声と音声入力のお話
12月に入ってからブログの更新ペースが緩くなってしまいました。
「新潟の冬って本当に寒いですね」と関東人に言われて、「ウンウン、そうだそうだ」と思いっきり頷いているのですが、新潟の人も今年はさすがに寒いそうです。
来週水曜日あたりが雪マークになっています。
そういえば、みなさんは天気予報をどうやって調べますか。
テレビのニュースだったり、誰かに聞いたり、ラジオだったり。私はいつも
このアプリを使っています。
で、最近何かと話題になっているgooglehomeでも天気予報を調べることができるとのこと。手が離せないときや、何かに取り組んで両手が使えない時に、声で「今日の天気は?」と話しかけるだけで情報が入るそうです。機械が喋るみたいです。
おお、便利!と思ったのですが、私にとっては使えないかもしれません。
何が問題なのかというと、音声入力。
以前、iPhoneで音声入力を試みたことがあります(きっと、耳が聞こえない人で試した人は多いはず!)。Siriという機能です。知りたいから「しり」と名付けられた?
私の発音は、聞き慣れている人は大抵、何を言っているのか分かってくれます。
初対面の人にとっては聞き取りにくいようです。私なりに発音は気をつけていますが、自分の声が全く聞こえないので確認しようがありません。
そんな状態なので、Siriを使えば「聴者がどんなふうに聞こえているのか」を確認できるのでは、とちょっと遊び気分で試してみました。
ところが、これが難癖で。
どんな言葉を発しても「ほにゃらら〜」という感じで、正確に音声認識されず。全く言葉になっていなく、「すみません、何をおっしゃってるのか分かりません」とSiriに言われる始末。いやいや、Siriさん、頑張ってよ!と言いたくなりますw
近くにいた聞こえる人から「え?何で聞き取れないの?」とSiriの性能の低さに驚いていました(いや、性能が低いんではなくて、私の発音が問題なのかも?)。
でも不思議なことに「バラク・オバマ」と「ドナルド・トランプ」は正確に認識されていました。確かに、カ行、タ行の発音は言いやすい。
おそらく世界中の大勢の、一般市民が使う言葉だから発音が多少違っても、Siriなりの補正力があったのかもしれません。
今やスマホが主流になりつつあり、パソコンよりもスマホが便利になり、音声入力も便利という時代の流れになっている中、将来的にパソコンのキーボードがなくなり、音声入力で完結するというような話もあります。そういう時代になったとき、耳が聞こえない人で、自分の発音が確認できない人は置き去りにされるのでしょうか。
いえ、キーボードならではの便利さもあるのでそう簡単に無くならないとは思いますが、音声入力の機能が最初から使えないなんて何だか残念。
それにしても聴者の耳は本当にすごいです。私の発音に慣れているスタッフは、声だけでも通じるようになってきています。
慣れるまで時間がかかりますが、Siriさんも、もしかしたら慣れてくると正確さもアップできるということでしょうか。
音声入力、これからどこまで浸透していくのでしょう。
音楽と孤独とそれから
車の中で聞く。
お店の中で聞く。
くつろぎたい時に聞く。
音楽はとても身近な存在。街歩く人を見渡してみると少なからず一人か二人はイヤホンを耳に当てている、きっと音楽を聴きながら歩いている。
「この音楽を聴くとね、あの頃を思い出すのよ」
「好きだった人が聴いてた音楽だな」
「これを聴くとテンション上がる!」
人間にとって音楽はとても身近な存在。だから音楽が聴けなくなることが怖いのかもしれない。
かつて友人が「まえは耳が聞こえていたから音楽がすごく楽しくて。でも今は聴こえなくなってしまって…」。
耳が聴こえないって何だか寂しい感じ、と言われたけれど、全然ピンとこなくて。手話もあるし、日本語もそれなりに使えるのであまり気にしていなくて。
今日は仕事の関係で、コンサート会場に行ってきました。はて待て、コンサートとライブってどう違うのでしょう。
大した違いはないみたいですね。語感によるのかなぁ。
三味線の演奏だったのでコンサートということで。三味線、しゃみせん。
人生で初めて、三味線のコンサートを経験してみました。
