うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

見えないところで守られている

講義の仕事について、今日も打診がありました。今回は、他のスタッフに任せることに。お仕事があることは、本当にありがたいことです。

 

通訳、生活、就労などのキーワードで聴覚障害についてお話しすることがあります。他の障害に関しては素人なので常に、当事者や周囲の話、書籍などで見聞を広げているところです。やはり、奥深いところがあり、すぐには理解できないことも。

 

逆に、聴覚障害についてお話しするときも、一回だけではすぐに理解されにくいのは当然のことと思うようにしています。不思議なことに聴覚障害に関する書籍は数少なく、手話に関する書籍が多いので「手話さえできれば、全て解決できる」と短絡的になってしまうのかもしれません。

 

典型的な例として、手話通訳があれば解決できるという話。

 

あくまでも、ろう者自身に「文法的な間違いはともかく、語彙力(手話、日本語)があること」「何度も経験して学習したこと」「知りたいという好奇心があること」、この3つを持ち得ていることが前提になることを、私たちは案外見落としやすいかもしれません。

  • 「語彙力があること」によって、手話通訳を通して情報を得たり、自分の伝えたいことを伝えることができる。
  • 「何度も経験して学習」することによって、同じような場面に遭遇した時に、とっさに対応ができる。
  • 「知りたいという好奇心」によって、相手との関わりの必要性を見出して今後の対応について想定しながら考えることができる。

 

ほかにも前提条件がある中、この3つのいずれかが不足したとしても何とか対応できます。しかし、この前提条件が最初から無いろう者の場合はどうなるのでしょうか。

 

手話通訳を使ったとしても、「語彙力が無い」と伝えたいことが伝えきれず、通訳された内容が理解しきれず、モヤモヤ感が残る。

「何度も経験」したのに学習ができていなければ、その場でどのように動くべきなのかわからず、受け身に。

「好奇心」が無いと、手話通訳を通して得られた情報に対する価値を感じることさえも難しくなる。

 

これらの3つをどうやって身につけているか、身につけたらいいのか。

正解はないけれど、寄り添ったり向き合える人が近くにいることでフィードバックができること。それも共通の言語を持った上で。

 

例えば、ろう者が病院に行った時、語彙力と経験値があれば、筆談なり口話なりで解決できる。しかし、世の中には、「手話通訳」の「つ」も知らず、家族に守られながら育っているろう者がいます。

彼らが病院に行った時、どんなことが起こるかというと、問診票に書かれている質問につまずきます。「妊娠していますか」の質問に対して、男性なのに「はい」と答えてしまう例も。

 

家族で一緒に行っているろう者からは「困ったことはない。全部(家族が)やってくれるから」と、自ら情報を得ることに諦めています。家族がいないときは?と聞くと、「一人で行く。でも、メモに何が書いてあるか全然読めない」と答える人もいます。

 

家族で行った方が代わりに説明してくれるからラク。自分の体のことなのに任せてしまう。

こうして、本人が知らない間に家族が相談をして、いつでも対応ができるようになっていく。まさに、目に見えないところで守られていることに。

 

茨木のり子さんではないけれど、せめて「自分のことは自分で守れ、ばかものよ」と自覚があれば、家族だけに頼らず、手話通訳という社会資源を使うことができる。それが難しいとなると、日本語力もままならず、本当に大変。

 

言語を身につけるって、案外難しいと絶望的になります。

でも、何かに守られながら生きていることに、少しでも気付きながら前を見ていけたら。

 

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那覇市の中国庭園にて。少しでも何かが入ると、いつもの景色が違って見える)