うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

2011年3月11日に変わったこと

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3月11日日曜日。この写真は、2年前に訪れた宮城県・女川町で撮ったものです。

 

今日会った人たちとは「あれから7年なんだね」「当時はどう過ごしてたの」とあの日が話題に。SNSでも「あの日を忘れない」と各地で黙とうが行われていたり、あの日を振り返って今をどう生きているか紹介されていたり。

 

これまでにも大きな災害は起きていたけれど、災害が起こるたびに「忘れた頃にやってくるから本当に気をつけなきゃ」と思う。思っていたところでどうにもならないけど、自分のことはせめて、自分でなんとかできるようにしないといけないな、と。

 

自分のことができないからダメだという否定的なものではなく、防災の基本として「自助、共助、公助」があるように、自分が助からないとどうにもならないのは事実。

 

世の中には身体を動かすことが困難な人もいる。物理的に難しいことは、共助、公助で対応していく。そんな当たり前のこと、いざとなったら無理だって!と思うこともあるかも。

 

でも、少なくともあの日が日本国民にとっては大きな影響を受けた出来事であることは、メディアだけでなく周囲にいる人たちとの会話からでも十分、伝わってきます。

また、新潟の人たちの話を聞くと中越地震の話も出てきます。2004年10月に起きた地震

新潟県中越地震 - Wikipedia

 

当時、私は新潟に住んでいなかったのでテレビで見たことがある映像(避難所で生活している様子)だけしか想像できないのですが、相当な大きさだったようです。

それでも、やはり東北地方で起きた地震は衝撃的であり、新潟に避難してきた方々もいたことが今でも印象に残っている、というお話もありました。

 

当時の3月11日、新潟市も揺れました。

結構長い揺れだったので、さすがにおかしいと。そのあとはニュースで流れてきた津波の映像が、現実的には思えなくて。数日後の新潟駅では、大きな荷物を抱えてホームから出てくる人が次から次へと。いつも明るかったはずの駅が暗くなっていたり(計画停電の影響)。

コンビニやスーパーに行くと、パンやおにぎり、ペットボトルがほとんど無くなっていました。まさか、新潟市にもここまで影響を受けるとは。

 

いつでも避難できるように準備してはみたものの、余震が続く中で何かと落ち着かなった日々。津波の被害を受けた方々、住んでいる場所やコミュニティが壊滅され避難せざるを得なくなった方々の身を考えたら本当にいたたまれない気持ちに。

 

ただ、この日を境に、関わっていたプロジェクトが実施できなくなり、一から立て直すために奔走する1年になったのでした。新潟から東北地方は近いのに、震災地へボランティアに行くとか支援物資を送るといった具体的な行動に移すことができなく、今後のプロジェクトを推し進めることだけにしか集中していませんでした。

 

結果的にそのプロジェクトは今の仕事に繋がっているのですが、3月11日を振り返るたびに「もう少し、周りを見渡して自分にできることをやれたらよかったのでは?」と思わないわけにはいかなくて。

自分ができることって、はたから見ると本当に小さなことなんだ、と。

 

でも、ここ最近は、そういう気持ちよりも、今目の前にあることを一生懸命やることが私なりの復興への応援というか、そうすることが一市民としての生き方として大事なんじゃないかなと思うように。

その上で、余力があったらもう一度、東北地方に訪れてみようと思っています。

 

3月11日の出来事を背負って生きている方々、当時も今も具体的なアクションを起こせている方々に敬意を表すとともに、亡くなられた方々への冥福をお祈りしながら、今を生きていること、同じ時間を過ごしている人たちに感謝、です。

そして、一人でも多くの方が「ああ、幸せだなぁ」という気持ちになれますように。