想定内ではあるけれど、音が高いのもあって、身体に響きませんでした(ロックバンドとかだったら振動を感じ取って、リズムもなんとな〜く分かる感じ)。単に響かないならまだしも、私の席は最前列。演奏者の表情がよく見える位置。
それでも、音がぜんぜーん響かない!、ということに「三味線ってそういうものかなぁ」。
時折、拍手が湧き立ってる。演奏者はまだ三味線を弾いてる。一体どういうタイミングで拍手するのだろう。演奏者も時折、観客にアイコンタクト送っている。
この時、聞こえる世界での孤独をすごく感じた。
喪失感というのかな。追い出されたのではなく、同じ空間にいる、私はそこにいてもいい、でも一緒に感じることが全然できなかった。
以前、誰だったか、聴こえない世界のことを「ガラスの箱にいるようなもの」と表現していたけど、まさにそんな感じ。
追い出されていないし、無視されたわけでもないし、何かを言われたわけでもない。
それなのに、目の前に繰り広げられる光景と私の存在がどことなく結びつかない。周りを見渡せば、一人ひとりが、私が一生聴くことのできない音を感じ取りながら酔いしれている。
ああ、これが聴こえる世界なのか。
すっごく久しぶりに感じた、この違和感。でも何となく懐かしくもあった。
そして、多くの人を惹きつける音楽って何なのだろう。一生、耳で聴くことはできない音楽。
耳が聴こえないから音楽は楽しめない、というわけではない。ろう者・難聴者の中には音楽が大好き!っていう人もいるし、ライブに通っている人もいる。バンド作って音楽やる人もいる。
私もかつて、学生の頃にライブ行っていた。聴こえないから楽しくなかったのかというと、そうでもなくて、憧れの人が歌っている姿を見るだけでも本当に楽しかったし、きっと雰囲気が楽しかった。
でも、歳を重ねるにつれて、憧れの人を見るだけじゃ物足りなくなってきたかもしれない。
音楽の魅力の一つに、演奏と演奏の合間に、演奏者がトークをする。この時間が、人柄をもっと知れる時間であり、その人の価値観を共有したり、一緒に楽しめる時間。だから、人はコンサートやライブに足を運ぶ。
そして、それ以上に演奏者が発する音が魅力的である「音楽」とは一体、どういうものなのだろう。何らかのきっかけで、もし耳が聴こえていたら、きっと真っ先に「私、音楽を聴いてみたい!」と言うでしょう。
とても良い時間でした(これ、本当にそう思う。負け惜しみなんかじゃなくて、すごく良いことに気づかされたから)。
ろう者と音楽といえば、音を可視化する実験があったので参考まで。
本を読むきっかけ
書店でたまたま目に入った本。
「松坂世代の無名の捕手が、なぜ巨人軍で18年間も生き残れたのか」。
「松坂世代」という言葉に引っかかった私。「横浜高校vsPL学園」で延長戦を投げ抜いた松坂大輔選手と同世代なので、思わず手に取ってみました。
加藤健、という名前は知らなかったのですが、巨人軍に18年間というのは結構な長さという印象だったのでパラパラとめくってみると、なんと「新潟県聖籠町出身」。
私の周りにも何人か、聖籠(せいろう)町生まれ育ちの人がいるのですごく身近に。
ちなみに聖籠町は、新潟市と新発田(しばた)市に接している町です。市ではなく。
人口は約1万人。
手話では「聖母マリア」の漢字にちなんで十字架をイメージした表し方になっています。
手に取ってから新潟出身と知ったので、読んでみたい!と即、購入。でも、もし「松坂世代」というキーワードがなかったら素通りしていたかも。
新潟市内の書店とはいえ、ポップというか、何かしらのお知らせが書かれていなかったのですごく勿体無いような気が(知っている人は知っているから不要かもしれないけど)。新潟出身、という一言だけでもあると、野球に全く無縁の新潟人でも「お?なんだろう」と興味を持つのでは。
あらためて、言葉、一言ってすごく大事。
12月20日、私も一冊の本に取り上げられることになりました。新潟生まれではないけど、新潟で活動をしているということで「ろう者の祈り」として紹介されています。
amazonではまだ販売されていないみたいですが、一応、オンライン上でも紹介されています。良かったらぜひ、お読みください。
師走から読み方を考える
12月になりました。何だかんだ毎日、仕事であちこち行ってブログ更新、サボってしまいました(インプットを怠ると本当にアウトプットできなくなりますね、そりゃ当たり前ですわな)。
