耳が聞こえない人の呼び方
耳が聞こえない人を指す言葉、いくつかあります。
時々、視覚障害者と間違われます。白杖を持っていなくても、おそらく「聴覚障害者」という漢字から「視覚」と「聴覚」を混雑してしまっているかもしれません。
視覚の方が、一般市民にとってはイメージしやすいからでしょうか(メガネをかけていれば見えるようになるといった感じ、ほとんどの人が経験済みだと思います)。
ところで、聴覚障害者の呼び方がいくつかあります。
・ろう者(このブログでも時々使っています)
・難聴者(難しい聴者のこと、ではないので悪しからず)
・中途失聴者(文字通り、途中で聞こえなくなったケース)
・耳が聴こえない人(そうですね。聴こえにくい人もいます)
・耳が悪い人(目が悪い、という同等の意味として使われる。耳が悪いとなると否定的に聞こえるのは私だけ?)。
いくつか呼称がある中で、「ろう者」「難聴者」の間にハッキリした区別はなく、人によって答え方が様々です。
聾学校でずっと育ってきた人をろう者と呼ぶこともあれば、日本語を上手に発音できる人を難聴者と呼ぶこともあります。医学的な区別、文化的な区別といったところでしょうか。その人自身のアイデンティティにも関わる話になります。
聞こえない人が声を出して話をすることについて、発音が聞き取りやすい人とそうでないケースがあります。発音の訓練の成果とはいえ、口や声帯の機能運動によるものが大きく、「聴力が重いから発音は難しい。聴力が軽いので発音が上手」と単純に分かれるわけではないようです。
しかし、ろう者の間で「あなたは、聴者に対して声で話しているから喋れるでしょ」と皮肉めいたこと?を言われることも少なくありません。たいていのろう者にとっては、発音が上手かどうかを聞き分けることは難しいはずなのに。
ろう者の中には、発音が上手に話せる人をコンプレックスの対象として見てしまいます。「だから私は、あの人とは仲良くなれない」と公言するろう者もいます。同じ聴覚障害を持っているのに排他的な考え方になってしまうのは、仕方ない面もあるのかもしれません。発音の良し悪しを基準に評価されてしまった背景があると、なおさら。
聴者から「発音、上手ですね」「ちょっと聞き取りにくいですね」「声が微妙に大きめですね」という評価は、ろう者や難聴者自身にとって一つのレッテルでもあり、人によっては敏感なほど、気にします。まさか面と向かって「あなたの声は聞き取りにくい」とは言われないものの、「ねぇ、あなたのご友人の〜さん、とっても発音が上手ですね」という話があったらその時点で、すごく気にして落ち込むケースもあります。
さすがに声の調整は難しいものです、自分の声は聞こえないから。生理的に、頑張って聴者と同じように声で喋ろうと思っても無理があります。
ここは発想を切り替えて、聴者に「私の声に慣れてもらうしかない」と割り切れたらと思うのですが、シンプルにはいかないみたいですね。
聴覚障害者の呼称がいくつかあるように、その人が抱えてきた人生もいろいろ。
日本語とぶつかる
取材を受けました。取材の機会があるって本当にありがたいです。
インタビューは今までにも何度か受けているのでそろそろ慣れてもいいはず。1日の間に数本のインタビューをこなせる映画俳優さん、プロアスリートさんの堂々した姿勢はほんとにリスペクト。昔は、映画俳優のインタビューが載っている雑誌を買って参考にしていました。「こういう言い方があるんだ!すごいなぁ」と。
もう終わったことはあまり引きずらないですが、いつもインタビューの最中に起きてしまう現象が「日本語と手話」がぶつかってしまうこと。
テレビや動画に出る場合は、手話通訳者に頼んで手話で話しています。しかし、手話通訳を意識しすぎて「日本語での表現」を優先してしまう時があります。きっと通訳しづらいだろうなぁと思いつつ、どうしても日本語の方がニュアンスが伝わりやすいと思ってしまうと「ぶつかる」現象が起きます。
私自身の手話としての語彙力の問題もあるかもしれません。
常に相手によって話し方を変えているので、たまにスイッチモードが混乱するような感じがあります。
聞き手が聴者で、手話を知らない立場だとなおさら、日本語での話し方の方が伝わりやすいことも。
日本語の語彙力もまだまだ勉強不足。手話に翻訳できればいいのですが、翻訳しきれない部分はどうやったらいいのだろう、といつも思います。そもそも、手話と日本語は別の言語なので、完全には難しいのかもしれません。でも、もうちょっとね。
通訳者のスキルによりますが、私が信頼している通訳者に頼んだ上で、起きてしまう「ぶつかる」現象はおそらく、言いたいことを完全に自分の中で翻訳しきれていないのかもしれません。
言いたいことが多すぎるのかな〜
日本語と手話がぶつかる現象、もう少し分析してみます。
この漢字、何て読むの
読めない漢字に出会うと、だいたい下記の方法で調べます。
・近くにいる人に聞く
・スマホで調べる
学生の頃は漢和辞典で調べていたけど、今の学生はスマホで調べるのでしょうか(その方が手っ取り早いという理由で)。
辞典を開くのは面倒くさい作業で、パッと開いた時に他の単語も気になってついつい、時間がかかってしまうというデメリットはあるけれど、それはそれで楽しい作業でもありました。
今日は久しぶりに、読めない漢字に出会いました。
今読んでいるのは、アウトドアとはちょっと違うような合っているような、というジャンルの本です。
ナイル川を下ってみないか (mont・bell BOOKS)
- 作者: 野田知佑
- 出版社/メーカー: ネイチュアエンタープライズ
- 発売日: 2016/11/05
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る
特にこの野田様の本の中から、「筏」という漢字が出ていました。冒頭から、きっとこの本の中では一番高い確率で出ている「筏」。
表紙の写真を見て「筏の上に犬が乗っている」とだけで、な〜んとなく分かります。
普段、本を読んでいるときに、読めない漢字に出会っても文章の流れで理解できればいいので気に留めていません。しかし、今回は「筏」がたくさん出てきてて、ううう!
