通訳してもらえるよう、下手なことを言わないようにすることもあります(そこまで考えているかどうかは別として、生きていくためのスキルとして染みついている)。また、日本人である以上、極端な言い方を好ましく思わない風潮があることを理解し、敢えて言わないまま、というケースもあります。

 

そこで通訳者はなぜ、そこまでして予防線を張っているのでしょう。

「そうじゃ、君は下手じゃ」と言われる可能性は低いはずなのに、やはり嫌なことを突っつかれたくない、のが人間の本能ということでしょうか。

「手話が下手だからごめんなさい」ではなく、「手話、まだ勉強中なので下手かもしれないけれど頑張ります!」の方が、私は応援したくなるし、頼もしい!と思うのだけれど。

 

下手と思ったら本当に下手のままになっちゃうし、無理と思ったら本当に無理になってしまう。必要以上に、予防線を張らないで勇敢にチャレンジしていくプロ意識がもう少しあれば、ろう者も通訳者を敬い、社会資源として様々な方向へ活用していくことができるのでは(面接会や講演会だけに限らず、セミナーやイベントでも手話通訳をつけることができる機会)。

 

久しぶりに手話通訳について考えてみました(普段は、仕事上、スタッフと同行して通訳を使うこともあれば、パソコンの文字通訳みたいな形で打ち合わせています)。

 

今日もごきげんよう

 

ちょっとした勇気

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「ちょっとした勇気が、この先の人生を変えることになる」。

そんな場面って映画の中での話でしょう。

ドラマみたいに生易しくないって、現実は。

 

でも本当でしょうか。ちょっとした勇気、ここでいう勇気というのは、「チャレンジできないわけではないけど、でも大丈夫かな」という感じ。「うわ〜無理!ムリ!」という類の内容ではなく、「うん、ちょっとイケるかも」という。

 

小さな一歩を前に踏み出すことで、あれあれ〜?と意外な展開になることも。

大学時代、初めて聴者の世界に本格的に関わろうとした時、「これはもう、一歩踏み出さなきゃ」と半分、自分を追い詰めて(追い詰められた?)。

「あの、ちょっといいですか」と全く知らない学生に声をかけて(かけまくった気分)。

 

気づいたら、友人がまた友人を、そしてまた友人を呼んでくれて輪が少しずつ広がって。当時、聴覚障害学生の間では毎日のように意識していた「情報保障」というものがあって、ノートテイクを受ける(使う)ために協力してくれる学生をも探していたので「ちょっとお願いしてもいい?」と二度目の小さな勇気を。

講義全てにノートテイカーを入れて受講。時間割を決めるだけでなく、ノートテイクができる学生を入れながら、突発的な休みの連絡があっても困らないよう調整するというコーディネートもして、それを前期、後期と毎回繰り返して。

今ならもう少し違った方法があったと思うことは多いけれど、当時はそれが精一杯でした。

 

でもこうした出来事も、今となっては仕事のスキルにも活きているので「ちょっとした勇気」の積み重ねって本当に大事なんだなって実感しているこの頃です。

 

今日もごきげんよう

雨の音

晴れていると思いきや、突然雨が降るこの頃。変わりやすい女心と秋空。

窓を開けていると、外の匂いで「あ、雨降ってる」と気付くこともあれば、スタッフ(聴者)から「とってもすごい音がしてます!」と教えてくれることも。

 

すごい音、って何だろう。確かに、滝のような強さが視覚的に感じられる。

でも、どんな音だろう。ザーザー?ドバーッ?タタタタッ?

