異常と治療
今日は「いじょう」と「ちりょう」が読み取れませんでした。
聴者と話をしている時は、読唇術を使うこともあります。どくしんじゅつ。
文字通り、唇(口)の形、動きを見ながら読み取るスキル。
これって、ずっと使っていない期間が長いと落ちるものですね。
ろう者の間によく言われている「日本語を書かないと、伝えたい言葉が思い浮かばなくて大変!」と似ています。ブランクがあると「え?今の話、何だっけ?」と焦ることも。
耳が聞こえない人に共通していると思いますが、
「に」「ほ」「ん」のような一文字ずつを読み取っているのかというと、実はそうではない。そんなことしていたら、本当にタイヘン!
「きょうはとてもあつくってしぬかとおもいましたわ」
これをさらりと読んで理解できるかどうか。一文字ずつ読み取るというのは、そんな感じです。無理ですよね、膨大なエネルギーを要します。
「今日 ○×○×○× 暑くて ○×○× と思い ○×わ」
実際に口の形を読んで、理解するとしたらこんな感じです。
単語の前後から想像しながら、「これを言ってるのかな」「あ、これだ」と瞬時に判断しながら相手の話を追いかけています。
この作業を行なっていると、必ず高い確率で「ほぼ口の形が同じなのに、意味が全然違う!」という場面に出会うことがあります。
典型的な例として、「水ください」と「ビールください」。長音があるとはいえ、口の形、動かし方がほぼ同じです。
「〜ください」という文脈は理解できるけれど、「水」「ビール」という肝心な名詞が理解できなかったら問題になります。そこは神経を使わざるを得なくなります。
「今の、水って言ったよね。いや、あの人、ビール呑みっぷり有名だし・・・」みたいに頭の中でぐるぐる。手話、指文字ができる者同士なら、そんなことは全く起きないのです。
今回は「異常と治療」。
「あの頃は、体が熱くなってきてて、何だろうって不思議に思ってたの。そうしたら、○○なしだってね。だから、様子を見たの」。
この文章の○○に、「異常」が入っても、「治療」が入っても、どちらとも言えるし、意味もそんな大差ない。でも、ニュアンスがイマイチ掴みにくくありませんか。
異常なしだとしたら、お医者さんに診てもらった可能性あり。
治療なしだとしたら、病院の窓口で断られた可能性あり。というような、背景の読み取り方が変わってきます。
でも、まぁ、読み取れなかったら聞き返せばいい、だけの話ですね。
かくいう私も、今日は思わず「え?異常?治療?どっち?」と切り返しました。
コミュニケーションは、相互作業です。
今日も明日も暑いので、気をつけていきたいですね。
夏休みといえば、自由研究
ほんとに暑いですね。車を走らせていたら、道路脇にある温度計が「35」になっておりました。ちょっと涼めるべく、過去の写真を一枚どうぞ。
ちょっとは涼しくなりましたか。
そろそろ夏休みを意識し始めるこの時期、子どもの時はすごく楽しみで「早く20日が来ないかなぁ」と待ち焦がれていました。たいてい、20日が修業式だったので(今は、各地によって二学期制もあるらしく、修業式そのものがないとか)。
でも唯一、嫌だったのが、夏休みの自由研究。宿題はまぁ、好きではなかったけれどそれなりに取り組めていた(と思う)。自由研究だけは、なかなかどうしても取り組めなかったことだけ覚えています。
なんでそんなに嫌だったのかな。
何もないところから、描くことが苦手だったのかも。それか、一体何を取り上げたらいいのか分からなかったからかも。
その前に、なんでこういうことをやらないといけないのか、目的が分からなかったから嫌だったのかも。
夏休みの宿題、他のものは「忘れないようにする」「復習する」というプロセスを経て、教科内容の理解を深めていく目的があります。しかしながら、自由研究は、文字通り「自由」すぎて何をすればいいのか、目的が理解できなかったから。
今思えば、教科の内容を深める宿題とは別に、ほんとに自由で何でもいいから好奇心を持って好きなことを描いてみたらいいという目的だったのでは。
それなら、真っ先に取り組めたのに(言い訳ですね)。
耳が聞こえないことについて、自由研究として取り組んでみたら面白い発見ができたかも。そんなことを思い巡らしながら、今日もごきげんよう、です。
美味しいヨーグルトになりなさい
『腐った牛乳になるくらいなら、美味しいヨーグルトになりなさい』
何なんだ、この衝撃なタイトル!
