下手だったら下手のままになっちゃう
ここ数日、新しい仕事も入って一日の時間があっという間に過ぎています。
外に出る時間が増えて、夕暮れの時間になると夏の終わりを実感。なんだか切ないような。センチメンタル。
久しぶりに知人に会い、なぜか仕事の話になりました。
一緒に働いている人が「私、頭悪いからムリ、ムリ」が口癖のようで、知人は困っていました。「つべこべ言わずにさっさと取り掛かってくれ」と言いたいところを我慢しているとのこと。ああ、大変ですね、これは。
そういえば、似たようなケースが手話の世界にもありました。
手話通訳者の中にもそういうタイプの人がいて「手話下手だからごめんなさいね」とろう者に伝えている人がいます。
ろう者のほとんどは「そうですよね」と同意はせず、「いえいえ、そんなことないですよ」とやんわりと否定し、励ますつもりで答えていると思います(というより、そういう対応の仕方しか見たことがない私。「そうじゃ、君は下手じゃ」とストレートに言う人は稀かもしれない)。
手話通訳がなかったら困るのは、ろう者本人。それを一番、本人が分かっているから、できるだけ通訳してもらえるよう、下手なことを言わないようにすることもあります(そこまで考えているかどうかは別として、生きていくためのスキルとして染みついている)。また、日本人である以上、極端な言い方を好ましく思わない風潮があることを理解し、敢えて言わないまま、というケースもあります。
そこで通訳者はなぜ、そこまでして予防線を張っているのでしょう。
「そうじゃ、君は下手じゃ」と言われる可能性は低いはずなのに、やはり嫌なことを突っつかれたくない、のが人間の本能ということでしょうか。
「手話が下手だからごめんなさい」ではなく、「手話、まだ勉強中なので下手かもしれないけれど頑張ります!」の方が、私は応援したくなるし、頼もしい!と思うのだけれど。
下手と思ったら本当に下手のままになっちゃうし、無理と思ったら本当に無理になってしまう。必要以上に、予防線を張らないで勇敢にチャレンジしていくプロ意識がもう少しあれば、ろう者も通訳者を敬い、社会資源として様々な方向へ活用していくことができるのでは(面接会や講演会だけに限らず、セミナーやイベントでも手話通訳をつけることができる機会)。
久しぶりに手話通訳について考えてみました(普段は、仕事上、スタッフと同行して通訳を使うこともあれば、パソコンの文字通訳みたいな形で打ち合わせています)。
今日もごきげんよう。