うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

聞こえないから分かること?

今週は連日連夜、ずっと出かけていて更新が止まってしまいました(止めてました)。

毎日続けることって、しんどいと思いながら、でも何のために書き続けるのか。更新していない(しない)間にずっと考えてたら…。

 

聞こえないことを中心に、徒然なるままに発信することで誰かにとって「ああ、そうなのね!」とプラスになれたらと思って始めたブログ。でも最近、毎日書く作業が目的化していないかなって。

 

これから時々、「あ、また更新されてないな」と思ったらハッパかけてください〜

 

 

ところで、前からずっと気になっていたことが。

耳が聞こえない人の中には、手話を知っている(使える)人もいます。手話が使えない人もいます(むしろ、後者の方が圧倒的多数派)。

 

耳が聞こえないのに手話が使えないのは、様々な背景があります。

  • 地域の学校に通って、周りには聞こえる人ばかり、手話を覚える必要性に迫られていなかったから。
  • 周囲に手話のできる大人がいなかったから。
  • 前はふつうに聞こえていたのに、途中で聞こえなくなったから。
  • 歳をとってから、だんだん聞こえにくくなったから。
  • その他

こうした背景を知ろうとせずに「耳が聞こえないのに手話ができないの?」という見方は、「耳が聞こえないのに、手術しないの?人工内耳にしないの?」という見方と同じ。

 

中には、人工内耳をつけて、手話もできる人もいます。ほんとに、ひとことで聴覚障害者といっても、背景が様々。人間だもの。

 

「聴者(聞こえる人)ばかりの飲み会には行きにくい」

 

時々、そういう声を聞きます。行きたくなかったら、行かなくてもいいのですが、会社の付き合いで止むを得ないという事情がある人にとって、聴者ばかりとの飲み会は精神的にもキツいそうです(手話ができる聴者なら、話は別)。

 

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このような状況、手話ができない聞こえない人にとって「手話だけで話されている飲み会は行きにくい」状況と似ています。

手話を学ぶ聴者の中には、「ろう者ばかりの飲み会、交流で手話を覚えました!」というケースがあります。だから、手話ができないのなら、学ぼう!という気持ちで参加すればいい、という容易な解決策を提案するにはちょっとどうなんだろう、って。

 

手話ができないことによって、いわゆる難聴者と呼ばれるのですが、そういう人にとって「同じ聴覚障害者でありながら、話の中に入れない」という状況は、普段、聴者ばかりの環境にいながら、同じ障害を持った人とも分かり合えない。

これを苦しみと捉える人もいれば、諦めている(割り切っている)人もいます。

 

そうした人との関わりを持っていると、「情報があること、情報がないこと」について考えさせられます。

手話だけの飲み会では、手話で会話のやり取り(話の内容はともかく)が行われ、自分にとって有益な情報なのかどうかの判断ができるかどうかは、手話を読み取る力に関係しています。

 

手話を普段使わない、手話を知らない人にとって、手話を読み取るというのは相当努力が要るもの(中には、天才的な頭脳を持っている人も!)。そして、手話を使うろう者にとって、情報がない(入らない)ことの苦しみは、聴者よりも知っています。体感的に。

 

残念ながら、それでも、手話が分からない人にとって「今、情報が入っていない」という状況に気づける人は少ないようです。さりげなく、「今の話はこうだよ」「ちょっと書くね」という配慮(声がけ)があるかどうかによって、手話に対する見方が変わるのに「聞こえないのに手話ができないの?」と見下してしまうことがあります。

 

一体、どうして聞こえない人同士であるのに、分かり合おうとしない?

 

共に生きること、とはどういうことでしょう。飲み会が続く連日連夜の中で、ふと思ったのでありました。

 

今日もごきげんよう