That's my bag.それは私の好きなことよ。
5月3日木曜日。連休ラッシュピーク、とニュースが流れている中、読書タイムがいつもより多めに取れて嬉しいこの頃。
今回読んだ本は「同時通訳者のカバンの中」。タイトルからにして興味を持つ人は、通訳を経験している人か、もしくは文房具好きな人かも。今回、なぜこの本をチョイスしたのかというと…私にとって通訳は身近なものであり、仕事で通訳者と関わる機会があります。
著者は関谷英里子さん。以前に「同時通訳者の頭の中」を出版されていました。関谷さんは英語−日本語の通訳者で、一通訳者としての心構え(気持ちとかそういう部分ではなく、具体的な準備やトレーニング方法)を分かりやすく解説されています。
例えば、事前準備については…
まず内容の全体像を理解し、話し手の雰囲気を理解する、という方法で準備をすると、当日もそのスピーカーの雰囲気をつかみやすくなりますし、話の文脈が似ていればスピーカーが話す次の言葉を推測しながら通訳することができます。
英語と日本語が一対一で置き換えられないので、(中略)正解はひとつではない分、状況に応じて対応していけばよいのです。
わたしは、このスピーカーが日本語を話したらどのようになるだろうか、という感覚を研ぎ澄ませて言葉を選ぶようにしています。
手話通訳も同時通訳を行なっているので、上記のことは「言われなくても分かっている」範疇に入ると思います。私の知るプロの手話通訳者たちは、事前に必ず打ち合わせを行い、事前に情報を収集し、そして日本語と手話の選択を慎重に考えながら通訳しています。
ただ、手話通訳者の中には「このスピーカーが日本語を話したらどのようになるだろうか」という部分を、「このろう者が日本語を話したら…」に置き換えてみる。それが感覚的に理解できる人とそうでない人に分かれるかもしれません。
手話と日本語を一対一として捉えて通訳してしまう人もいます。
例えば、ろう者が「意味 / ない」と手話で表す場合、「意味がない」と訳すこともできますが、状況によっては「時間の無駄です」とか「そういうのって必要ないかも」という選択肢があります。
手話は、日本語の単語をそのまま手の形に置き換えたものではなく、顔の動きも含まれています。しかしながら、手話の世界では適切な指導を受けられる機会が数少ない地方もあり、通訳実践の場でなかなかフィードバックを得られないこともあります。
このため、ろう者の意図を汲み取ることができず、予想外の通訳実践が起きてしまうことがあります。
また、ろう者にとっての日本語は第二言語でもあり、書記日本語でもあります(生まれながらの母語は日本語のはずなのですが、耳から得られる日本語の量は、聴者より圧倒的に数少ない)。このため、日本語が持つ感情(聴者が受け止める部分)と微妙にズレてしまうことがあります。聴者も人によって語感が違うのですが、そういうズレとは別のところにあるような気がします。
通訳者は聴者が発する日本語の世界に住んでいるので、ろう者が発した時に「おそらくそういう意味だと思うけど、今はこの場にふさわしくない」と判断し、適切な日本語に訳すことが仕事。
人間が行う仕事なので無論100%訳すことは求めていない。何よりも大事なのはその場にいる聴者、難聴者、ろう者が「相手の言いたいことを、情報として理解する」という環境作りなのでは。
と、話がかなーり逸れてしまいました。今回の本は、今の通訳技術に満足できていない方にオススメの一冊。通訳を使うクライエント(ユーザー)、特に手話講師は読んだ方がいい一冊。
ところで、私のカバンの中には「耳かき」が入っています。耳が聞こえないのに意味がないって?