 

まるでシャワーのような感覚、だと思う。

それにしても、雨の匂いはどうして独特なのだろう。

情報の価値は自分が決める

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世の中は3連休。今日は敬老の日。「今日は何の日でしょう?」と学生時代にあれほど言われていたにもかかわらず、カレンダーを見ておかないとちょっと自信がないワタクシ(今日はちゃっかりスマホで検索)。

 

 

先日、地元では有名なお蕎麦屋さんがリニューアルオープンしたというので足を運んでみました。市街から離れているところとはいえ、新幹線が停まる駅から徒歩10分以内で行けました。綺麗な外観に、和風でおしゃれな看板が目印です。

案の定、行列ができていました。

 

店内に入り、リストを見ると5組が待機中。私たちは6組目になるということ。

しかし、友人が次の電車に乗らないといけないため、間に合うかどうか。行列の横で「どうする?今回はやめようか」という会話をしていたら、行列にいたおじさんが「君たち、蕎麦が好きなんだね?」と声をかけてきました。

 

正確には、手話で話しかけてきました(実際に声も出ていたか、ワタクシ耳が聞こえないので分かりません)。

あまりにも自然体で話しかけてきたので思わず「あ、はい。左様です(んなこと言ってない)」。

 

おじさんは流暢な手話で「それなら、駅の裏口にもう一店美味しいところがあってね、行ってみたらどうじゃ」。

「駅の裏?歩いて近いんですかね」「うむ、そうじゃ、5分もないかな」。

 

店名を聞いてからお礼を伝えて、私たちは移動。案の定(2回目!)、そのお店も混んでいました。

おじさんからの情報は、普遍的な情報だけれど、耳が聞こえないワタクシにとって価値のあるものでした。なぜなら、行きたかったお店に入ることができなくて次の選択肢を考えようとしたタイミングで情報が入ってきたから。

耳が聞こえていれば、聞き耳を立てて「ん?どうやら、他にも美味しそうなところがあるようだ」と何となく情報を得ることができてしまう。それが、耳が聞こえないとなると、情報が自然に入る、ということが難しくなってしまう。

 

おじさんの情報が、私たちの町歩きに付加価値をもたらしたようなものです。

手話で話しかけられたので尚更、価値のある情報に。

「なんだ、蕎麦が好きかって?んなこと知るか」と懐疑的になる人もいますが、「おお、ありがとうございます!」と喜んで受け止めた方が自分にとっても町の魅力に触れる良い機会になります。その情報に価値を感じるかどうかは自分次第。

 

ところで、その日の帰り道で、おじさんは聴者か難聴者(少し聞こえる人)のどちらかかなと友人たちと話していました。

外見上、耳が聞こえるかどうかは一見分からないものですが、見知らない私たちに声をかけ、お店の情報を教えてくれている姿を見ると、聴者もしくは難聴者の可能性が。

 

ろう者の場合、「あ、手話使っている!誰だろう。君、誰?」「どこの学校出たの?」という質問から始まるケースが多いような気がします。

 

全員が必ずしもそうだとは限らないけれど、あらためて比較してみるとおもしろいですね。

 

今日もごきげんよう

 

生きる術は知らないうちに

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「相手が戸惑っていると、ついフォローしてしまう」。

 

ろう者の友人と話していたら「やっぱり、初対面で相手が戸惑っているのを見るとどうしても、具体的なアクションについて助言してしまうよね」。

 

お店で買い物をする時、何かを注文する時、耳が聞こえないことが分かると「え?」と戸惑いの表情を見せる人とそうでない人に分かれます。外見上、あまり気付かれないので口の形が読み取れてしまえば、向こうも終始「いつも通り」の状況になります。

まさか、さっき対応していたお客様、耳が聞こえないなんて!ということもあります。

 

聴者(耳が聞こえる人)が戸惑った時、「あ、大丈夫ですよ。紙に書いてください」「あ、大丈夫です。ゆっくり話して」「あ、大丈夫。スマホに打ち込んで」とろう者の方がフォローする。

こちらが聞こえないことを察して(知って)、「書きますね」「手話分かりますか」と向こうからアプローチを変えてくることもあります。でもそういう人はそう多くなく、大抵は「あ…どうしよう」という空気が一瞬、醸し出てきます。

 

ろう者が口の形が読み取れてその場を何事もなかったかのように対応できてしまうと、聴者にとっては「まさか!耳が聞こえないなんて」ということになります。かといって、ろう者たちがわざわざ「紙に書いてください」とか、「スマホに打ち込んでください」と申し出なければいけないわけではなく、何も申し出ることなく聴者が気付かないうちにスムーズに対応できていたこと自体が不思議に見えてきませんか。

