うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

アドリブと通訳

人前で話す機会が何度かあります。

 

特に講演で話すとき、手話通訳者と打ち合わせてから話すこともしょっちゅう(ここ大事!打ち合わせしない人もいるらしい)。基本的にはパワーポイントのスライドに合わせて進行するか、板書しながら話すかのスタンスでやっています。これでも、まだまだ話し方や伝え方の試行錯誤が続いています。

 

手話通訳者に資料を渡すときはパワーポイントのスライドや箇条書きした資料(受け手が書き込みしやすいように)に要点を加えたものを用意しています。

(ここも大事!用意しない人もいるらしい)

 

手話通訳は、私だけのためではなく、聞き手(聴者)のためにも必要な存在です。

 

聞き手の中には時々、難聴者もいます。難聴者がいると分かったら、要約筆記(文字通訳)をつけるか、原稿の読み上げ(サポーターが文字を追って知らせる)などの方法があります。

(ここまで用意できる人、案外少ないのかも)

 

読み上げ資料を作ることは、話したいことを整理できるだけでなく、通訳者の負担もある程度軽減できます。

しかし、ここで一つ問題が。アドリブができにくくなること。

私の性格上、原稿通りに読むよりも、臨機応変で聞き手の状況に合わせて話すことがあります。

手話通訳者にとってヒヤヒヤすることもあるかもしれませんが、できることならその場で感じ取りながら、フィットした言葉で伝えていきたい。

 

でも原稿の読み上げだと、その通りに話さないといけない。アドリブが効かない。

でも、難聴者にとっては分かる情報保障の手段。

 

いや、でも、、、と堂々巡り。難聴者の方にも笑っていただけるような、「ああ!なるほど!」と思っていただけるような。

何か良い話し方、ないかな。

 

f:id:syuwakoushi:20170630020456j:plain

 

過去からの贈り物

郵便受けに何かが届いている。何だろうと思って、中を見るとDVD。

「そうだった、予約していたものだった!」。

 

過去の自分からのプレゼントみたいな感じがして、ほっこり。

パッケージを見ただけで、異国の地への旅が目の前に広がって。楽しみがまた一つ増えました!

 

 

小林希 世界の猫宿 [DVD]

小林希 世界の猫宿 [DVD]

 

 

f:id:syuwakoushi:20170630013800j:plain

見えない音

いつの頃だったか、夜空を見上げた時、隣にいた彼から「ねぇ、あのお月様には音があるんだよ。知ってた?」。

 

 

今日はスタジオで仕事。プロの方と打ち合わせながら映像の編集作業を確認。

短時間での集中的な打ち合わせだったこともあり、通訳のおかげで円滑に進められました。

 

おトイレ、ではなくて「音入れ」について、「こんな感じだったらいいかな」「もっと雰囲気に合った音(声)がいいかしら」というやり取りもありました。

 

普段、テレビや映画、ネット映像などを見ているとき、耳が聞こえないので「視覚的な情報」が全てになっているけれど、実はその情報が「音声化」されている部分もあるとか。

分かりやすくいえば、映像の中にナレーションだけが響き、「視覚的な情報」としては「その映像が映っているもの」のみだったり。

テロップが出てきたのと同時に、テロップを読み上げる音が入っていることもあるそうです。

 

耳が聞こえないということは、ナレーションが聞こえないことであり、ナレーション自体が「視覚的な情報」の価値をより高めることを、ろう者のほとんどは知らないです。

喫茶店でのBGMも同じで、「このお店の雰囲気が好きなの」という聴者の言葉には、きっと「とても心地のいい音楽が流れているから」も含まれているんじゃないかな、と。

 

それくらい、「音」は生活の中で最も存在感のあるもの、でしょうか。

 

生まれた時からずっと、はっきりとした「音」を聞いたことがない私は、彼に「あのお月様に音があるなら、どうしてみんな、お月様の音が聞こえるって教えてくれないの?」と聞いてみた。

 

「いや、あの音はみんなが聞こえるってわけじゃない。聞こえるかどうかは、その人次第」。

 

ギター弾きの彼は、私に何を言いたかったのかは分からない。

でも、お月様が照らしている夜空の下で、音について語り合って以来、私は「音」の存在をより意識するようになり、今に至っています。

 

f:id:syuwakoushi:20170628223401j:plain

 

