うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

今が咲きどころ

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5月27日日曜日。今の時期、バラが綺麗に咲いています。

 

バラがバラバラに咲いてる(!)とはいえ、それぞれが綺麗に咲いてて、香りも全然違う。

 

人間もおんなじ。それぞれの咲き方、香りがあってこそ存在感がある。

 

花に触れるだけでも、気持ちの持ち方が変わってくる。それなら、出かけて自然の風を感じ取っていきたい。

非日常的な日常生活

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5月21日月曜日。

旅は非日常的な空間、と言われている。現実逃避とも。

 

でも、非日常的なことも含めて日常生活だと思ってる。だって、旅してる間も、人生の時間は現実的に止まってるわけではないから。

 

何かに行き詰まったときは、いつもと違う空間に身を置いてみる。

 

時間は進んでいる。現実から逃げてるように見えるその行動は、現実に向き合うための準備かもしれない。

 

ということで、いつでもフル稼働できるよう、時には旅に出かけてみよう!

 

 

口が先か、耳が先か。

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5月7日月曜日。肩甲骨を鍛えるトレーニングに挑戦してみたら、うぐぐ…。

 

今日は手話のお話。手話を知らない方のために少し解説。

耳が聞こえないことを「ろう」と呼びます。「難聴」「耳が聞こえない」「耳が遠い」などの言い方はありますが、その中の一つが「ろう」。いわゆる「聾」です。

 

手話では、大体2パターンの表現があります。

【片手のみでの表現】

上品に手を振るような手の形(利き手)を耳に当てて、そのまま口をふさぐような形に持っていきます。

 

【両手での表現】

利き手を耳に当てたまま、非利き手は口をふさぐような形。

 

 

それがどうしたのか?というと…

最近ちょっとした「あれ?」という気づきがあって。

 

70代以上のろう者の手話を見ると、上記の片手の表現が逆になっていました。

先に、口をふさぐような形で表した後、耳の方へ移動していました。

特定の人だけと思っていたら、他の70代以上のろう者(戦中もしくは戦後すぐに生まれた世代)も同じ表現でした。

 

念のため、60代、50代…と世代ごとのろう者に表してもらったところ、またその逆でした。先に耳に当てて、次が口、でした。

 

それがどうしたのか?というと…

結局は、耳か口か、どっちが先かなんて、どうでもいいんですけどね。でも、それがただの偶然とは思えなくて。

 

戦中もしくは戦後すぐに生まれた世代にとっての教育は、どういう教育だったのか。

口話教育が主流の時代に生きた人たちは、「口で話せるようになること」を徹底的に教え込まれたからこそ、耳に手を当てつつ、口をふさぐということは二の次ということだったのか。

 

当然、本人たちに聞いても「ハァ?耳が先か、口が先か?んなの、知ったこっちゃないわい」。

 

まぁ、そういうことがありましたってことで、様々な世代の方と交流すると面白い発見がごろごろあります。

 

君が僕の息子について教えてくれたこと、を観て

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5月6日日曜日。連休も最終日になりました。合間に仕事しながらネットで映画を見たり読書したり。今日は職場に置いてあったDVDを借りて鑑賞。

 

日本の自閉症の若者とイギリス人作家の出会いから物語が始まり、各国に住む自閉症の家族の絆が描かれているドキュメンタリー。NHKで放送されたみたいです。

 

www.nhk.or.jp

 

日本の若者は東田直樹さん。自分の心の内を綴ったエッセイ「自閉症の僕が跳びはねる理由」を2007年に発行。

そのエッセイが、自身も自閉症の息子を持つイギリス人作家デイヴィッド・ミッチェル氏の目にとまった。

日本に滞在していたこともあるミッチェル氏は、東田さんの本を読んで、まるで息子が自分に語りかけているように感じた。(DVD解説より)

 

 

自閉症の若者は、東田直樹さん。定期購読しているビッグイシューで度々紹介され、エッセイを発行していることは知っていましたが、恥ずかしながらなかなか読む機会がなく…DVDのパッケージを見て「あ!これは見なきゃ」。

 

今回の映像で最も衝撃を受けたのは、東田さんがパソコンと手作りの文字盤を使って意思を伝え、今はどういう気持ちでいるのか、どんな時にどう思っているのかを丁寧に考えながら、紐解きながら表現していたこと。

 

私の身近にも自閉症の方がいます。自分の考えていること、思っていることを表現することが苦手で、周りがイラついてしまうのも分かっていました。どうして分からないの?どうしてああいう行動を起こすの?…と。

 