カヌーと読むにはちょっと無理があるぞ。では、木を切る伐採なのか?
でも切った木の上に犬が乗るのは、なんだか変じゃない?
うーん、うーん(この時点で、すぐに調べたらよかったのですが、本の続きが面白くて本が放せませんでした)。
読み方が分からない以上、スマホで調べるにはちょっと手間がかかります。漢字の読み方で、2通り以上あれば分かる方を検索すれば答えが出てくるのですが、今回のように全然読めない、となるとちょっとタイヘン。
結局、「竹 伐 漢字」と検索したらゴールが見えました。
「筏」は【いかだ】と読むんですって。
え?みなさん、ご存知でした?
こんな感じで、読めない漢字に出会うことが時々あります。
直感で決める
「これにしよう」「この人いいな」「今日はこうしよう」。
外食先でメニューを選ぶとき、「決めるの早いなぁ」という人もいれば、「まだ決められてないのかな」という人もいます。
ずっと前から、直感で決められる人はどうやって?と漠然と気になっていました。
仕事では、立場上のこともあってそのときの判断を求められることが多いです。
以前と比べて判断するスピードは、自分なりに少し上がったように感じています。もう少し多角的に見て判断できたら・・・と勉強不足を痛感することもしばしば。
判断するとき、直感で行う場合もあるけれど、直感に対して「本当に良いのかな」と。
そんな思いを払拭してくれた本がありました。
【「無意識のうちに、自分の脳が下した総合判断」が直感です】
【直感の判断材料になっているのは、それまでに自分の脳のなかに積み上げてきた情報の総量なのです】
【それらをとっさに脳の引き出しから取り出して判断したものが、直感の正体です】
【人は学ぶことでしか成長できません。そして同時に、人は不器用な生き物です。学んだことを自らの血肉とし、自分の頭で考えられるようになるには、時間をかけて勉強し続ける必要があります】
今まで積み重ねてきた部分は目に見えないので、納得。言い換えれば、積み上げていくための日々のトレーニングは欠かせない、ということ。
時には間違った選択をし、判断することもありますが、リカバリしていけるように蓄えていきたい。
今日も「あ、この人いいな」と良いところを見つけていきたいものですね。
コーダの存在
こうだから、こうしないといけません。ああだ、こうだ。
すみません、そういうことではなく「コーダ(Coda)」。
手話を使う人の間では「コーダ」についての話題も出てきます。
コーダというのは、Children of Deaf Adultsの頭文字をとったもので、「聞こえない大人から生まれた子ども」。
聞こえない大人から生まれる子どもも、耳が聞こえない場合は「デフファミリー(聾家族)」。ろう者が生まれる環境の割合としては10%と言われています。
残り90%は、聞こえる大人から生まれます。この数字、どこから出ているか興味深いところですが、手話の本では定番というか、よく言われている数字です。
確かに、今まで出会ったろう者は、「親が聴者」>「親もろう者」というふうに、前者が多いです。
ところで、コーダについては「コーダの世界」(澁谷智子著)という本が有名。
ろう者の行動とコーダの行動、そして取り巻く環境が言語化されていて、私もろう者でありながら「そうなのか」と驚かされることもあります。
ろう者の友人や年上の人と話をすると「え?コーダって何?」と聞かれることがあります。珍しいことではなく、それが一般的であり、息子さんや娘さん自身もまさか、自分がコーダと呼ばれる存在であることについては知る機会がほとんどありません。
手話のできる大人やろう者について熟知している人が周りにいれば、手話に対しても肯定的になれるケースがあります。
コーダの中には、ろう者や手話に対して否定的な見方を持つ人もいます。正確には、持たざるを得なかったかもしれません。聞こえない親を持つことで通訳をやらないといけなかったり、親戚や周囲から無言のプレッシャーを受けてきたため、手話そのものが嫌になってしまった人もいます。
時々、外食していると「あのう、すみません。ろう者ですか」と店員に声をかけられます。「私の両親、ろう者なんです」「うちの親、知ってますか」とも。
ちょっとした会話ができただけでも嬉しいのですが、「すみません、手話が下手なんで」「私の手話は家で覚えてきたので、正しい手話なんて知らないのです」。
このように、手話に対して否定的な言い方をしているコーダもいました。
手話サークルに顔を出さない理由も、親から教えてもらった手話は「みっともないもの」と位置付けてしまい、綺麗な手話を使う聴者たちの中に入れないと思ってしまっている。