動画で見る「聞こえない世界」
5月1日火曜日。ちょっと時間があったのでYouTubeで調べものしていたら、「聞こえない世界」が垣間見える動画を発見。
これは、ろう学校の一日の様子が分かる動画。
子ども同士の会話はもちろん、相手に話しかける時や遠くに座っている人に声をかける時の仕草に注目。聞こえない人なら「そんな当たり前のことをなんで描くの?」と思うくらい、日常生活では当たり前の仕草が出ています。また、ろう学校の寄宿舎の様子も。
次は、大人(?)の生活編。聞こえる人たちとの関わりも描かれています。
例えば、机の上に置いたスマホが鳴っているとき、隣の人から「うるさいよ」と指摘されて初めて気付く場面。他にも、聞こえる人から「あのう」と声をかけられているのに全然気づかない場面。
A Day Through a Deaf Person's Eyes
こちらは、ロシアの短編映画。手話は全然分からないけれど、ストーリーがなんとなく理解できる内容。ろう者の生活というよりは、人間関係のリアルさが描かれています。
ろう者ももちろん、人間。同じ障害を持つ者同士、仲が良いとは限らないし、良さそうな人もいればそうでない人も。そういった意味では、特別感はないものの、普遍的に描かれていること自体、国内ではあまり見られないんじゃないかな。
いずれも約10分〜15分なので、ちょっと一息や「なんか面白いものないかな〜」というときにぜひ。
左側だけしか弾いてなかった時代
4月29日日曜日。今日立ち寄ったイタリアンレストランでピアノを見かけました(あいにく写真無し…)。
ピアノといえば、左側だけしか弾いてなかった時代があります。私の中に。
鍵盤の左側は、低い音が出ます。右側は、高い音が出ます。
それがどうしたのか?というと…
弾いたことがある人は分かると思いますが、左側は響きます。手に。
右側へ弾いていくにつれて、振動が少なくなってきて、やがては響かなくなります。左側に弾いていくと、再び振動が戻ります。
子どもの頃、祖父母宅にピアノがあり、左側に座ってしょっちゅう弾いてました。当然、周りから「ちょ、うるさいのでこっち側(右側)もね」と言われたものです。
私の場合、耳は全く聞こえませんが、補聴器をつけると「音は分かる程度」です。しかしながら、高い音は補聴器でもほとんど聞こえず。
右側の鍵盤は、ただのボタンのような感じで、本当に音が鳴っているのか分からず、子どもながらに不安になったのを覚えています。左側の鍵盤は、振動で手に響いているし、補聴器を通して音が聞こえていました。
手で感じ取れる振動。
補聴器を通して聞き取れる音の響き。
それを楽しんでいた幼少時代を思い出させてくれたイタリアンレストラン。
今日も良い一日でした。また明日からも、素敵な発見ができますように。
何かをやめる選択肢があるということ
4月23日月曜日。
夏のように暑くなったと思ったら急に寒くなってきたりと、服の調節が難しいこの頃。
風邪をひいていませんか。
新入社員、新入生にとっては緊張感が少し解れてくる時期。
ある意味、一つの区切りでもあるこの4月、新しい生活にわくわくしたり、人生の岐路に立たされたり…といろいろな人がいます。
今までチャレンジしていなかったことを始めてみたり、新しいサークルや部活に入ってみたりと試みる人もいれば、何かをやめる人もいます。この「やめる」というのは、人によっては「本当はやめたいけど、なかなかねぇ…」といったように、なにかとハードルが高いものでもあります。
部活がしんどいからやめたいけど、せっかく入ったのだからもう少し頑張ってみよう。
仕事が思っていたのと違って大変、辞めたいけどもう少し我慢してみよう。
といった具合に。
時間が経つにつれて、いろいろなきっかけが舞い込んで「よし、やめる!」と決断できることもあれば、「やっぱりこのままがいい」と思いとどまったり。人生、常に選択の連続なのかもしれません。
「あれを食べたいけど、今日はこれにしようか」「晩御飯はこれを作ってみよう」と、いつも何かを決めて行動しているのが人間。決めるという行為の中に、無意識の習慣も含まれていますが、「続ける」「やめる」の選択肢は誰でも持っているもの。
たまに相談されることがありますが、「手話をやめようと思う」「手話通訳をやってきたけれど、もう嫌になったから手話をやめる」という声があります。手話を学んでいる聴者と接する機会がある私にとって、この言葉を聞くと少なからずショックを受けます。何がそうさせたのか、と話を聞いているうちに大体、原因は分かりますが。