表現というのは、自分が思っている以上に本当はいろいろな方法があってもいいはずなのだけれど、声で発する言葉、手話で発する言葉だけに頼ってしまっています。今回のDVDは、ちょっとした仕草も実は非言語的なコミュニケーションになるという、当たり前のことに気づかされます。

 

国内にも、聴覚障害者の中には他の障害と併せ持っている人たちがいます。耳が聞こえないからなのか、他の障害が起因しているのか、時々分かりにくいことがあります。自閉症と重複している、ろう者もいます。仕事上、重複している方々と関わることがあり、「今はどういう気持ちなのだろう」と考えさせられることが少なくないので今回のDVDは一つのツールとして、学びを深めるために必要なものでした。

 

日本語字幕もついています。ちょうど、ネットで検索していたらご本人が書いているブログがありました。

higashida999.blog77.fc2.com

 

学びを深めるということは、その人が見ている世界に一歩近づけること。

決して理解し合えることはできないけれど、近づくことで、少しでもその人が何を考え、どう感じているのかを、まずは知る。

大学時代、ある難聴者から「あなたに、私の気持ちが分かるわけがない!」と突き放されて以来、今もこのスタンスで学んでいます。それでもまだまだ分からないことが多いので、これからも書き続けていくつもり。

 

 

セットアップが簡潔に完結

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5月5日土曜日。こどもの日。鴨川ならぬ加茂川(新潟県加茂市)では数多くの鯉のぼりが並んでいます。公共交通機関として使われているバスには日本国旗がついていました。今日も祝日ですね。

 

ところで、最近驚いたことを一つ。

職場で効率化を図るために最新のiPadを設定したのですが、技術の進化にただ驚くばかり。新しい機器を導入する際、セッティングは業者にお願いすることもありますが、iPadは業者に頼まなくてもできるので、自前で行いました。

 

スマホやパソコンを購入したことがある人は分かると思いますが、大体の機器は、初期設定の画面で、いくつかの手順を踏まない限り、タダの物になってしまいます。そんな当たり前の話なのですが、この初期設定がクセもので「え〜〜私、機械はすごく苦手なの」という人にとっては、大きなハードルなんですね。

 

説明書を読めば分かるけれど、iPadの箱に説明書ってありましたっけ?

 

Apple製品は視覚的に理解できることを基準として作られているので、そもそも説明書を見て操作をするということは想定されていないと思います。むしろ、説明書があることで、時間を奪われ、なおかつ難しい操作をさせられてしまっては…という人間の都合を見通した上で、生み出されたのがApple、と私は思います。

 

それくらい、初期設定といえば、結構時間がかかるという先入観があったのですが、見事に裏切られてしまいました。

今回のiPadの設定は数分で終わりました。コーヒーが冷めないうちに。

 

2017年モデルからのようですが、「自動セットアップ」という機能が追加されたんですね。

iphone-mania.jp

初期設定する際、手元にあるiPhoneとリンクして初期設定は終わり、です。あまりにも簡単すぎてちょっと大丈夫なのかしら、と思いましたが、パスコードの確認もあるようで。本当に便利になってきてビックリ。

 

Windowsや他の機器で初期設定がどれくらいかかるか分からないのですが、時間的に効率良く使えるものはこれからも普及していくのかもしれませんネ。

笹団子だけじゃない

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5月4日金曜日。祝日が続くと曜日の感覚がおかしくなりそう。「今日土曜日だったけ?」「いいえ、金曜日でござんす」という会話を何度繰り返したことか。

 

この写真、おむすびではないです、三角ちまき

友人からのいただきもの。ありがたや、ありがたや。食べ方を聞いてみると「え?知らんの?」と言われてしまいました。

 

一般的な食べ方はというと…笹を取って、きな粉につけて食べるだけ。なんともシンプル!

シンプルイズベスト。

 

どの家庭でも食べられるみたいですが、作れる人が減っているみたいです。手間がかかる分、何かと敬遠しやすいのかも。でも、美味しかったです。

 

今度、はちまき巻いて、ちまき作ってみるか〜

 

That's my bag.それは私の好きなことよ。

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5月3日木曜日。連休ラッシュピーク、とニュースが流れている中、読書タイムがいつもより多めに取れて嬉しいこの頃。

 

今回読んだ本は「同時通訳者のカバンの中」。タイトルからにして興味を持つ人は、通訳を経験している人か、もしくは文房具好きな人かも。今回、なぜこの本をチョイスしたのかというと…私にとって通訳は身近なものであり、仕事で通訳者と関わる機会があります。

 