ないものねだりするなら這い上がろう

ああしてくれ、こうしてくれと要求する。

這い上がりは、そこからどうやったらいいかを考えるために上を目指していく。

 

這い上がっていく人生、楽しいはずだけど這い上がっている途中がしんどい。

 

それでも、ないものねだりよりは、行動で示せている「這い上がり」の方が、気持ちが良い。

 

世のなか、いろんな人がいます。

 

f:id:syuwakoushi:20170627230428j:image

 

 

見えないところで守られている

講義の仕事について、今日も打診がありました。今回は、他のスタッフに任せることに。お仕事があることは、本当にありがたいことです。

 

通訳、生活、就労などのキーワードで聴覚障害についてお話しすることがあります。他の障害に関しては素人なので常に、当事者や周囲の話、書籍などで見聞を広げているところです。やはり、奥深いところがあり、すぐには理解できないことも。

 

逆に、聴覚障害についてお話しするときも、一回だけではすぐに理解されにくいのは当然のことと思うようにしています。不思議なことに聴覚障害に関する書籍は数少なく、手話に関する書籍が多いので「手話さえできれば、全て解決できる」と短絡的になってしまうのかもしれません。

 

典型的な例として、手話通訳があれば解決できるという話。

 

あくまでも、ろう者自身に「文法的な間違いはともかく、語彙力(手話、日本語)があること」「何度も経験して学習したこと」「知りたいという好奇心があること」、この3つを持ち得ていることが前提になることを、私たちは案外見落としやすいかもしれません。

  • 「語彙力があること」によって、手話通訳を通して情報を得たり、自分の伝えたいことを伝えることができる。
  • 「何度も経験して学習」することによって、同じような場面に遭遇した時に、とっさに対応ができる。
  • 「知りたいという好奇心」によって、相手との関わりの必要性を見出して今後の対応について想定しながら考えることができる。

 

ほかにも前提条件がある中、この3つのいずれかが不足したとしても何とか対応できます。しかし、この前提条件が最初から無いろう者の場合はどうなるのでしょうか。

 

手話通訳を使ったとしても、「語彙力が無い」と伝えたいことが伝えきれず、通訳された内容が理解しきれず、モヤモヤ感が残る。

「何度も経験」したのに学習ができていなければ、その場でどのように動くべきなのかわからず、受け身に。

「好奇心」が無いと、手話通訳を通して得られた情報に対する価値を感じることさえも難しくなる。

 

これらの3つをどうやって身につけているか、身につけたらいいのか。

正解はないけれど、寄り添ったり向き合える人が近くにいることでフィードバックができること。それも共通の言語を持った上で。

 

例えば、ろう者が病院に行った時、語彙力と経験値があれば、筆談なり口話なりで解決できる。しかし、世の中には、「手話通訳」の「つ」も知らず、家族に守られながら育っているろう者がいます。

彼らが病院に行った時、どんなことが起こるかというと、問診票に書かれている質問につまずきます。「妊娠していますか」の質問に対して、男性なのに「はい」と答えてしまう例も。

 

家族で一緒に行っているろう者からは「困ったことはない。全部(家族が)やってくれるから」と、自ら情報を得ることに諦めています。家族がいないときは?と聞くと、「一人で行く。でも、メモに何が書いてあるか全然読めない」と答える人もいます。

 

家族で行った方が代わりに説明してくれるからラク。自分の体のことなのに任せてしまう。

こうして、本人が知らない間に家族が相談をして、いつでも対応ができるようになっていく。まさに、目に見えないところで守られていることに。

 

茨木のり子さんではないけれど、せめて「自分のことは自分で守れ、ばかものよ」と自覚があれば、家族だけに頼らず、手話通訳という社会資源を使うことができる。それが難しいとなると、日本語力もままならず、本当に大変。

 

言語を身につけるって、案外難しいと絶望的になります。

でも、何かに守られながら生きていることに、少しでも気付きながら前を見ていけたら。

 

f:id:syuwakoushi:20170626214909j:plain

那覇市の中国庭園にて。少しでも何かが入ると、いつもの景色が違って見える)