著者を知らない人から見れば「なんじゃ?料理の本?」と思うかもしれないけど、違います。
新潟に来た時から愛用している手帳、W'sダイアリーの和田裕美さんの新作。
(手帳を愛用して9年。途中で浮気したけれど、やっぱりこの手帳に落ち着きました)
腐った牛乳になるくらいなら、美味しいヨーグルトになりなさい ここから一発逆転する方法
- 作者: 和田裕美
- 出版社/メーカー: ぴあ
- 発売日: 2017/07/10
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
これまでにたくさんの本を出版され、全国各地で講演、セミナーを開催する多忙な方で、メールマガジンも書いていらっしゃいます。
手話も覚えて、手話でセミナーをやったことがあるそうです。会ったことはないけれど、和田さんが書いた本をほとんどは読みました。
安定した職場から退職し、フリーランスのような立場になるタイミングで出会って、すごく感銘を受けました。前向きになれるというか、目の前の現実に対して心の持ち方について、すごく励まされました。
それから9年。今でも和田さんの言葉の一つ一つ、心に響くものがあります。
今回の新作は、今までの著作の中から選び取った名言集。
- 人生には悔しいことがたくさんあります。理不尽なこともたくさんあります。それでも自分が流されず、正しいことをしていれば、心だけはなくさないと思います。
- 決断するにはカウントダウン10秒しかない。
- 今の「あなた」は全て過去の経験がつくっています。
中でも有名なのが、「よかった探し」。
どんなことがあっても「ああ、よかった」を見つけることで肯定的に捉え、次に繋げていく。この発想は、より良い人生を過ごすためにも必要なこと。
ああ〜今日は暑かったけれど、集中して運動できてよかった。
ああ〜怪我しちゃったけど、命に関わるほどじゃなくてよかった。
この「よかった」はポジティブになるべきものではなく、あくまでも「あ、失敗しちゃったけど、新しい見方があったので、次からはこうしてみよう!」と次の実践に移せるための踏み台。
和田さんの想い、言葉に触れるたびに初心に返る思いがします。
ああ〜、今日も美味しいヨーグルトが飲めてよかった〜(新潟のヨーグルト、飲むタイプで美味しいんです)。
今日もごきげんよう。
質問に答えられない
「最近、調子はどうでしょうか」
「どのようにお考えでしょうか」
「その辺りについては、どうしたいと思っていますか」
このようなオープンクエスチョン、時々見かけます。
もちろん、「今からお風呂入る?」「コーヒー飲みます?」といったクローズドクエスチョンも時々見かけます(耳が聞こえないので、筆談や相手が話している口元から、見えるということで)。
ろう者と聴者が話している場面で、クローズドクエスチョンなら「YES/NO」で判断できるのでやり取りはそれなりに順調。
でも、オープンクエスチョンとなると、ろう者の方が答え方に戸惑うことが見られます。
「どうしますか」という聞き方は、日本語の世界にはあって、手話の世界にはあまり見られないのか?というと、そうでもないんじゃないかなぁ、と思います。
社会経験をある程度、言語化できるろう者の間であれば「どう思う?」のやり取りも普通に行われ、議論に発展していくこともあります。聴者の中にも「どう?」と聞かれて戸惑う人がいるので必ずしも、ろう者だけがオープンクエスチョンが苦手とは限らないです。
それでも、ろう者の方がなかなか答えられない場面を多く見かけるのでどうしてだろう?と思っていました。
特に20代くらいの世代だと「大丈夫」「普通」という答え方が多いです。
実例を見てみると、「この映画どうだった?」「普通」。
「ケーキ、美味しかったわ。このお店どうだった?」「普通」。
書いていて、なんだか寂しそうな会話だなぁと嘆きたくなりましたが(これがデート中の会話だったら、もう次はありませんね)、でも実際に行われています。中には、面白いかツマラナイかの二択の間にあるもの、として答えたくて「普通」が出てきたのかも。
それは仕方ないとして、そのあとに「そんなの、普通とは言わないでしょ」と突っ込む、突っ込まれることがあるかどうか(私は突っ込む方なので、さらに相手を戸惑わせてしまいます)。
