コーダの存在
こうだから、こうしないといけません。ああだ、こうだ。
すみません、そういうことではなく「コーダ(Coda)」。
手話を使う人の間では「コーダ」についての話題も出てきます。
コーダというのは、Children of Deaf Adultsの頭文字をとったもので、「聞こえない大人から生まれた子ども」。
聞こえない大人から生まれる子どもも、耳が聞こえない場合は「デフファミリー(聾家族)」。ろう者が生まれる環境の割合としては10%と言われています。
残り90%は、聞こえる大人から生まれます。この数字、どこから出ているか興味深いところですが、手話の本では定番というか、よく言われている数字です。
確かに、今まで出会ったろう者は、「親が聴者」>「親もろう者」というふうに、前者が多いです。
ところで、コーダについては「コーダの世界」(澁谷智子著)という本が有名。
ろう者の行動とコーダの行動、そして取り巻く環境が言語化されていて、私もろう者でありながら「そうなのか」と驚かされることもあります。
ろう者の友人や年上の人と話をすると「え?コーダって何?」と聞かれることがあります。珍しいことではなく、それが一般的であり、息子さんや娘さん自身もまさか、自分がコーダと呼ばれる存在であることについては知る機会がほとんどありません。
手話のできる大人やろう者について熟知している人が周りにいれば、手話に対しても肯定的になれるケースがあります。
コーダの中には、ろう者や手話に対して否定的な見方を持つ人もいます。正確には、持たざるを得なかったかもしれません。聞こえない親を持つことで通訳をやらないといけなかったり、親戚や周囲から無言のプレッシャーを受けてきたため、手話そのものが嫌になってしまった人もいます。
時々、外食していると「あのう、すみません。ろう者ですか」と店員に声をかけられます。「私の両親、ろう者なんです」「うちの親、知ってますか」とも。
ちょっとした会話ができただけでも嬉しいのですが、「すみません、手話が下手なんで」「私の手話は家で覚えてきたので、正しい手話なんて知らないのです」。
このように、手話に対して否定的な言い方をしているコーダもいました。
手話サークルに顔を出さない理由も、親から教えてもらった手話は「みっともないもの」と位置付けてしまい、綺麗な手話を使う聴者たちの中に入れないと思ってしまっている。
また、初対面のろう者に対して「手話が下手なんで」というのは、ろう者に対する礼儀作法のように、一言断りを入れておくことでいきなり手話オンリーで話されなくても済む、というものかもしれません。
「手話が下手なんで」。
その一言だけで、彼らが置かれた環境が凝縮しているような気がしました。
コーダの友人に聞いてみると「ろう者の元で生まれたから手話分かるよね、と決めつけられるのが嫌だった」。「親がろう者ということを、誰にも知られたくなかった」。
中には、手話で育って手話通訳の活動に関わる方もいらっしゃいます。全員が親を否定しているわけではないけれど、様々な環境で育っていることは事実。
コーダを育てているろう者自身も「コーダって何?」という話があるくらいなので、地方に行けば行くほど、まだよく知られていない言葉ともいえます。都会では、コーダの集まるコミュニティを作り、交流を図ることで日々の悩みや思いを共有しています。
地方でもそういう集まりがあれば、コーダしか分からない部分が共有できて本人にとっても安心できると思うのですが、案外見えにくい部分でもあり、まだ発展していない状態でもあります。
コーダにはコーダの思いや考えていること、感じていることも様々なのでもっと話を聞いてみたいです。
もしかしたら、あの頃、小学校や中学校の時にすれ違ったあの人がコーダかも。