うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

日本語を調整して伝える

今日の新潟市はまさに梅雨シーズン。こんな日はきっと、カエルの鳴き声が聞こえるだろうなぁと想像を巡らしながら…読書。

 

以前のブログでも紹介した「やさしい日本語」、読み終えました。

syuwakoushi.hatenablog.jp

 

タイトルの「多文化共生社会」にあるように、移民の話から始まり、外国にルーツを持つ子供たちを取り巻く環境について書かれています。そして、共通点として、ろう児・ろう者の手話についても取り上げられていました。

 

なかでも、日本語母語話者と日本語【非】母語話者の会話について、母語話者が違和感として感じることの一つに文法的な間違い、語彙の使い方があると挙げられています。

 

しかし、違和感を感じるのはあくまでも「母語話者が話すとき」が標準になっているからであって、その違和感が度を超えてしまうと「あの人、なんか変なこと言ってる」と排他的な見方になってしまいかねないと指摘されていました。

 

そんな状況がある中、日本語教室は、定住外国人(観光客ではない)にとっての居場所として機能すべきであり、教室を通して日本人(日本語母語話者)がラポール(信頼)を築いて地域社会に溶け込めるようにサポートする、ということも書かれていました。

 

そういった意味では、かつての手話サークルもそのような機能があったのでは、と思います。というのは、高齢のろう者のほとんどが一度は手話サークルに関わったことがあると話していたからです。

 

本著では、外国人と関わる時に、コミュニケーション力が高まる機会なので「お互いさま」という精神、態度の重要さについて丁寧に説明されていました。

コミュニケーション力というのは、日本語母語話者にとって「日本語を日本語に翻訳する」ことによって、相手の立場に立って分かるように説明をする力、というもの。

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この点において、手話も然り。日本語が分からない、読めないろう者に対して「短く」「シンプル」をベースに伝えたことがあります。結果的に、相手にとってはインパクトが強かったらしく、すぐに反応ができていました。

それが本著で、似たようなポイントが取り上げられていました。

  • 文を短く、終わりを明確にする。
  • 理解しているかどうか確認する。
  • 積極的にことばを言い換える。

 

手話にも応用できる部分があり、日本語をさらに深める時にも意識していくと、自分自身の理解力も深まります。

 

この本は、単なる日本語教育に関する話題だけに留まらず、移民、公文書の翻訳、義務教育(外国籍を持つ子どもには義務教育制度対象外だとか。初めて知りました)、定住外国人の生活について幅広く書かれています。

 

確かに行政からの公文書は、ろう者の中でも「難しいもの、とっつきにくいもの」。そのため、本来は受けられるはずのサービスが受けられないまま、というケースも珍しくありません(定住外国人も同じような状況)。

 

きっと、日本語を当たり前に使っている人ほど「目から鱗」の一冊です。

そして、来日する外国人が増えていく社会に向かって、一度は目を通しておきたい一冊。

6年前に始まった日

6年前の今日。

現在のNPOの前身、任意団体を立ち上げた日。

当時は、これから本格的に始まる未来にわくわくしていた。当然、現実的にはこの日の前も後も、決して楽しいことばかりではなかった。理不尽なことに悔しさを覚えたことも。でも、一人では作り上げることができなかった縁が次の縁を呼び、新たな出会いの連続があって。

苦しいなりに一緒に同じ山を登ろうとする仲間がいて、初めて乗り越えられた。そして、これからも登り続けなければいけない山があることも分かっている。

 

奇しくも今日は、NPOとして開所した施設の5周年祝賀会。

その日を選んだわけではないけれど、きっと「ここから再スタート。しっかり頑張って!」と新たな気持ちに切り替えるための機会だったのかも。本当は出会った全ての方々を招きたかったけれどキャパを超えてしまうので、限定的にしました。

 

今日は本当に、いろいろな想いが溢れてしまった一日。今まで出会った人たちに感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

 

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(東京からの差し入れです)

アドリブと通訳

人前で話す機会が何度かあります。

 

特に講演で話すとき、手話通訳者と打ち合わせてから話すこともしょっちゅう(ここ大事!打ち合わせしない人もいるらしい)。基本的にはパワーポイントのスライドに合わせて進行するか、板書しながら話すかのスタンスでやっています。これでも、まだまだ話し方や伝え方の試行錯誤が続いています。

 

手話通訳者に資料を渡すときはパワーポイントのスライドや箇条書きした資料(受け手が書き込みしやすいように)に要点を加えたものを用意しています。

(ここも大事!用意しない人もいるらしい)

 

手話通訳は、私だけのためではなく、聞き手(聴者)のためにも必要な存在です。

 

聞き手の中には時々、難聴者もいます。難聴者がいると分かったら、要約筆記(文字通訳)をつけるか、原稿の読み上げ(サポーターが文字を追って知らせる)などの方法があります。

(ここまで用意できる人、案外少ないのかも)

 