でも、手話を学んでいる人にとって「続ける」「やめる」の選択肢があるのは当然のこと。無理してまで続けて自分の身体を壊してしまっては本末転倒。
私も英語の勉強をやめたり続けたりとコロコロ変わっているので人のことは言えません。
でも、私と手話で話をしている間に「手話をやめようと思うんだ」と相談されると、胸に刺さるものが。私との間に、手話を無くしたら…それは私とあなたとではお話ができないってこと?と複雑な心境に。
私自身、耳が聞こえないのでコミュニケーションの方法は「口で話す」「口を読み取る」「筆談する」以外に、手話も含まれています。手話を生きた言葉として使っているので、私の中で「もう手話は絶対使わない、手話をやめる」という選択肢は初めから無い。というか、そんな選択肢を持つというのは、自ら生きることを放棄することに近いようなもの。
でも聴者にとっては、手話をやめても困ることは少ない。仮にあったとしても、聞こえない人よりはダメージがそこまで大きくない理由は、声で話すこと、声を聞くことによって人と繋がる方法が残されているから。
聞こえない人にとっての手話は、聞こえる人にとっての声、と同じくらい、生きていくために必要なものの一つ。
だから、聞こえる人から「手話をやめる」と相談を受けた時はそういうお話をしています。その上で、決断したことは尊重しています。
もう少し、手話を学ぶ人にとって優しい世界であったなら…と時々願わずにはいられません。
そして、何かをやめる、ということは何かを始める、と同じくらいポジティブなものでありますように。
初めての環境に慣れるまで
4月2日月曜日。しばらく更新できていなかった…その間に読んでみたのがこれ。日本財団様発行による冊子で、障害者支援施設の取り組みや障害を持つ当事者の視点に立ったコラムなどが掲載されています。
ところで、「働く」といえば今日が入社式、仕事始めという方も多かったのでは。
私のところも新しい人材が入りました(もともと年度の途中で入るケースもあり、割と柔軟に対応している職場だと思います)。おめでとうございます。
めでたいはずなのですが、この「働く」について考えてみると…。同じ時期に入った同僚と比べたら、もっといろんな面で準備をしないといけないのが、障害を持つ人なのでは。
なんだか、この言い方だと「障害者はもっと働けというのか?」と誤解されてしまいそう。分かりやすく言うと「障害を持つ人は、常に何らかの準備をせざるを得ない」状況に置かれやすいのでは、ということです。
なんの準備かというと、気合いはもちろん、筆記用具やハンカチといった普遍的なものから入社する会社に関する資料までいろいろあるのですが、障害を持つ立場(会社の中で少数派)なら、これだけでは足りません。
耳が聞こえない立場の場合、あらかじめ周囲に「耳が聞こえません」ということを伝えないといけないので心構えはもちろん、どうやったら「耳が聞こえない」ことを伝えられるかを考えないといけなくなっちゃう。
声を出せばいいじゃない?と思っても、当の本人にしてみれば「声なんか出してもどうせ通じないから、紙に書いて説明しなきゃ」「メールでいいから何とか、耳が聞こえないってことを伝えなきゃ」と、障害について説明するための準備を要する。この時点で、同じ時期に入る同僚と比べて、相当な精神力を持ち合わせていないと長く勤まらないような気がします。
もちろん、職種や職場によってはわざわざ障害について伝えなくても、環境次第では「障害」が障害でなくなることも。
特に私の職場は、耳が聞こえる人がそういう立場に置かれやすい(普段は多数派なのに、少数派になっちゃう環境)ので、できる限り「日本語」も使いながら、音声に頼らないで文字に書いたり、メールで共有したりと行なっています。これを、合理的な配慮というらしいのですが、少なくとも私の場合は「一緒に働く以上、本人が分からないままではいけない。本人が分かってから初めて仕事が進むもの」と思っているので、当然のこと。それでもなかなかうまくいかない時ってありますが…。
もし、海外旅行や留学、外国人との交流がある経営者ならきっと、これに近い感覚で障害を持つ人と接することができるかも(中には、最初から自然体で誰とも関わりを持てる素晴らしい素質を持った経営者もいらっしゃいます)。
初めて入る環境に慣れるまでに要する時間は、千差万別。その上で、マイノリティの立場になる人はいつも少なからず何らかの準備をしている。
そして、この「準備」が何らかの形で報われることがあるよう、私も時々立ち止まって考えてみたいですね。
2011年3月11日に変わったこと