12月といえば師走。
こないだ「もうあっという間に年末になるのか〜本当に忙しいわね」とスタッフたちと話していたとき。「師走というのは、まさにこの通りね」と話していたら、案の定、ろう者から「ん?し?しわす?」。
師走の漢字を見ると、「師」「走」。
文字通り、師匠なる人が忙しく走り回る、というイメージが目の前に浮かぶけれど、耳が聞こえない人にとって「しわす」と読めるようになるまで少し時間がかかります。漢字が大好きな人は当然、サクサクと読めるけれど。
「走」がなぜ「わす(はす)」になるのか、理解できないことが大きいかもしれません。耳が聞こえていると、無意識に読めてしまうことがいかに多いことか(もちろん、全員がそうだとは限らないけれど)。
指文字を読み取るとき、日本語力が大きく関係していて、「しわす」と表して、とっさに「ああ、師走ね」と理解したとき、ろう者が「??」な顔をしていると、どうしても「この人、師走が分からないって?何で?」とつい、いらぬ感情を抱いてしまう。
そんな光景を見るたびに、指文字は日本語がベースになってるからねぇと思うのですが、なかなかそのあたりが理解されにくいみたいです。
指文字とはなんぞや。
あいうえお、かきくけこ、といった50音を一つ一つ、手の形に変えて表したものが指文字です。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JSL-AIUEO.jpg#/media/File:JSL-AIUEO.jpg
手話も言語の一つと言われて時の流れが経っていますが、手話の中に指文字が含まれているので「指文字を使えば、通じる」と思われているかもしれません。
手話がわからない時に指文字使えば通じるという教え方も行われているので、そりゃぁ、学習者にとってはそうなのか!となっても無理はないかな、と。
知識の一つとして、体系的な学習ができていればもう少し違った方向へ。なんだけれど、まさか指文字が通じないなんて!といったこともあります。指文字が通じない背景の一つに、年配のろう者(70代〜)は学校で教わっていないため、空書や筆談で対応してきた、あるいは口の形を読み取ってかろうじて理解してきたため、指文字を覚える必要性に迫られることがなかった、というのがあります。
もう一つは、指文字を知らないろう者は初めからそのコミュニティ(手話サークル)に入ってないか、あるいはかつては所属したけれど、居づらくなって辞めてしまったため、その存在すら知ることなく、指文字が通じないろう者がいることすら知らない手話学習者も少なくないです。通訳者の中にも、指文字が通じると思って表し続けていることがあります(ろう者自身が「うん、うん」と頷いてしまっているので)。
指文字を知らないろう者に出会う機会がほとんどない以上、仕方ないのですが、指文字が通じなければ、文字に書いてみたり言い換えたりと言葉を工夫したら良いのですが、どうも一筋縄ではいかないようで。
手話通訳を担っている人が「なんでわからないのよ」とつい突っ込んでしまう場面も、残念ながら実際にあります。 もっと柔軟に、コミュニケーションのモードを調整していけたらもっと楽しくなる予感がします。
そんなわけで、「師走」が読めなかったら、文字を書きながら師走の意味を伝えていきましょう。
締め切り日を作る
冬眠したいくらい、日本海の冬はとても寒いです(中には、タイツなんて履かなくても平気!という人がいるけど、信じられないです)。
こたつの中でぬくぬくと…そんなこと言ってられないくらい、次から次へと仕事が舞い降りているこの頃。
締切日を作らないと、本当に動かない自分を何とかしたい。
締切日を設けると仕事が捗りやすいと思うけれど、この締切日も曲者で、2週間後に設定すると「ああ、まだ大丈夫」と油断してしまいがち。
2週間後、というよりも、2日後の方がほどよいプレッシャーがあり、エンジンがかかります。でも、これも曲者で、講演となると、手話通訳者に事前に資料を渡さないといけない(最終的には自分が損するから)ので締切日が、講演当日より1、2週間前だったりする。そうなると、「講演は2週間後だから大丈夫」と思ってしまい、手話通訳者に渡すというアクションを怠ってしまうことも。