 

聴者からアプローチを切り替えてくるたびに「おお!」と感動するのは、やはり日頃の生活の中で戸惑ってしまう姿を多く見てきているからかもしれません。

 

なので、どうしても「紙に書いてください」「スマホに打ち込んで」といった具体的なアクションについて助言をする。これは誰かに教わったというよりも、聞こえなくて困るのは自分なのでそういう行動を取らざるを得なくなる。

 

生きていくために必要な術。困ることを無意識のうちに知ってしまったから。

 

仮にこの世の中を生きるマジョリティ(多数派、聴者)が、マイノリティ(少数派)になったとしたら?

 

以前、YouTubeで街の人々が手話を使って話す人ばかりで、手話ができない人がポツンと彷徨った動画がありました。

街に出てみると、道行く人が全員がASL(アメリカ手話)を使っていて、一人の聴者が「Excuse me」と声で話しかけても街の人々は「What's?(なんだって)」と手話で答える。聴者は他の人に話しかけてみるものの、他の人も手話で答える。それで困ってしまう、というような内容。

 

現実的にはありえない話だけれど、逆のバージョンは現実的に起きています。それも毎日。

 

聞こえなくて困るのは自分、ということを無意識のうちに知っているから、生きる術として「書いてください」「口を見ればなんとなく分かります」となります。(ほんとは、口の形だけでは断片的な情報しか得られないけれど、口の形を見れば分かります!と胸を張って言える人もいるので誤解されやすいかもしれません)。

 

相手の「戸惑い」がやがて「自然体」に変化していって初めて、やっと対等に話ができる!この喜びは、聞こえない人なら誰でも感じたことがある感情です。

 

フォローされたらフォローしつつ、お互いにその場を気持ちよく過ごせたらいいですね。

今日もごきげんよう

 

パーツを組み合わせてみると

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アメリカで今月末に公開される「Kingsman」、SNSで予告編がかなりたくさんアップされています。

しかも、それぞれシーンが違うので「あ、こんなシーンもあるんだ」と発見の連日。「もう本編を見なくてもいいんじゃないの」とからかわれるくらい、ここ数日は予告編をよく見ます(日本語バージョンは2つか3つくらいしかない)。

この作品は2本目で、1本目は去年公開。スパイアクションの映画とはいえ、人間味あふれるストーリー。

kingsman-movie.jp

 

世界各地で年内公開される中、日本は何故か来年1月(日本語字幕、日本語による吹替作業もあるから?)。

それまで待てない!海外へ観に行く!というツイートも。

 

海外だと日本語字幕もないし、吹き替えもないのは承知の上で「アクションシーンもあるし、なんとかなるでしょ」というのだから、世の中はすごいものです。飛行機のLCCもあるので、日本じゃ遅いから海外で、ということも容易く実現できるものなんですね。

 

ところで、海外の映画館ってどんな感じ?とググってみると…

matome.naver.jp

 

寝転がって観れるなんて最高ではないですか。リラックスして観れるなら、そうしたい。

でも個人的には、寝転がって字幕を読むのはちょっと落ち着かないかも。

 

よく考えてみれば海外旅行の経験はあっても、海外の映画館で映画を見る、という日常的な体験をする機会はほとんどなかったです。北欧旅行で1泊の大型フェリーに乗った時、確か映画館があったようななかったような。

でもやはり「なんでわざわざ海外に行ってまで映画を?」というのがあったので、そういう選択肢はもともと入れていませんでした。

 

映画チケットの買い方、入場する方法、映画の始まり方と終わり方もどんな感じなのか、今となってはすごく興味が湧いてきます。湧いてきませんか。

 

ところで、なんで映画の話を書いたのか。予告編をいくつか見ると、本編を見たときに「ああ、あの場面はこういうことだったのか」と点と点が結びついて線になります。これって、人と接する時も同じことが言えるんじゃないかな、と。