 

アインシュタインとポチ袋

なんでアインシュタインとポチ袋?と思った方、写真をご覧ください。

f:id:syuwakoushi:20170625171647j:plain

 

 

小さな袋が欲しいと探していたら、舌をペロッとした彼と出会いました。一目惚れです。

 

なんてこんな面白いものを作っているのだろう!と感動して、ググってみたらこの方が作っていらっしゃいました。チンギス・ハンさんから織田信長さん、そして又吉さんのも。

fumiwo.com

 

こんな細かい作業、わたしゃ苦手だ〜と思いながらポチッと。

文房具屋さん巡りもなかなか楽しいですね。

山を一つ超えると、次の山がある

 

今日、一つの山を超えました。山に登るって、登っている時がキツくて、しんどい。

(登山経験はそんなにないです…)

 

でも、頂上まで行くと達成感、開放感、安堵感、いろいろな感情がぷわぁ〜っと出てくる。今日がまさにその日で、疲労感も一気に出てしまいました。

 

「あぁ、疲れた!帰って寝てしまいたい」。

 

でも、次の山がすでに見えてきているので、思い切って外に出て美味しいものを食べてきました。

そうしたら、身体は疲れているのに気持ちが上向いてきました。美味しいものを食べたことで「ああ〜、ありがとう。幸せ」とセンサーが反応したのでしょうか。

 

ともかく、一つの山を超えたけれど次の山があるのは、前から見えていたこと。

モチベーションを保ちながらやっていくには、休息も必要。それが、頂上から降りる時間であって、頂上から降りながら次の頂上を登りきるために考えてみる。

 

中途半端な時もありますが、動きながら考えるタイプなので、頂上でじっと考えるよりも、下山しながら考え、麓に降りたときはすでに次の山に向かって歩き出す。

今年は特に、「ああ、疲れた。しんどい」と思うことが多いけれど、やはり頂上に立った時は格別。

 

だから富士山の頂上を目指す人が多いということですね(わたし、まだ登ったことありませぬ)。

 

 

山という例えで、「なるほど!」と思わず膝を打ちたくなる本です。

 

 

今読んでいる本

いつもなら読み終わった本を紹介していますが、今日は現在進行形です。

「やさしい日本語」。 

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

 

 

朝日新聞の取材を受けた「ろう者の祈り」。

ろう者と日本語について、シリーズの中にあった事例が使われていました。

なぜこういう問題が起きるのか、ろう者の背景についての分析も書かれています。

 

まだ現在進行形なので、読み終えたらまとめてみたいです。

でも、未来形の本が、数冊…。一冊ずつ読んで参ります。

 

 

f:id:syuwakoushi:20170623235737j:plain

(新潟の名物・のっぺ。今夜は冷たいのが出てきました。ああ、もうすぐ夏だから?)

トレーニングは一つの習慣

最近、身体のあちこちが痛いなぁと思ってたらトレーニングの効果が出てきていました。インストラクターに教わりながら鍛えているけれど、回数を重ねると、同じメニューでも案外「あ、少しラクに動けているな」と実感。

 

そう思った時点で、さらに負荷のかかるメニューを与えられる。これがキツイけれど、負荷のかかる内容をこなしていたら、いつのまにか身体が慣れてきて「今日は大丈夫かも」と少しばかり前向きになれます。

 

これは仕事も同じで、複数の案件を同時進行していることに慣れてくると、段取りが数秒以内に判断できるようになってきています。トレーニングも同じで、一つの習慣として生活の中に取り込んでいけばいくほど、スピーディになれると思います。

 

日頃の経験、知識、理論の積み重ねがあって初めて、判断作業ができるようになりますが、案外、多くのろう者が苦手とする分野なのかもしれません。コミュニケーションの問題もあるけれど。

 

トレーニングも最近はレベルアップしているので、少しずつやってまいります。

あ〜イタタタ。

 

通訳の悩み

今日はちょっと長いです。お時間のある方はぜひお付き合いください。

 

世の中で、二番目に古い仕事は「通訳」と言われています。

通訳といえば、日本人と外国人の間に入って言葉を訳す仕事というイメージを持たれますが、手話通訳もあります。日本人同士の中に入って、日本語と手話の間を通訳する仕事です。