だったら、手話通訳者に渡す日を締切日にすれば良いのだけれど、いつもギリギリになってしまうので申し訳ない思いです(どちらかというと、聴衆を見て話し方を変える方なので、完璧に作り上げることはあまり得意ではない。できることなら、前日まで微調整していたいタイプ)。
要は、締切日を細かく設定し、段取りよく進めていけば慌てなくて済むということ。
一歩ずつですね。
(写真)佐渡のゲストハウス「on the 美一」にて。
きれいな水に変えるということ
出張が続き、落ち着く時間がなかなか作れないまま、すっかり日が空いてしまいました(ご飯食べてる時間はあるのに、ブログはなかなか…)。
そんな中、今、読んでいる本で「書く衝動を逃さない」という見出しがあって思わず、ドキッとしました。
本を読みたいという衝動はときどき起こるが、ものを書きたいという衝動はめったにあるものではない。(中略)書いてみたいという気が起こったら、逃さないようにしなければならない。
(『こうやって、考える』外山滋比古)
ということで、久しぶりに書いてみます。あれ?毎日更新を目指していたんじゃ?というツッコミは無しで。
写真にあるものは、手話通訳士協会発行の「司法通訳の意義と通訳人の心得」。
手話通訳も含め、音声言語の通訳(英語、日本語など)を、裁判でどのように扱われているかについて専門家が話したものをまとめたブックレット。
日常生活とは程遠いと思われる司法・裁判の場で、もし、自分が発言した内容を全く違った意味で訳されてしまっていたら?
自分が思っていたのと、違う展開になってしまっていたら?
手話通訳の現場でも「私の話していること、ちゃんと伝わっているのかな」と思うことはあります。手話通訳者の技術に個人差はあるものの、通訳は密室の中で行うような部分があり、第三者からのフィードバックが得られないまま、経験だけが蓄積されやすいところがあります。
それが行き過ぎてしまうと、誤訳に対する意識が薄れてしまい、あたかも本人がそう言い切ったかのように展開されていく。手話通訳は特に、ろう者自身が日本語を耳から聞くことができないため、手話通訳者が訳した日本語を確認することが難しく(中には、読唇術をフル稼働してチェックする人も!)、手話通訳者もそのままやり過ごしてしまう。
スラングが多く、言葉遣いが上手でないろう者がいて、手話通訳者が読み取って音声日本語に訳すとき、聴者の反応が思ったより悪くなかったケースが実際にありました。その方は手話で、友達に吐き捨てるようなセリフだったにもかかわらず、手話通訳者が訳した日本語は「謙虚さがあり、丁寧に対応」という言い方になっていました。
汚れていた水を、きれいな水に変えた、という結果に。
しかし、このような訳し方は果たして正解なのかどうか。
それを問いかける内容も、ブックレットに書いてあります。
秋の夜長にぜひ。
スマホの仲間
先日に続いて東京での写真を一枚。季節を象徴するものが飾ってあり、秋を感じさせます。
出張や旅でホテルに泊まる時、「ああ、そういえば自宅にいるときは、あれがあったから便利だったんだ」と実感することがあります。
文字通り、iPhoneやiPadを立てて使うことができます。
片手が塞がることなく、両手が空いたまま画面を見ることができます(実は、ご飯食べながらiPadでニュースを見ることも)。他にも色々なスタンドがある中、これは小物入れやスマホの行き場がないとき、そのまま置いて使えるので便利です。
今年の春、紙面の新聞購読を停止し、iPadで見れるデジタル版を選んでみました。新聞が溜まってしまうストレスがなく、デジタル版は見たい記事を電子化、保存(もちろん、購読料はかかります)。それに加えて、上記のスタンドがあるので「見たいときに、読みたいときに、両手を使わなくても見れる」とメリットが大きかったです。
個人的には、メールが来たときにピカピカと光で知らせてくれるライトオンが便利だと思いつつも、iPadを置くにはちょっと小さいので、上記のスタンドとセットだったらいいなぁ。ということで、今日はここまで。
ちなみにこの「自立コム」、聴覚障害者向けの機器を取り扱っています。「来客を知らせるお知らせランプ」とか「起きる時の目覚まし時計」とか。