 

普段、何気なく関わっている人でも、いろんな場面によって態度が違ってたり、見たことがない表情を見せたりと。毎回会うたびに、接するたびに性格や好みというものはある程度把握できます。

 

そういった小さなパーツを日々積み重ねていて、やがてある時に「ああ、こういうことだったのか」と分かってくることがあります。

「どういうこと?」と理解ができなくても、後になってみれば「ああ、もしかしたらそういうことだったのか」と全体像が見えて落ち着ける。心の持ちようによっては、やたらと振り回されることなく臨めることもあり。

 

人と接していて、分からなくなってしまったり理解できない場面に遭遇した時は「今はまだパーツを拾っている最中」「分からないこともあって当たり前であって、これからもいろいろなパーツを拾いながら、知っていけばいい」というようなことを考えていけば、少しは気疲れしないかも。

 

それにしても日本公開が待ち遠しいです。

 

今日もごきげんよう

 

(写真)新潟県越後湯沢にて。英語で書かれてて不思議な雰囲気。

 

 

ポジティブな休み

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「職場で休みを取ると何か引け目を感じちゃう」。

 

職場で有給休暇を取る時、「すみません、明日はお休みをいただきます」と一言伝える場面を見かけます。できるだけ有給休暇を取ってもらうよう働きかけているので、他のところはどうなのだろうとちょっと調べてみたら、中小企業の有給取得率は40%台。

 

従業員の規模が大きければ大きいほど取得率はアップしていました。

逆に言えば、従業員が少ないところでは有給取得率が低く、休みにくい職場が多いようです。

 

参考資料(厚生労働省

http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/jikan/syurou/15/dl/gaikyou.pdf

 

私の職場は小規模とはいえ、有給休暇は大事なものと考えていてほぼ毎月、職員が取得しています。「あと何日ですかね、しばらくは控えます」というくらい、上限に近い状態になることも。

 

有給休暇も含めて、休むことについて。

管理職の立場から言うと「休むのは構わないし、むしろ有給休暇をしっかり取ってほしい。その代わり、別の担当者にしっかり引き継いで対応してほしい」と話します。

 

ところが、休むことについて罪悪感を持っているからか、「本当にすみません」と謝ってばかりしています。

謝る気持ちも大事だけれど、休むことについてポジティブに捉えて「この日は休みなので、これとあれ、お願いしますね」といったコミュニケーションが取れるようにしたいところ。

「すみません、申し訳ございません。明日はよろしくお願いします」か、「すみません。A案件はここまで進めましたので、明日はこれとこれをやっていただけると助かります。B案件は明後日でも大丈夫ですので、明日は手をつけないで、Aだけをお願いします」のどちらが良いかは一目瞭然。

 

人間、休んだって問題なし。

問題なのは、休む時に響くもの。それを想定せずに、謝って休むだけでは時代遅れになってしまいます。

前向きに休んで、且つ他の人にしっかり頼むこと。それを徹底するだけでも、取得率はアップするのでは?

 

と、いろいろ考えることがありました。

 

今日もごきげんよう

運良く助けられて

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昼間の暑さはともかく、朝夕がめっきり涼しくなってきたこの頃。

県外出身の友人から「せっかくだから片貝まつり行かない?」とお誘いが。9月とはいえ、花火大会が行われるお祭りです。

 

新潟市在住の人たちに聞いてみると、花火といえば長岡花火(日本三大花火大会の一つ)は行ったことがあるけれど、片貝は行ったことがないという人も。ちょっとマイナーなイメージがある片貝まつり。

新潟県小千谷市長岡市の隣)にあり、人口5,000名の町に世界一大きな花火(四尺玉)が打ち上げられるという、片貝まつりが毎年9月に行われています。

katakaimachi-enkakyokai.info

 

花火大会はあまり積極的に行く方ではなかったので(混雑しているところが苦手)、今回は友人に誘われたのと予定が入っていなかったというタイミングが合って「それなら行ってみるか〜」という感じで行ってみました。