3月11日日曜日。この写真は、2年前に訪れた宮城県・女川町で撮ったものです。
今日会った人たちとは「あれから7年なんだね」「当時はどう過ごしてたの」とあの日が話題に。SNSでも「あの日を忘れない」と各地で黙とうが行われていたり、あの日を振り返って今をどう生きているか紹介されていたり。
これまでにも大きな災害は起きていたけれど、災害が起こるたびに「忘れた頃にやってくるから本当に気をつけなきゃ」と思う。思っていたところでどうにもならないけど、自分のことはせめて、自分でなんとかできるようにしないといけないな、と。
自分のことができないからダメだという否定的なものではなく、防災の基本として「自助、共助、公助」があるように、自分が助からないとどうにもならないのは事実。
世の中には身体を動かすことが困難な人もいる。物理的に難しいことは、共助、公助で対応していく。そんな当たり前のこと、いざとなったら無理だって!と思うこともあるかも。
でも、少なくともあの日が日本国民にとっては大きな影響を受けた出来事であることは、メディアだけでなく周囲にいる人たちとの会話からでも十分、伝わってきます。
また、新潟の人たちの話を聞くと中越地震の話も出てきます。2004年10月に起きた地震。
当時、私は新潟に住んでいなかったのでテレビで見たことがある映像(避難所で生活している様子)だけしか想像できないのですが、相当な大きさだったようです。
それでも、やはり東北地方で起きた地震は衝撃的であり、新潟に避難してきた方々もいたことが今でも印象に残っている、というお話もありました。
当時の3月11日、新潟市も揺れました。
結構長い揺れだったので、さすがにおかしいと。そのあとはニュースで流れてきた津波の映像が、現実的には思えなくて。数日後の新潟駅では、大きな荷物を抱えてホームから出てくる人が次から次へと。いつも明るかったはずの駅が暗くなっていたり(計画停電の影響)。
コンビニやスーパーに行くと、パンやおにぎり、ペットボトルがほとんど無くなっていました。まさか、新潟市にもここまで影響を受けるとは。
いつでも避難できるように準備してはみたものの、余震が続く中で何かと落ち着かなった日々。津波の被害を受けた方々、住んでいる場所やコミュニティが壊滅され避難せざるを得なくなった方々の身を考えたら本当にいたたまれない気持ちに。
ただ、この日を境に、関わっていたプロジェクトが実施できなくなり、一から立て直すために奔走する1年になったのでした。新潟から東北地方は近いのに、震災地へボランティアに行くとか支援物資を送るといった具体的な行動に移すことができなく、今後のプロジェクトを推し進めることだけにしか集中していませんでした。
結果的にそのプロジェクトは今の仕事に繋がっているのですが、3月11日を振り返るたびに「もう少し、周りを見渡して自分にできることをやれたらよかったのでは?」と思わないわけにはいかなくて。
自分ができることって、はたから見ると本当に小さなことなんだ、と。
でも、ここ最近は、そういう気持ちよりも、今目の前にあることを一生懸命やることが私なりの復興への応援というか、そうすることが一市民としての生き方として大事なんじゃないかなと思うように。
その上で、余力があったらもう一度、東北地方に訪れてみようと思っています。
3月11日の出来事を背負って生きている方々、当時も今も具体的なアクションを起こせている方々に敬意を表すとともに、亡くなられた方々への冥福をお祈りしながら、今を生きていること、同じ時間を過ごしている人たちに感謝、です。
そして、一人でも多くの方が「ああ、幸せだなぁ」という気持ちになれますように。
砂糖から考えた日
3月10日土曜日。さとう、の日。さ(3)、とう(10)。
このような日本語的な発想は、いわゆるダジャレなのですが、日本語が分かっていれば通用することが前提。音声による日本語がベースに。
「ここは本当に、鹿しかいないね」
「今日は晴れてるから、鴨が見れるかもしれないね」
・・・あまりよろしくないダジャレで申し訳ないです(汗)このようなダジャレをろう者に伝えてみたら「どういう意味?」と真顔で聞かれました。
どうしてこういうところで笑うのか、ということが理解できないと。
そりゃそうです、元のネタが面白くないから。
・・・なのですが、その前に「鹿」と「〜しかいない」、「鴨」と「〜かもしれない」のように、ここが「おもしろいか、つまんないか」を見極めるポイントであることが、本当に分からないということ。
なぜ分からないのかって?
