うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

ろう者のコンプレックス

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8月13日月曜日。お盆休みに入った友人から「ねぇ、難聴者とろう者って何で壁作ってんの?」と質問が。思わず、「え?どういうこと?」と聞き返してみると、どうやら「難聴者とろう者ってお互いに関わりたがらない雰囲気がある」と見えたそう。今時、まだそういう話あるの?と思った私。

 

ちなみに友人は、耳が聞こえる人。「同じ聞こえない者同士なのに、見えない壁というか、何でだろ?」と前から不思議に思っていたとのこと。

 

誤解のないように書きますが、難聴者とろう者の区別は医学的、文化的、社会的な背景が絡んでいるので「Aは難聴者である」「Bはろう者である」と一概には決められません(聴力だけでは決められない)。あくまでも、事実を伝えたり、状況を分析する上での区別はありますが、もちろん個々の違いはあります。日本人という一括りをしても、背が高い人だったり、人とは違った趣味を持つ変わり者がいたりと個々の違いがあるのと同じで。

 

聴覚障害者の中には、難聴者、中途失聴者、ろう者という呼称があります。

友人が話していた難聴者というのは、中途失聴者も含めて音声言語(日本語)を話す聞こえない人であり、ろう者というのは、ほとんど耳が聞こえず手話を使う人、のことを指していました。

 

手話の世界にいると、しばしば難聴者とろう者の対立の話を耳にします。対立とはいっても、全てが敵対関係にあるわけではなく、あくまでも二つの立場があって双方の意見が出てくるのですが、残念なことに敵対意識を持つ人もいないわけではありません。

 

「難聴者は、ろう者の気持ちが分かっていない」

「ろう者は、難聴者の気持ちが分からない」

 

聞こえる立場から見れば、なぜ聞こえない者同士なのに対立するの?と思っても不思議ではありません。かといって、日本人全員が仲良しかといったらそうでもない。そういう話をすると「それは分かるけれどね、でもなぜ助け合わないの」と思うそうです。

 

私が勤めている施設には、聴覚障害者の利用者さんが通っています。ろう者が大半を占めますが、中途失聴者、難聴者の方もいます。

ここでいう、ろう者というのは、手話を中心にしたコミュニケーション方法を持つ人。

難聴者と中途失聴者は、手話が分からず、日頃の会話方法が音声言語ベースである人。

 

双方のコミュニケーション方法は、現在は手話、筆談、口話など様々です。スマホにある音声認識のアプリを活用している時もあります(UDトーク)。

 

当初、「難聴者とは関わりたくない」と話すろう者もいました。理由の一つが、ろう者が抱いている劣等感の大きさ(深さ)。

  • 自分よりも、聞こえている。
  • 自分よりも、綺麗な発声ができている(発音が分かりやすい)。
  • 自分よりも、聞こえる人との関わり方が上手。
  • 自分よりも、いろいろなことを知っている。
  • 自分よりも、文章(日本語)を上手に書けている。

 

 

まぁ、こんなにあったの?

と思うけれど、ろう者の中には「劣等感」という日本語を知らない人もいます。でも本人が話されている内容や難聴者に対する接し方を見ると、上記の言動が出てきています。無意識に「あなたは、私よりも頭がいいのね。だったら喋れるんでしょう」と話しているろう者もいます。

 

喋れる、ということについては、手話を使っているあなたも喋っているから同じことですよ、と私はいつも言い返していますが、ろう者にとって「喋る」は「日本語を声に出して話す」ということなんですね。

 

この劣等感は、あくまでもろう者自身が抱いているものであり、全員が必ずしもそうだとは限らないです。

 

反対に難聴者にとって、ろう者に対する劣等感はあるのか。劣等感という言葉にフィットするか分かりませんが、手話ができることに対する羨ましさ、というのを抱えている人もいます。

実際に本人から「あなた、手話できて良いわね」と言われた時は驚きました。

 

先述した、難聴者と関わりたくないと話していたろう者は、今はどうなったかというと、「話したいと思ったら話しているし、関われてよかった」とのこと。

劣等感はどこへいったのでしょうか。

 

関われてよかった、と思うまでの過程を振り返ってみると、第三者であるスタッフがろう者と難聴者の間に立ってコミュニケーション支援をするだけにとどまらず、ろう者に対して「難聴者というのは、完全に聞こえるわけではない」という基本的なことを説明したり、難聴者の置かれた環境に関する情報を提供したり。

 

また、難聴者からは手話を覚えたいということで、ろう者から教えてもらう関係性を構築できるように働きかけていました。ただ、今回は第三者が介入したことで、お互いが直接コミュニケーションを取れるところまで持っていけたので良かったけれど、どうしても本人の価値観に左右されるあたりは難しいところです。

昔いじめられたとか、そういう部分はどうしようもないです。

 

程度こその差はあれど、関わりを持つことはできるので、双方が必要としている限り関係性を構築できるための環境作りは大事なこと。それがどのくらい、関係者の間で理解されているかは未知数。残念なことに、手話通訳者の中には「難聴者は手話を覚えようとしていないから困る」と平気で話す人もいます。

 

手話は、本人が必要と思って初めて身につけられるもの。

ろう者は「耳が聞こえない」という生死に関わるものがあるから手話を使う。日本語も。

 

 

手話ができない難聴者はたまたま手話を必要としていない環境にいた、残存聴力があった、など様々な背景があります。その上で、本人が手話を覚えよう!と思ったら、もうあっという間に身についちゃいます(日本語対応手話と日本手話の違いはありますが、今回は割愛)。

 

ということで、要は関わりたいと思った時に関係性を構築できれば、ろう者でも難聴者でも助け合うことはできる、という結論を友人に伝えました。

 

「誰が聞こえないとか、誰が聞こえにくいとか意識しなくても、その場にいる全員が心地よく過ごせたら良いよね」という友人の一言。シンプルだけれど、私が仕事を通して目指しているコミュニティ作りはまさにそれなんだよなぁ。

 

ということで、私たちのティータイムはあっという間に夜を迎えました。