そでのした
袖の下というのは、「人目につかないように袖の下から贈る物。賄賂(わいろ)」。
手話の表し方も、まさにそんな感じ。テレビドラマの時代劇を見たことがあれば、なおさらイメージしやすいです。「ふふ、お主も悪よのう」。
そんな言葉ですが、ポチ袋に書かれている「そでのした」は、あくまでも冗談の一つであって、ユーモアさに笑うか、「ナンジャコリャ」と半ば呆れるか、という反応が見られます。
しかしながら、日本語を知らない人、日本語を学んでいる人から見れば、真に受け止めてしまいかねない表現でもあります。写真のようなポチ袋を受け取ったら、おそらく「む、無理です!こんなの受け取れません!」という反応があるかもしれません。
どうして、こういうギャップが起きるのでしょうか。
「好き」という言葉も同じで、日本語を母語とする人は「こういうの、好き」から「あなたが好き」と幅広い意味で使っています。当たり前すぎて「何?幅広いって?」とハテナ状態になりますが、日本語を学ぶ人の間では、手話での「好き」という表現は誤解を招きやすいです。
上記の「そでのした」と同様、「む、無理です!好きって言われても…」と真に受け止める反応が見られます。ろう者の誤解を嘲るような人がいますが、日本語をあまり知らない、知る機会がないろう者にとって、周囲の誤解はとても厄介でタイヘンでもあります。
言語の違いといえば、文法、語彙の表現が異なるだけでなく、文化的(言語的?)な背景も含まれているので、とても奥深いです。
いわゆる「日本語対応手話と日本手話」の論争に近いものがありますが、当事者の間では言語の違いから来るギャップについてあまり丁寧に語られてきていないように思います。なぜ、ズレてしまうのでしょうか。
続きはまた次回。今日もごきげんよう。