前より製品がスリムになってきました。
東京で立ち寄るところ
東京に用事があって行ってきました。たまたまトランプ大統領の来日と重なり、出発前は「だ、大丈夫かしら。警備とか厳しそう。途中で呼び止められて荷物を調べられるとか、そんなこともあるのかしら?」とそわそわ。
案の定、いつもに増して警察官があちこち。一日の間にこんなに大勢の警察官を見かけたのは初めてでした。だからか、いつもより人がそんなに多くなく、移動も割とスムーズにできました。
東京といえば、時間がある時に必ず立ち寄るのが「東京中央郵便局」。KITTEの中にあります(そういえば名古屋駅にも新しくできていたんですね)。
たかが郵便局、されど郵便局。
ここには必ず限定商品が置かれているので、お土産にも喜ばれます。ハガキ、クリアファイル、マスキングテープなどなど。切手の種類も豊富で、コレクションしたい方にはうってつけかも。
そして、ATMもたくさんあるので便利といえば便利です(今回は、ずっと保留していた振込用紙をようやく取り出して処理)。でもこれからは、インターネットバンキングも使えるのでどうなるやら。
久しぶりにゆっくり「東京時間」を過ごせました。都会はSuicaだけ持っていれば事済むくらいインフラが整っていて新鮮でした。
ちなみに、新潟〜東京の新幹線開通35周年により、11月のみ半額で行けますので東京行きにぜひ。
年は違えど語り合えることの楽しみ
誕生日迎えました。
今年は特に平成生まれの10代、20代と接する機会が多く、何気ない会話から世代の違いを感じることも。でもそれ以上に、言葉にはまだ(?)出してないけれど、考えていることはあるようです。
手話ができない分、まだ直に言えてない部分もあるようには思うけれど、LINEで話してみると質問が出てきたり、自分はこう思うけどどうですか?と確認されたりと良い刺激を受けています。
20歳になったばかりのとき「質問する前に自分で答えを用意してから聞いてこい」という先輩がいました。当時は、答えなんてまだ分からないのに何で?と思いながら、必死に先輩についていこう!という気持ちで対話させてもらっていました。
ところが私も最近、似たようなことを思うようになり。
分からないことを聞くことは大事。
百聞は一見にしかず。
でも、やみくもに聞けばいいってもんじゃなくて、何となく自分はそう思うけど、という部分が大事。
聞かれる立場としては、いきなり質問されるよりは、「こう思っていますが」と理解している部分を話してくれたら、答えやすい。もちろん、言葉にすることが苦手な人には一緒に紐研ぎながら、知りたいのはこういうこと?と確認しています。
年は上だけれど、経験もそれなりにしてきたけれど、学生さんたちと話してみると怖いもの知らずの勢いもエネルギーとしてすごく大事な力だったり、気付きもしなかった価値観に驚かされたり。ドキッとすることもあります。うふふ。
日々、学びながら進んでいきたいですね。
少し時間ができたので映画を久々に。『セックス・アンド・ザ・シティ』。
かなり楽しかったです。たぶん20代の頃に見てたらそこまで惹きつけられなかったかも。クリスマスの夜に何も予定がない!という方は是非。
日本語が分かるということ
今月はゲストスピーチが2本。パワーポイントを作るたびに過去に講義したことを振り返ってみる。
「あなたはどうして日本語が書けるのですか」
「どうして日本語が分かるのですか」
といった質問を受けるけれど、この訓練を行ったから身につけられた、と容易に答えるのもどうかなぁと自問自答。同じ集団行動をしても、個人差はあり、そのバラツキが微妙な違いだけに留まらないから。
もし日本語が分からないまま育っていたら、きっと世の中の情勢に全く関心を持たず、他者との関わりも持ちたくなかったかもしれない。
でもそれはそれで、アートを究めていたかも。
日本語が分からないまま、日本で生活していたら。時々、想像してみるけど、難しい。
去年、フランスの空港に降り立った時の衝撃さ(フランス語が全く読めず、英語表記もなかった)が旅行という非日常的なものではなく、日常生活の中にあったとしたら。
日本語が分かることは、日本で生活を送る上でどんなことをもたらすのだろう。
と考えてみるのも、良い機会ですね。
今日もごきげんよう。