著者は関谷英里子さん。以前に「同時通訳者の頭の中」を出版されていました。関谷さんは英語−日本語の通訳者で、一通訳者としての心構え(気持ちとかそういう部分ではなく、具体的な準備やトレーニング方法)を分かりやすく解説されています。

 

例えば、事前準備については…

まず内容の全体像を理解し、話し手の雰囲気を理解する、という方法で準備をすると、当日もそのスピーカーの雰囲気をつかみやすくなりますし、話の文脈が似ていればスピーカーが話す次の言葉を推測しながら通訳することができます。

 

英語と日本語が一対一で置き換えられないので、(中略)正解はひとつではない分、状況に応じて対応していけばよいのです。

わたしは、このスピーカーが日本語を話したらどのようになるだろうか、という感覚を研ぎ澄ませて言葉を選ぶようにしています。

 

手話通訳も同時通訳を行なっているので、上記のことは「言われなくても分かっている」範疇に入ると思います。私の知るプロの手話通訳者たちは、事前に必ず打ち合わせを行い、事前に情報を収集し、そして日本語と手話の選択を慎重に考えながら通訳しています。

 

ただ、手話通訳者の中には「このスピーカーが日本語を話したらどのようになるだろうか」という部分を、「このろう者が日本語を話したら…」に置き換えてみる。それが感覚的に理解できる人とそうでない人に分かれるかもしれません。

 

手話と日本語を一対一として捉えて通訳してしまう人もいます。

例えば、ろう者が「意味 / ない」と手話で表す場合、「意味がない」と訳すこともできますが、状況によっては「時間の無駄です」とか「そういうのって必要ないかも」という選択肢があります。

手話は、日本語の単語をそのまま手の形に置き換えたものではなく、顔の動きも含まれています。しかしながら、手話の世界では適切な指導を受けられる機会が数少ない地方もあり、通訳実践の場でなかなかフィードバックを得られないこともあります。

このため、ろう者の意図を汲み取ることができず、予想外の通訳実践が起きてしまうことがあります。

 

また、ろう者にとっての日本語は第二言語でもあり、書記日本語でもあります(生まれながらの母語は日本語のはずなのですが、耳から得られる日本語の量は、聴者より圧倒的に数少ない)。このため、日本語が持つ感情(聴者が受け止める部分)と微妙にズレてしまうことがあります。聴者も人によって語感が違うのですが、そういうズレとは別のところにあるような気がします。

 

通訳者は聴者が発する日本語の世界に住んでいるので、ろう者が発した時に「おそらくそういう意味だと思うけど、今はこの場にふさわしくない」と判断し、適切な日本語に訳すことが仕事。

人間が行う仕事なので無論100%訳すことは求めていない。何よりも大事なのはその場にいる聴者、難聴者、ろう者が「相手の言いたいことを、情報として理解する」という環境作りなのでは。

 

と、話がかなーり逸れてしまいました。今回の本は、今の通訳技術に満足できていない方にオススメの一冊。通訳を使うクライエント(ユーザー)、特に手話講師は読んだ方がいい一冊。

 

ところで、私のカバンの中には「耳かき」が入っています。耳が聞こえないのに意味がないって?

動画で見る「聞こえない世界」

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5月1日火曜日。ちょっと時間があったのでYouTubeで調べものしていたら、「聞こえない世界」が垣間見える動画を発見。

 

これは、ろう学校の一日の様子が分かる動画。

子ども同士の会話はもちろん、相手に話しかける時や遠くに座っている人に声をかける時の仕草に注目。聞こえない人なら「そんな当たり前のことをなんで描くの?」と思うくらい、日常生活では当たり前の仕草が出ています。また、ろう学校の寄宿舎の様子も。

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次は、大人(?)の生活編。聞こえる人たちとの関わりも描かれています。

例えば、机の上に置いたスマホが鳴っているとき、隣の人から「うるさいよ」と指摘されて初めて気付く場面。他にも、聞こえる人から「あのう」と声をかけられているのに全然気づかない場面。

 

A Day Through a Deaf Person's Eyes

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こちらは、ロシアの短編映画。手話は全然分からないけれど、ストーリーがなんとなく理解できる内容。ろう者の生活というよりは、人間関係のリアルさが描かれています。

ろう者ももちろん、人間。同じ障害を持つ者同士、仲が良いとは限らないし、良さそうな人もいればそうでない人も。そういった意味では、特別感はないものの、普遍的に描かれていること自体、国内ではあまり見られないんじゃないかな。

 

youtu.be

 

いずれも約10分〜15分なので、ちょっと一息や「なんか面白いものないかな〜」というときにぜひ。

 

左側だけしか弾いてなかった時代

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4月29日日曜日。今日立ち寄ったイタリアンレストランでピアノを見かけました(あいにく写真無し…)。