 

聴者が話をするとき、ろう者は耳が聞こえないので通訳を通して話を理解し、ろう者が手話で話をするとき、聴者は手話が分からないので通訳を通して話を理解する。

 

この作業を双方向で行えるように、通訳者が間に立ちます。「手話通訳士」「手話通訳者」と呼ばれ、前者は厚生労働省の試験があります。

www.mhlw.go.jp

 

合格率が一桁の時もあるくらい、難易度が高いみたいです。受けたことはありませんが(わたしゃ耳聞こえへんので)、一発で合格できる方もいれば、何度もチャレンジしている方もいます。

 

聴覚障害者は全国で約35万人、その中で手話を使うろう者、難聴者は数十%と言われています。そこで手話通訳士は何名なのかというと、、、約3,600名。

 

ろう者の間では「手話通訳できる人が少ない」と嘆いていますが、専門的に養成しているところが少ないこと、ろう者自身がどうやって育てたら良いか分からないこと、そしてろう者、手話通訳者同士の叩き合いがあることによって人材が伸びていかない現実があります。

 

また、手話を一つの言語というよりは、障害を持った人が使う言葉という認識で、手話を使う人は全員「ボランティア」と位置付ける人たちがいます。手話を少し学んでいる聴者を見つけては「手話できるんだから、通訳やってね」と。ちょこっと学んだくらいで、通訳できるわけないのに!

 

英語でいえば、英検4級合格した人が、アメリカのビジネスマンの通訳(しかも、取引先との交渉場面)ができるのでしょうか。

 

手話の世界では、時々、手話初心者が無謀な通訳場面に遭遇してしまいます。本人も、周囲からプレッシャーをかけられ、しまいには、それが当たり前だと言わんばかりに本人も「通訳しますね」と手を差し伸べせざるを得なくなる。

 

ろう者は手話を使う少数派(マイノリティ)の民族とも言われていますが、聴覚障害があります。耳が聞こえないということは、聴者と比べて「耳から入ってくる情報量が少ない」ため、本来身につけられるはずの常識、知識、生活力が、どうしても欠け落ちてしまう人もいます。

 

「これだから耳が聞こえない人はマナーがなっとらん」「常識知らず」と言われたケースもよくある話です。ろう者の中には本当に、ならず者もいます(所詮、障害があってもなくても人間)。手話通訳者の中には、「ろう者は能力が足りない」「いちいち説明しないと分からないから仕方ない」と上から目線の方もいらっしゃいます。

残念なことに、その逆もアリ。

「手話通訳者はだめ、分かりにくい」と真正面から否定するろう者もいます。それなりの事情はあるにしても、手話講師であるろう者がそう断言してしまっては元も子もない。

 

私が出会った手話通訳者の中には、とても素晴らしいスキルを持った方がたくさんいます。

素晴らしい通訳者たちに聞いてみると「やはり、一番最初に出会ったろう者が素晴らしい人だったから、こうして手話を続けられているし、ろう者のために力になりたいと思った」と口を揃えていました。そして、「ろう者の中にも色々な人がいる。生活力がほとんどなくて、どうしてこんなことが分からないのだろう、と観察しながら、本人が分かるように通訳することを心がけている」とも。

 

ろう者の中には、手話通訳を今まで全く使ったことがない人もいます。

「手話ツウヤク??」「なに?誰なの?」。そんな感じ。

他にも、「私は筆談ができるから、手話通訳なんて要らない」という人もいます。

 

でも、手話通訳はとても大事な存在です。筆談で通じる力は持っていたとしても、リアルタイムで話を進めていくためには、通訳を活用することも一つの選択。仕事上、営業や取引先と話をするときに、通訳があればいいのになぁと思うこともしばしば。

 

耳が聞こえることは、今の社会ではマジョリティ。そして、ちょっと工夫するだけで構わない程度で話が通じる。聴者はすでにスタートラインに立っています。しかし、ろう者が同じスタートラインに立つためには、そこにたどり着けるよう伴走してくれる手話通訳者が必要になります。

 

しかしながら、聴者の世界とろう者の世界の狭間にいる手話通訳者にとって、悩むことはたくさんあるようです。この話はまたの機会に。