その関係性に発展していくためのコミュニケーションとして、二人の間の共通言語があれば可能性はあるのですが、お互いの理解できる言語が違っていたら、会話はそこで終わってしまいます。
そして、突っ込まれることなく、掘り下げる機会もなく、「大丈夫」「普通」の答え方でやり過ごしていく。その経験年数が長ければ長いほど、当たり前になっていきます。
少なくとも、ろう者の場合は周囲との関わり、他者との関わりを持つときに手話、日本語、英語、何でもいいけれど、自分が分かる言語を使って相手との関わりを持とうと思ったとき、限定されやすいのはあります。聴者なら、音声言語があるのでハードルはそれなりに乗り越えられそうな高さにあるけれど、ろう者は最初からそのハードルが高い。
そのハードルを飛び越えられるよう、幼い時から口話の訓練、日本語の読み書き訓練、聴者との関わりを通してスキルを身につけていく、様々な方法を使ってコミュニケーションができるようになっていく。しかしながら、そういった訓練があったにも関わらず、オープンクエスチョンに対して答えられる範囲が狭いのはなぜでしょうか。
訓練から学べなかったのか、訓練して身につけられたけど、応用できなかったのか。
その辺りはまた次の機会に。今日もごきげんよう。
(去年、旅した米国にて。この中にリンカーンさんがいました)
鬼も黙るスイーツ
人間なので、ときどき体調が優れない日もあります。そんな日は寝込むべし、と前から思っていました。
でも最近は「じゃ、今日は食べに行こまい!」と切り替えています。もちろん、胃腸が優れないときは別だけれど。
今日もそんな日。海鮮あんかけ焼そば(これが意外と野菜、根菜たっぷり!)、そしてスイーツを食べたら身体がぽかぽか。
このスイーツ、真っ白で一見「なにこれ?」と思うくらい、ただ白いだけ。ココナッツミルクで作られているものだけれど、今まで食べたスイーツの中でベスト3に入ります。
実はこのお店、少し離れたところにあるので頻繁には行けないけれど、スイーツがとっても美味しくて。初めて食べたときはもう、終始黙り込んでもぐもぐ。
個人経営のお店なので、(勝手ながら)応援の気持ちも込めて、毎回いただいています。
美味しい!って感じれば感じるほど、少しずつ元気になっていく感じが。
作ってくださってありがとうございました。
「美味しい!」の回数が増えれば増えるほど、幸せな気持ちになれますね。
今日もごきげんよう。
(今日の写真なかったので、大晦日の夜にいただいたお魚で〆)
そう言っていた(と思う)
朝から雨。
6ヶ月分はもう降ったんじゃないか、と思うくらいずっと降り続いていました。
案の定、電車が満員状態に。「ああ、ホームに立っているだけで蒸し暑いのに、社内でも我慢しないといけないのね」と労いの言葉を心の中でかけました(職場から駅のホームはよく見えます)。
心の中で、といえば最近、「口の形を読み取る」ことが周りで話題になっていました。
「何を今更、口話(こうわ)の話をしとるんだい?」
「ああ、口の形を読み取れているって勘違いされてて。」
「勘違い?誰がじゃ?」
「いや、誰がってわけじゃないけど、口の形を見れば分かるよね、と言われて否定できなくて。それで話が進んじゃって。」
「うむ、それで?」
「それで、結局、大事なところも分かんなくて。でも、読み取れるよねと言われたら、そりゃあ否定できないし。」
「ほわい?なぜ?」
「だって、全く読み取れないわけではないし。」
一体どこの誰の会話なのか、というのはさておき、上記のような内容は、耳が聞こえない人のほとんどが経験しています。
耳が聞こえない、と初対面の人に話した後、相手が「じゃ、私の口、わかります?」という人もいます。聞こえない人の中には、聴力が残ってて、補聴器を活用しながら口の形を読み取れれば会話が成立する人もいます。
しかしながら、全員がそうではなく、おそらくグレーなところが多いのでは。
「口の形が読み取れないことはない。でも、完璧に読み取れるわけではない」と肯定も否定もできない。
口の形は人によって個人差があり、ほんとに分かりやすい話し方をする人は分かりやすく、恥ずかしそうに話す人はちょっと分かりにくかったり。千差万別なのに、頑張って口の形を読み取ろうとしてしまう人もいます。その結果、話が食い違ってしまったケースも多々。