 

ピアノといえば、左側だけしか弾いてなかった時代があります。私の中に。

鍵盤の左側は、低い音が出ます。右側は、高い音が出ます。

 

それがどうしたのか?というと…

 

弾いたことがある人は分かると思いますが、左側は響きます。手に。

右側へ弾いていくにつれて、振動が少なくなってきて、やがては響かなくなります。左側に弾いていくと、再び振動が戻ります。

 

子どもの頃、祖父母宅にピアノがあり、左側に座ってしょっちゅう弾いてました。当然、周りから「ちょ、うるさいのでこっち側(右側)もね」と言われたものです。

 

私の場合、耳は全く聞こえませんが、補聴器をつけると「音は分かる程度」です。しかしながら、高い音は補聴器でもほとんど聞こえず。

右側の鍵盤は、ただのボタンのような感じで、本当に音が鳴っているのか分からず、子どもながらに不安になったのを覚えています。左側の鍵盤は、振動で手に響いているし、補聴器を通して音が聞こえていました。

 

手で感じ取れる振動。

補聴器を通して聞き取れる音の響き。

 

それを楽しんでいた幼少時代を思い出させてくれたイタリアンレストラン。

今日も良い一日でした。また明日からも、素敵な発見ができますように。

何かをやめる選択肢があるということ

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4月23日月曜日。
夏のように暑くなったと思ったら急に寒くなってきたりと、服の調節が難しいこの頃。

風邪をひいていませんか。

新入社員、新入生にとっては緊張感が少し解れてくる時期。

ある意味、一つの区切りでもあるこの4月、新しい生活にわくわくしたり、人生の岐路に立たされたり…といろいろな人がいます。

 

今までチャレンジしていなかったことを始めてみたり、新しいサークルや部活に入ってみたりと試みる人もいれば、何かをやめる人もいます。この「やめる」というのは、人によっては「本当はやめたいけど、なかなかねぇ…」といったように、なにかとハードルが高いものでもあります。

 

部活がしんどいからやめたいけど、せっかく入ったのだからもう少し頑張ってみよう。

仕事が思っていたのと違って大変、辞めたいけどもう少し我慢してみよう。

 

といった具合に。

時間が経つにつれて、いろいろなきっかけが舞い込んで「よし、やめる!」と決断できることもあれば、「やっぱりこのままがいい」と思いとどまったり。人生、常に選択の連続なのかもしれません。

 

「あれを食べたいけど、今日はこれにしようか」「晩御飯はこれを作ってみよう」と、いつも何かを決めて行動しているのが人間。決めるという行為の中に、無意識の習慣も含まれていますが、「続ける」「やめる」の選択肢は誰でも持っているもの。

 

たまに相談されることがありますが、「手話をやめようと思う」「手話通訳をやってきたけれど、もう嫌になったから手話をやめる」という声があります。手話を学んでいる聴者と接する機会がある私にとって、この言葉を聞くと少なからずショックを受けます。何がそうさせたのか、と話を聞いているうちに大体、原因は分かりますが。

でも、手話を学んでいる人にとって「続ける」「やめる」の選択肢があるのは当然のこと。無理してまで続けて自分の身体を壊してしまっては本末転倒。

 

私も英語の勉強をやめたり続けたりとコロコロ変わっているので人のことは言えません。

でも、私と手話で話をしている間に「手話をやめようと思うんだ」と相談されると、胸に刺さるものが。私との間に、手話を無くしたら…それは私とあなたとではお話ができないってこと?と複雑な心境に。

 

私自身、耳が聞こえないのでコミュニケーションの方法は「口で話す」「口を読み取る」「筆談する」以外に、手話も含まれています。手話を生きた言葉として使っているので、私の中で「もう手話は絶対使わない、手話をやめる」という選択肢は初めから無い。というか、そんな選択肢を持つというのは、自ら生きることを放棄することに近いようなもの。

 

でも聴者にとっては、手話をやめても困ることは少ない。仮にあったとしても、聞こえない人よりはダメージがそこまで大きくない理由は、声で話すこと、声を聞くことによって人と繋がる方法が残されているから。

聞こえない人にとっての手話は、聞こえる人にとっての声、と同じくらい、生きていくために必要なものの一つ。

だから、聞こえる人から「手話をやめる」と相談を受けた時はそういうお話をしています。その上で、決断したことは尊重しています。

 

もう少し、手話を学ぶ人にとって優しい世界であったなら…と時々願わずにはいられません。

 

そして、何かをやめる、ということは何かを始める、と同じくらいポジティブなものでありますように。