聞こえる音から成り立っている日本語だから。日本語を知っている人だけが通じてしまうのが、ダジャレ。
ただ、誤解のないよう、日本語を巧みに巻き込んで手話にすることもあります。ろう者が集まるコミュニティの中にだけ通じる手話として。
日本語にも、そのコミュニティの一員なら「あー分かる分かる!」言葉があります。
例えば「めいえき」。
名古屋(愛知県)市民なら一発で「名古屋駅」だと分かります。名古屋の「名」と「駅」の組み合わせ。
そういった現象が手話にもあります。例えば「サイボウズ」。
夫婦別姓が話題になっている会社サイボウズ様のグループウェアについて、話をしていた時。
指文字の「サ」を表した利き手(グーの形)を頭の上でぐるぐる回す(お坊さんの表現)と、「サ」+「ボウズ(坊主)」。
でもなんだかんだ言って、元が日本語だから手話ではない、という批判もありますが、当事者同士が合理的に通じている以上は、手話とみなしてもいいのではないかと。
そんなことを考えてコーヒー飲もうとしたら「砂糖要りますか」の3月10日でした。
予告編で観た映画が受賞
3月5日月曜日。雪が溶けてきたこの頃。写真は、3週間前のもの。
映画界にとってわくわく、ドキドキのイベントといえば「アカデミー賞授賞式」。
子どもの頃、テレビニュースでの結果発表に待ちきれず、家族で新聞紙を取り合って一喜一憂していました。あのピカピカの銅像を手元に置きたいくらい、魅力的に映っていました。当時はインターネットすら普及していなかったので、新聞紙、しかも夕刊が一番情報が早かったというアナログな時代。
今年で第90回を迎えた長い歴史のもと、今年の作品賞はなんと、以前ここに書いた映画が選ばれていました!
「シェイブ・オブ・ウォーター」
他にも、聞こえない子どもが主役を務めた短編映画も表彰されたとか。詳細はまだ確認できていませんが、手話が少しでも関わりがあると何だか嬉しくなりますね。
映画は人生の教科書
2月25日日曜日。早いもので2月があと3日で終わります。来週の今頃は3月に。
そんなの分かってるよ〜!ですが、今年の2ヶ月間はとても、とても長く感じました。
雪、雪、雪、、、
今も、道路の脇や駐車場には雪が残っています。今年ほどの積雪は初めて。
新潟市ならまだしも、豪雪地はほんとに毎年こんな感じで過ごしているのか〜と頭が下がります。
で、この2ヶ月間のあいだに観た映画は5本。
今までの生活から考えると、結構多いほう。
去年は映画らしい映画を見てなかった(映画館に行けなかった)し、見たものは海外ドラマ「The FALL」くらい。
ファーストシーズンしか見てないけど、このドラマ、知っている人は知っていると思いますが、犯罪ドラマとはいえ、最初から犯人が分かっている設定でストーリーが進められます。
なんでこういうドラマを見てるのか。理由は単純で、「X-FILES」のスカリー捜査官演じたジリアン・アンダーソンさんが主演だから。
「The FALL」の内容はあまりにも現実的で、見終わった後はなかなか衝撃シーンが脳裏から離れられなくなります。人間、そこまでやるのか?と疑いたくなるところもあるけれど、心理的な部分で気付かされることも多く、セカンド、サードと続編も気になるところ。時間的に余裕のある方は是非。
今年観た5本のうち、思ったより感動的だったのが「ジュリエットからの手紙」。
なんの予備知識もなく、予告編を見ていたら何となく気になってAmazonの「ウォッチリスト」に放り込んでいました。このリスト、便利ですね。
レンタル屋でいえば、観たい映画のタイトルをその場でメモするみたいな感じ。
先日、ちょうど時間ができたので観てみました。
ストーリーはこの通り。
ロンドンに暮らすクレア(ヴァネッサ・レッドグレーヴ)のもとに1通の手紙が届く。その内容は、50年前に彼女がイタリアで恋に落ちた男性との愛を貫けなかった苦悩を、ジュリエット宛につづった手紙への返事だった。その男性と再会することを決めたクレアはイタリアへ向かい、返事を書いたソフィー(アマンダ・セイフライド)と共に初恋の人を捜す旅に出る。