私も一時期、「筆談なんて恥ずかしいこと」と変なこだわりを持っていましたが、結果的には自分だけが損する、もしくは相手も損した気分になってしまう可能性が分かってからは、できる限り、大事なことは紙に書くようにしています(書いてもらっています)。
お互いのために「言ってた、と思う」の曖昧さから来る誤解を解くために、歩み寄っていきたいものですね。
日本語を調整して伝える
今日の新潟市はまさに梅雨シーズン。こんな日はきっと、カエルの鳴き声が聞こえるだろうなぁと想像を巡らしながら…読書。
以前のブログでも紹介した「やさしい日本語」、読み終えました。
タイトルの「多文化共生社会」にあるように、移民の話から始まり、外国にルーツを持つ子供たちを取り巻く環境について書かれています。そして、共通点として、ろう児・ろう者の手話についても取り上げられていました。
なかでも、日本語母語話者と日本語【非】母語話者の会話について、母語話者が違和感として感じることの一つに文法的な間違い、語彙の使い方があると挙げられています。
しかし、違和感を感じるのはあくまでも「母語話者が話すとき」が標準になっているからであって、その違和感が度を超えてしまうと「あの人、なんか変なこと言ってる」と排他的な見方になってしまいかねないと指摘されていました。
そんな状況がある中、日本語教室は、定住外国人(観光客ではない)にとっての居場所として機能すべきであり、教室を通して日本人(日本語母語話者)がラポール(信頼)を築いて地域社会に溶け込めるようにサポートする、ということも書かれていました。
そういった意味では、かつての手話サークルもそのような機能があったのでは、と思います。というのは、高齢のろう者のほとんどが一度は手話サークルに関わったことがあると話していたからです。
本著では、外国人と関わる時に、コミュニケーション力が高まる機会なので「お互いさま」という精神、態度の重要さについて丁寧に説明されていました。
コミュニケーション力というのは、日本語母語話者にとって「日本語を日本語に翻訳する」ことによって、相手の立場に立って分かるように説明をする力、というもの。
この点において、手話も然り。日本語が分からない、読めないろう者に対して「短く」「シンプル」をベースに伝えたことがあります。結果的に、相手にとってはインパクトが強かったらしく、すぐに反応ができていました。
それが本著で、似たようなポイントが取り上げられていました。
- 文を短く、終わりを明確にする。
- 理解しているかどうか確認する。
- 積極的にことばを言い換える。
手話にも応用できる部分があり、日本語をさらに深める時にも意識していくと、自分自身の理解力も深まります。
この本は、単なる日本語教育に関する話題だけに留まらず、移民、公文書の翻訳、義務教育(外国籍を持つ子どもには義務教育制度対象外だとか。初めて知りました)、定住外国人の生活について幅広く書かれています。
確かに行政からの公文書は、ろう者の中でも「難しいもの、とっつきにくいもの」。そのため、本来は受けられるはずのサービスが受けられないまま、というケースも珍しくありません(定住外国人も同じような状況)。
きっと、日本語を当たり前に使っている人ほど「目から鱗」の一冊です。
そして、来日する外国人が増えていく社会に向かって、一度は目を通しておきたい一冊。
6年前に始まった日
6年前の今日。
現在のNPOの前身、任意団体を立ち上げた日。
当時は、これから本格的に始まる未来にわくわくしていた。当然、現実的にはこの日の前も後も、決して楽しいことばかりではなかった。理不尽なことに悔しさを覚えたことも。でも、一人では作り上げることができなかった縁が次の縁を呼び、新たな出会いの連続があって。
苦しいなりに一緒に同じ山を登ろうとする仲間がいて、初めて乗り越えられた。そして、これからも登り続けなければいけない山があることも分かっている。
奇しくも今日は、NPOとして開所した施設の5周年祝賀会。
その日を選んだわけではないけれど、きっと「ここから再スタート。しっかり頑張って!」と新たな気持ちに切り替えるための機会だったのかも。本当は出会った全ての方々を招きたかったけれどキャパを超えてしまうので、限定的にしました。
今日は本当に、いろいろな想いが溢れてしまった一日。今まで出会った人たちに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。
(東京からの差し入れです)