情報の価値は自分が決める
世の中は3連休。今日は敬老の日。「今日は何の日でしょう?」と学生時代にあれほど言われていたにもかかわらず、カレンダーを見ておかないとちょっと自信がないワタクシ(今日はちゃっかりスマホで検索)。
先日、地元では有名なお蕎麦屋さんがリニューアルオープンしたというので足を運んでみました。市街から離れているところとはいえ、新幹線が停まる駅から徒歩10分以内で行けました。綺麗な外観に、和風でおしゃれな看板が目印です。
案の定、行列ができていました。
店内に入り、リストを見ると5組が待機中。私たちは6組目になるということ。
しかし、友人が次の電車に乗らないといけないため、間に合うかどうか。行列の横で「どうする?今回はやめようか」という会話をしていたら、行列にいたおじさんが「君たち、蕎麦が好きなんだね?」と声をかけてきました。
正確には、手話で話しかけてきました(実際に声も出ていたか、ワタクシ耳が聞こえないので分かりません)。
あまりにも自然体で話しかけてきたので思わず「あ、はい。左様です(んなこと言ってない)」。
おじさんは流暢な手話で「それなら、駅の裏口にもう一店美味しいところがあってね、行ってみたらどうじゃ」。
「駅の裏?歩いて近いんですかね」「うむ、そうじゃ、5分もないかな」。
店名を聞いてからお礼を伝えて、私たちは移動。案の定(2回目!)、そのお店も混んでいました。
おじさんからの情報は、普遍的な情報だけれど、耳が聞こえないワタクシにとって価値のあるものでした。なぜなら、行きたかったお店に入ることができなくて次の選択肢を考えようとしたタイミングで情報が入ってきたから。
耳が聞こえていれば、聞き耳を立てて「ん?どうやら、他にも美味しそうなところがあるようだ」と何となく情報を得ることができてしまう。それが、耳が聞こえないとなると、情報が自然に入る、ということが難しくなってしまう。
おじさんの情報が、私たちの町歩きに付加価値をもたらしたようなものです。
手話で話しかけられたので尚更、価値のある情報に。
「なんだ、蕎麦が好きかって?んなこと知るか」と懐疑的になる人もいますが、「おお、ありがとうございます!」と喜んで受け止めた方が自分にとっても町の魅力に触れる良い機会になります。その情報に価値を感じるかどうかは自分次第。
ところで、その日の帰り道で、おじさんは聴者か難聴者(少し聞こえる人)のどちらかかなと友人たちと話していました。
外見上、耳が聞こえるかどうかは一見分からないものですが、見知らない私たちに声をかけ、お店の情報を教えてくれている姿を見ると、聴者もしくは難聴者の可能性が。
ろう者の場合、「あ、手話使っている!誰だろう。君、誰?」「どこの学校出たの?」という質問から始まるケースが多いような気がします。
全員が必ずしもそうだとは限らないけれど、あらためて比較してみるとおもしろいですね。
今日もごきげんよう。