何かをやめる選択肢があるということ
4月23日月曜日。
夏のように暑くなったと思ったら急に寒くなってきたりと、服の調節が難しいこの頃。
風邪をひいていませんか。
新入社員、新入生にとっては緊張感が少し解れてくる時期。
ある意味、一つの区切りでもあるこの4月、新しい生活にわくわくしたり、人生の岐路に立たされたり…といろいろな人がいます。
今までチャレンジしていなかったことを始めてみたり、新しいサークルや部活に入ってみたりと試みる人もいれば、何かをやめる人もいます。この「やめる」というのは、人によっては「本当はやめたいけど、なかなかねぇ…」といったように、なにかとハードルが高いものでもあります。
部活がしんどいからやめたいけど、せっかく入ったのだからもう少し頑張ってみよう。
仕事が思っていたのと違って大変、辞めたいけどもう少し我慢してみよう。
といった具合に。
時間が経つにつれて、いろいろなきっかけが舞い込んで「よし、やめる!」と決断できることもあれば、「やっぱりこのままがいい」と思いとどまったり。人生、常に選択の連続なのかもしれません。
「あれを食べたいけど、今日はこれにしようか」「晩御飯はこれを作ってみよう」と、いつも何かを決めて行動しているのが人間。決めるという行為の中に、無意識の習慣も含まれていますが、「続ける」「やめる」の選択肢は誰でも持っているもの。
たまに相談されることがありますが、「手話をやめようと思う」「手話通訳をやってきたけれど、もう嫌になったから手話をやめる」という声があります。手話を学んでいる聴者と接する機会がある私にとって、この言葉を聞くと少なからずショックを受けます。何がそうさせたのか、と話を聞いているうちに大体、原因は分かりますが。
でも、手話を学んでいる人にとって「続ける」「やめる」の選択肢があるのは当然のこと。無理してまで続けて自分の身体を壊してしまっては本末転倒。
私も英語の勉強をやめたり続けたりとコロコロ変わっているので人のことは言えません。
でも、私と手話で話をしている間に「手話をやめようと思うんだ」と相談されると、胸に刺さるものが。私との間に、手話を無くしたら…それは私とあなたとではお話ができないってこと?と複雑な心境に。
私自身、耳が聞こえないのでコミュニケーションの方法は「口で話す」「口を読み取る」「筆談する」以外に、手話も含まれています。手話を生きた言葉として使っているので、私の中で「もう手話は絶対使わない、手話をやめる」という選択肢は初めから無い。というか、そんな選択肢を持つというのは、自ら生きることを放棄することに近いようなもの。
でも聴者にとっては、手話をやめても困ることは少ない。仮にあったとしても、聞こえない人よりはダメージがそこまで大きくない理由は、声で話すこと、声を聞くことによって人と繋がる方法が残されているから。
聞こえない人にとっての手話は、聞こえる人にとっての声、と同じくらい、生きていくために必要なものの一つ。
だから、聞こえる人から「手話をやめる」と相談を受けた時はそういうお話をしています。その上で、決断したことは尊重しています。
もう少し、手話を学ぶ人にとって優しい世界であったなら…と時々願わずにはいられません。
そして、何かをやめる、ということは何かを始める、と同じくらいポジティブなものでありますように。