うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

声を出さない理由

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2月11日月曜日。雪が積もった!と思ったらもう溶けています。今年の冬は、新潟らしくないので変な感じ(新潟市内)。

 

雨と違って雪は音がないので、寝ている間に外が真っ白になる、ということがあります。雨といえば、職場で「ああ!ものすごい雨だわ」とスタッフが教えてくれます。「今の聞こえた?すごい音ですよ!」とか。音で天候が分かるっていいなぁと思いつつ、でも雷が激しい夜でも寝れるのでお互い様。

 

そして、音といえば「なんで声がないの」ということが話題になります。ろう者の中に、手話を使って話す際、声がない人もいます。

正確には、「出せない」。声を出すこと自体はできても、発音が不明瞭だったり、声の大きさ(出し加減)の調整が難しくて「出すことをやめる=出せない」ことを選んだ人もいます。

 

また、日本語と手話は同じ構造で成り立っているものではないため、二つの言語を同時に使うことで混乱してしまう。そういうことで、声を出す必要がないということもあります。

 

声を出さない、出せない=口を閉じる、ではなく、口は動いています。口を閉じたら窒息しちゃいますからね。私でもできません、うぐぐ。

 

でも、お菓子を頬張りながら手話で話すときは、口を閉じています(話が通じるように見える理由は、話し手が、口を閉じた時に欠落する情報を別の方法で補うよう意識しているから)。

 

一方で、ろう者の中には声を出す人もいます。学校教育を受ける段階で「声を出すこと」が発音の明瞭度に関係なく、良しとされている価値観を刷り込まれた結果、身体に染み付いています。また、声を出すことによってコミュニケーションがより円滑にできるのであれば、その方法を選択しているだけに過ぎないということもあります。

 

ここで私が気になるのは、話し手であるろう者が声を出しているので、聞き手(聴者)が「聞こえる人のように話せているのだから、耳が聞こえている」と無意識に錯覚してしまうこと。悪意はなく。

 

「声を出すこと」と「耳が聞こえること」は別物と思って生きている私にとって、二つの行為がセットされて「声が出せる=聞こえている」と錯覚してしまうのはどうしてなのだろう、と常に思っていました。

 

以前、こんな場面がありました。

中途失聴者の方が話をする際、本人はほとんど聴力がない状態にもかかわらず、周りの聴者が声だけの手段で話そうとしている。筆談もしくは手話で話す方法は、本人も周りも知っているのに、です。なんとも不思議な光景だなぁと眺めていたら、本人が「うん、うん、そうなのね」と反応していたので、その場は声だけのやり取りで終わっていました。でも後で本人に聞いてみると、「実はあまりよく分からなくてね。でも、途中で分からないなんて言えないのよ」。

 

 

聴者も、実は耳が聞こえているから声だけの会話でも十分かというと、そうでない人もいます。聴覚過敏だったり、音声だけでは理解しきれないため、絵に描いたり、文字にすることでよく分かるようになったという人もいます。私も、聴者と話をするときは筆談だけに限らず、本人が理解できる言葉をチョイスし、方法を変えてみたりとアプローチを試みています。時には、英単語を使ってみたり。

 

人と話すときは、声だけに限らず、様々な方法を使いながら本人が「分かる」方法を編み出していく。これがお互いにできた時に初めて、通じ合う喜びが生まれます。

 

言語を学ぶということは、通じ合う喜びを得られる道のりを辿っている行為であり、学べば学ぶほど、喜びも深まってくると思います。

 

ところで、手話を勉強するにあたり、声が必要なのかどうかと相談を受けます。

学び始める年齢や本人の言語力(母語の力)にもよりますが、学習方法として声(日本語)が必要であれば取り入れる。ろう者のような手話を目指すことは、目標として重要である一方、同化としてでなく母語以外の言語であることを前提に、勉強することが大事。

ただ、ここで、声を出しながら手話で話をすることが確実にろう者に伝わるとは限らない、ということもしっかり理解してもらえるように、教える側としての研鑽が求められてきます。

 

声をめぐって、考えを巡らせてみると発見がいろいろ出てきますね。