読み上げ資料を作ることは、話したいことを整理できるだけでなく、通訳者の負担もある程度軽減できます。

しかし、ここで一つ問題が。アドリブができにくくなること。

私の性格上、原稿通りに読むよりも、臨機応変で聞き手の状況に合わせて話すことがあります。

手話通訳者にとってヒヤヒヤすることもあるかもしれませんが、できることならその場で感じ取りながら、フィットした言葉で伝えていきたい。

 

でも原稿の読み上げだと、その通りに話さないといけない。アドリブが効かない。

でも、難聴者にとっては分かる情報保障の手段。

 

いや、でも、、、と堂々巡り。難聴者の方にも笑っていただけるような、「ああ!なるほど!」と思っていただけるような。

何か良い話し方、ないかな。

 

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過去からの贈り物

郵便受けに何かが届いている。何だろうと思って、中を見るとDVD。

「そうだった、予約していたものだった!」。

 

過去の自分からのプレゼントみたいな感じがして、ほっこり。

パッケージを見ただけで、異国の地への旅が目の前に広がって。楽しみがまた一つ増えました!

 

 

小林希 世界の猫宿 [DVD]

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見えない音

いつの頃だったか、夜空を見上げた時、隣にいた彼から「ねぇ、あのお月様には音があるんだよ。知ってた?」。

 

 

今日はスタジオで仕事。プロの方と打ち合わせながら映像の編集作業を確認。

短時間での集中的な打ち合わせだったこともあり、通訳のおかげで円滑に進められました。

 

おトイレ、ではなくて「音入れ」について、「こんな感じだったらいいかな」「もっと雰囲気に合った音(声)がいいかしら」というやり取りもありました。

 

普段、テレビや映画、ネット映像などを見ているとき、耳が聞こえないので「視覚的な情報」が全てになっているけれど、実はその情報が「音声化」されている部分もあるとか。

分かりやすくいえば、映像の中にナレーションだけが響き、「視覚的な情報」としては「その映像が映っているもの」のみだったり。

テロップが出てきたのと同時に、テロップを読み上げる音が入っていることもあるそうです。

 

耳が聞こえないということは、ナレーションが聞こえないことであり、ナレーション自体が「視覚的な情報」の価値をより高めることを、ろう者のほとんどは知らないです。

喫茶店でのBGMも同じで、「このお店の雰囲気が好きなの」という聴者の言葉には、きっと「とても心地のいい音楽が流れているから」も含まれているんじゃないかな、と。

 

それくらい、「音」は生活の中で最も存在感のあるもの、でしょうか。

 

生まれた時からずっと、はっきりとした「音」を聞いたことがない私は、彼に「あのお月様に音があるなら、どうしてみんな、お月様の音が聞こえるって教えてくれないの?」と聞いてみた。

 

「いや、あの音はみんなが聞こえるってわけじゃない。聞こえるかどうかは、その人次第」。

 

ギター弾きの彼は、私に何を言いたかったのかは分からない。

でも、お月様が照らしている夜空の下で、音について語り合って以来、私は「音」の存在をより意識するようになり、今に至っています。

 

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ないものねだりするなら這い上がろう

ああしてくれ、こうしてくれと要求する。

這い上がりは、そこからどうやったらいいかを考えるために上を目指していく。

 

這い上がっていく人生、楽しいはずだけど這い上がっている途中がしんどい。

 

それでも、ないものねだりよりは、行動で示せている「這い上がり」の方が、気持ちが良い。

 

世のなか、いろんな人がいます。

 

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見えないところで守られている

講義の仕事について、今日も打診がありました。今回は、他のスタッフに任せることに。お仕事があることは、本当にありがたいことです。

 

通訳、生活、就労などのキーワードで聴覚障害についてお話しすることがあります。他の障害に関しては素人なので常に、当事者や周囲の話、書籍などで見聞を広げているところです。やはり、奥深いところがあり、すぐには理解できないことも。

 

逆に、聴覚障害についてお話しするときも、一回だけではすぐに理解されにくいのは当然のことと思うようにしています。不思議なことに聴覚障害に関する書籍は数少なく、手話に関する書籍が多いので「手話さえできれば、全て解決できる」と短絡的になってしまうのかもしれません。

 

典型的な例として、手話通訳があれば解決できるという話。

 

あくまでも、ろう者自身に「文法的な間違いはともかく、語彙力(手話、日本語)があること」「何度も経験して学習したこと」「知りたいという好奇心があること」、この3つを持ち得ていることが前提になることを、私たちは案外見落としやすいかもしれません。

  • 「語彙力があること」によって、手話通訳を通して情報を得たり、自分の伝えたいことを伝えることができる。
  • 「何度も経験して学習」することによって、同じような場面に遭遇した時に、とっさに対応ができる。
  • 「知りたいという好奇心」によって、相手との関わりの必要性を見出して今後の対応について想定しながら考えることができる。