 

町中全体で取り組んでいることがうかがえるくらい、花火が打ち上げられる浅原神社周辺の家には提灯が掲げられていました。写真撮りたかったのですが、人様の家なのでそこは遠慮。

 

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予想はしていたけれど、やはり人、人、人…混雑していました。

真夏日だったらきっと倒れていたかも。そして、ビールが恋しくなるくらい、夏の風物詩があちこち。冷きゅうり、浴衣、うちわ、焼きそば(いや、これは通年)など、お祭りムードを味わいながら散策。

 

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日が落ちた頃にドーン!!花火が打ち上げられました。

今回は近くで見たので、音の響き方が早かった感じ(今まではちょっと離れたところから見ることが多かったので、花火が上がったあと数秒後に、体に響いていた)。体で感じる音を楽しみながら写真撮ってみました。

 

そこまでは良かったのですが、花火大会が終わった後がタイヘンなことに。

当たり前といえば当たり前ですが、帰るときは全員同じ方向に帰るわけで、大大大行列。シャトルバスで帰りたかった私たちは、時計を見ながら急いでいたものの、途中で警備員が何かを話しながら見物客を誘導し、まっすぐに続く道に2列になるのが見えました。

 

右側が大大行列のままで全然動く気配なし。左側が空いていたので、シャトルバス乗り場に向かって歩いてみました。ところが、この2列の意味が分かったのは乗り場に着いてから。

右側は、シャトルバスに乗る人のための列。

左側は、バスに乗らず、遠く離れている駐車場に向かう列。

 

警備員が何かを話している時点で「何ですか?」と聞けば良かったのに、ここでは「聞こえないから何言ってるか教えて」と頼むのが面倒くさい(警備員も忙しそうにしているし、混雑している状況で真っ暗闇の中で会話するのはちょっとタイヘン)と思ってしまいました。

 

私たちが停めた駐車場は歩いて1時間はかかるんじゃない?という距離。はてさて、困ったものじゃ。シャトルバスの列に割り込むにはちょっと厳しそう。

 

ということで、乗り場の近くに「ハイヤー常駐」という情報があったので行ってみました。ハイヤーというのはタクシーですが、そこに行ってみるとタクシーが一台もない。

ハイヤーって電話して呼ばないといけないんですね。

 

友人が「あのう、耳聞こえないんで、、、」と近くの警備員に話してみたものの、電話してくれる気配がない。はてさて…と困っていたら「1台呼べばいいのね?私たちも呼ぶところだから電話しておくわ」と若い女性陣が友人に話しかけていました。

咄嗟に私たちは「ありがとうございます!」とお礼。

 

道もだんだん、車とシャトルバスでだんだん混んできてタクシーが本当に来るのかどうかちょっと不安になりながらも、他の見物客と待機。シャトルバスに乗る行列もなかなか動かないし、田んぼと山に囲まれた地域なので真っ暗。

高速道路も混んでそうだなぁと待ち時間がとても長く感じられ…そこでタクシーが1台やってきました。当然、電話してくれた女性陣が先に乗り、私たちは後から来るタクシーに乗るものと思っていたら「お先にどうぞ、乗ってて」と。

 

いやいや、呼んでくださっただけでもありがたいので…と断ろうとしたら「大丈夫、乗ってて」という感じでした。他の見物客もいたので急いで乗り込んで私たちは移動。

お名前も聞けず、ちゃんとしたお礼も言えず。

 

シャトルバスに乗りそびれた上、電話ができなくて困った…でも私たちは旅慣れている者同士なので結局は何とかなると思うけれど、それでも咄嗟に「電話しますね」と頼んでもいないのに、様子を見かねて声をかけてくださったあの方々に助けられた感じがしました。本当にありがたいことです。

 

運良く、そのあとはスムーズに渋滞にハマることもなく帰れました。世界一の花火もすごかったけれど、こういう小さな出来事のほうが、私の中でずっと「すごいなぁ」と彼女たちに対して尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。

 

今日もごきげんよう