(yahooより引用)
記者を目指すアメリカ人女性・ソフィが恋人と休暇旅行でイタリアを訪れ、ジュリエット宛の手紙が寄せられる観光名所でお手伝いをすることから、物語が始まります。
その観光名所は実在しており、映画が公開された後、数倍の手紙が寄せられたとか。
イタリアの美しい街並み、イタリアの片田舎の雰囲気から、私も一緒に旅しているような臨場感が味わえます。それに、旅を通して同じ時を過ごすことで、お互いを知っていく過程が何ともいえない、初々しく、清々しい気持ちになれます。
手書き手紙が減り、メールが主流になっている今だからこそ、寄り添うことは相手を知ることでもあり、好きな人を大切にすることでもあることを教えてくれます。
最近何かと気が進まないなぁという方には、絶対元気になれる映画です。
映画はまさしく人生の教科書。
一筋縄ではいかない漢字の読み方
2月19日月曜日。平昌オリンピック・フィギュアスケートの結果に日本中が湧いた一方、将棋界では名人が負けを喫したというニュースが。
どちらも「羽生さん」が注目されました(今も!)。
テレビは連日盛り上がっているみたいですが、新聞にも大きく載ってて影響力のすごさを実感。
今日も仕事で会った人たちに「羽生さん、すごかったですね〜」「もうドキドキしちゃって生放送なんて見てられなかったわ」という会話をしてました。
でも、ちょっと待って。
羽生さんというのは、どっちの羽生さん?
将棋界の羽生さんは、「はぶ」さん。
スケート界の羽生さんは、「はにゅう」さん。
パソコン、スマホで入力するとき、おそらくみなさんは何となく呼び名で使い分けていると思います。仮に使い分けてなくても、二人の呼び名が違うことは当然、ご存知のはず。
でも、もし耳が聞こえなかったら?
テレビや新聞は「羽生」という漢字が出ています。フリガナが付いているのは、かなり少ないはず(今まであまり見かけたことない…)。それに、テレビなら、「はにゅうさんが〜」「はぶさんは〜」と誰かが発していればいるほど、耳から覚えられるので、自然と使い分けられる(中には、どうしても人の名前と顔が一致しなくてもどかしい人もいますが)。
耳が聞こえないので、どうしても漢字の読み方を間違えてしまうことがあります。
漢字がすっごく得意な人なら絶対間違えないかもしれないけど、大抵は間違えちゃいます。
実は、私、最近まで「はにゅう」さんを、「はぶ」さんだと思い込んでいました(あちゃ〜)。
羽生、という漢字の読み方が二つあることは知っていたのです。
でも、将棋界の「はぶ」さんの存在感が大きすぎたのでしょう、「羽生は、はぶ」だと。
思い込みって怖いですね。漢字の読み方を間違えちゃう原因は、だいたい「思い込み」。
こういう時は、もう話さないと分からないので、どんどん話をして「あれ?私は、はぶさんって呼んでるのに、(相手は)はにゅうさんと呼んでいる。むむ??」という流れで気づくしかありません。
ところが、手話での会話の場合、特に高齢者の方と話をすると「オリンピック/スケート/金メダル/若い男性」と、本人の特徴を視覚的に捉えた表し方になったり、羽生さんの身体的特徴を表したものになるため、音として「はにゅう」と発する必要性が減ります。
そのため、ふた通りの読み方があることを知らないまま話が進められていく、ということがあります(手話の場合、名前を呼び合うよりも、身体的特徴などを捉えたサインネームや指差しで名指しすることがあります)。
日本語は英語、中国語などと同じように音声言語の一つ。
知らない間に、耳から音(日本語など)が入って、覚えてきた名前は多いかもしれません。
もし、誰かが間違って読んでいたら「あ、○○さんですよ〜漢字って難しいですよね」とさりげなくフォローしてみてください。
ああ、金メダルを取ったのは、ええっと、「はにゅうさん」。羽生さん、本当におめでとうございます!!