 

ほかにも前提条件がある中、この3つのいずれかが不足したとしても何とか対応できます。しかし、この前提条件が最初から無いろう者の場合はどうなるのでしょうか。

 

手話通訳を使ったとしても、「語彙力が無い」と伝えたいことが伝えきれず、通訳された内容が理解しきれず、モヤモヤ感が残る。

「何度も経験」したのに学習ができていなければ、その場でどのように動くべきなのかわからず、受け身に。

「好奇心」が無いと、手話通訳を通して得られた情報に対する価値を感じることさえも難しくなる。

 

これらの3つをどうやって身につけているか、身につけたらいいのか。

正解はないけれど、寄り添ったり向き合える人が近くにいることでフィードバックができること。それも共通の言語を持った上で。

 

例えば、ろう者が病院に行った時、語彙力と経験値があれば、筆談なり口話なりで解決できる。しかし、世の中には、「手話通訳」の「つ」も知らず、家族に守られながら育っているろう者がいます。

彼らが病院に行った時、どんなことが起こるかというと、問診票に書かれている質問につまずきます。「妊娠していますか」の質問に対して、男性なのに「はい」と答えてしまう例も。

 

家族で一緒に行っているろう者からは「困ったことはない。全部(家族が)やってくれるから」と、自ら情報を得ることに諦めています。家族がいないときは?と聞くと、「一人で行く。でも、メモに何が書いてあるか全然読めない」と答える人もいます。

 

家族で行った方が代わりに説明してくれるからラク。自分の体のことなのに任せてしまう。

こうして、本人が知らない間に家族が相談をして、いつでも対応ができるようになっていく。まさに、目に見えないところで守られていることに。

 

茨木のり子さんではないけれど、せめて「自分のことは自分で守れ、ばかものよ」と自覚があれば、家族だけに頼らず、手話通訳という社会資源を使うことができる。それが難しいとなると、日本語力もままならず、本当に大変。

 

言語を身につけるって、案外難しいと絶望的になります。

でも、何かに守られながら生きていることに、少しでも気付きながら前を見ていけたら。

 

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那覇市の中国庭園にて。少しでも何かが入ると、いつもの景色が違って見える)

 

アインシュタインとポチ袋

なんでアインシュタインとポチ袋?と思った方、写真をご覧ください。

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小さな袋が欲しいと探していたら、舌をペロッとした彼と出会いました。一目惚れです。

 

なんてこんな面白いものを作っているのだろう!と感動して、ググってみたらこの方が作っていらっしゃいました。チンギス・ハンさんから織田信長さん、そして又吉さんのも。

fumiwo.com

 

こんな細かい作業、わたしゃ苦手だ〜と思いながらポチッと。

文房具屋さん巡りもなかなか楽しいですね。

山を一つ超えると、次の山がある

 

今日、一つの山を超えました。山に登るって、登っている時がキツくて、しんどい。

(登山経験はそんなにないです…)

 

でも、頂上まで行くと達成感、開放感、安堵感、いろいろな感情がぷわぁ〜っと出てくる。今日がまさにその日で、疲労感も一気に出てしまいました。

 

「あぁ、疲れた!帰って寝てしまいたい」。

 

でも、次の山がすでに見えてきているので、思い切って外に出て美味しいものを食べてきました。

そうしたら、身体は疲れているのに気持ちが上向いてきました。美味しいものを食べたことで「ああ〜、ありがとう。幸せ」とセンサーが反応したのでしょうか。

 

ともかく、一つの山を超えたけれど次の山があるのは、前から見えていたこと。

モチベーションを保ちながらやっていくには、休息も必要。それが、頂上から降りる時間であって、頂上から降りながら次の頂上を登りきるために考えてみる。

 

中途半端な時もありますが、動きながら考えるタイプなので、頂上でじっと考えるよりも、下山しながら考え、麓に降りたときはすでに次の山に向かって歩き出す。

今年は特に、「ああ、疲れた。しんどい」と思うことが多いけれど、やはり頂上に立った時は格別。

 

だから富士山の頂上を目指す人が多いということですね(わたし、まだ登ったことありませぬ)。

 

 

山という例えで、「なるほど!」と思わず膝を打ちたくなる本です。

 

 

今読んでいる本

いつもなら読み終わった本を紹介していますが、今日は現在進行形です。

「やさしい日本語」。 

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

やさしい日本語――多文化共生社会へ (岩波新書)

 

 

朝日新聞の取材を受けた「ろう者の祈り」。

ろう者と日本語について、シリーズの中にあった事例が使われていました。

なぜこういう問題が起きるのか、ろう者の背景についての分析も書かれています。

 

まだ現在進行形なので、読み終えたらまとめてみたいです。

でも、未来形の本が、数冊…。一冊ずつ読んで参ります。

 

 

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(新潟の名物・のっぺ。今夜は冷たいのが出てきました。ああ、もうすぐ夏だから?)