また、初対面のろう者に対して「手話が下手なんで」というのは、ろう者に対する礼儀作法のように、一言断りを入れておくことでいきなり手話オンリーで話されなくても済む、というものかもしれません。
「手話が下手なんで」。
その一言だけで、彼らが置かれた環境が凝縮しているような気がしました。
コーダの友人に聞いてみると「ろう者の元で生まれたから手話分かるよね、と決めつけられるのが嫌だった」。「親がろう者ということを、誰にも知られたくなかった」。
中には、手話で育って手話通訳の活動に関わる方もいらっしゃいます。全員が親を否定しているわけではないけれど、様々な環境で育っていることは事実。
コーダを育てているろう者自身も「コーダって何?」という話があるくらいなので、地方に行けば行くほど、まだよく知られていない言葉ともいえます。都会では、コーダの集まるコミュニティを作り、交流を図ることで日々の悩みや思いを共有しています。
地方でもそういう集まりがあれば、コーダしか分からない部分が共有できて本人にとっても安心できると思うのですが、案外見えにくい部分でもあり、まだ発展していない状態でもあります。
コーダにはコーダの思いや考えていること、感じていることも様々なのでもっと話を聞いてみたいです。
もしかしたら、あの頃、小学校や中学校の時にすれ違ったあの人がコーダかも。
タイトルは大事
「寝るまえ5分の外国語」(黒田龍之助著)を読みながら寝るのが習慣、とかっこよく言いたいけれど、ついつい読み込んでしまうくらい面白い。
短すぎず、2ページで一つの話題が終わるので読みやすいです。
この本を買ったきっかけは、「大学生からの文章表現」で出てきた著者の独特な言い方、話し方が面白かったので他の本も読みたくなったから。もう一つは、タイトル。
せめて、寝る前くらいはもう少し気軽に読めるものが欲しいなぁと思って。
タイトルって大事。先日、小説を読む友人たちの話をしていたら「著者もそうだけれど、タイトルに惹かれて読むよね」という点で共感。
そういえば、このブログにもタイトルがありました。日々悩みますねぇ。
無料のジェットコースター
今日も真夏のような暑さ。5月なのに、30℃までいっちゃうと「ああ、今年の夏は大丈夫かしら」と心配に。水分補給はしっかりしていきたいものです。
東京からの来客があったので、昨日は加茂市へ。ちょうど「加茂祭り(乳母祭り)」があり、道路が通行止め、屋台があちこち出ていました。
(車で行かなくてよかった、この日は珍しく電車で行きました)
新潟駅から加茂駅までは約30分(長岡行きなら、直行で行けます)。
まずはランチをとるために、加茂市民オススメのカフェへ。「ピノキオ」という、昭和風の喫茶店。かつて電話ボックスだったスペースが喫煙室になっていたり、ピノキオが数体いたりとレトロな雰囲気があって気に入りました。
しゃもじ付きのパエリア風グラタン。取り分けるためのしゃもじ、かと思ったら違うとのこと。
コーヒーで締めた後(ほんとはビール飲みたかった)、お祭りの雰囲気を味わいながら青梅青海神社へ。(おうめ、ではない。あおみ。)
鶯の鳴き声が聞こえる廊下があり、入場料ではないけれど、50円払うと渡れます。
社務所の話によると、京都の二条城では有名だけれど、県内ではここだけとのこと。なんでも、富山から彫刻家を招いて神社を整備したとか。とても手の込んだ彫刻物があちこち見られます(参拝だけだと案外、見落としてしまうかも)。
近くには、加茂山公園があります。リス園もあり、小さな子ども連れの家族がたくさん訪れていました。加茂といえば、名物「鬼の金棒」。
かりんとう饅頭で、真っ黒な金棒みたいなものだけれど甘くて美味しいです。
ここからリス園を目指して歩いて行くと、熊野古道ならぬ加茂山古道に入れます。
リス園は、文字どおりリスが間近で見れます。パパッと走り回っては急ブレーキのように停まるので、見ているだけでも飽きません(でも帰りの電車の時間が気になって、ソワソワしておりました)。
引き続き加茂山古道を歩いてみると、展望台があります。急な上り坂なので、ちょっと喉がカラカラに。リス園の手前にあった自販機で何かを買えばよかった、とひどく後悔したのは秘密。
登った先に見えたものは、展望台。そこから見えるのが「弥彦山」。風が吹いていて、とても気持ち良い(その場にいた全員、ホッと一息)。
そこから、また急な下り坂を降りないといけないかと思うとため息が。
と思ったところ、加茂山公園名物とも言える「大型スライダー」があったので乗りました。
後で調べてみると全長150メートル、標高35メートルだとか。
こちらのブログでも紹介されていました(動画あり)。
いやぁ、結構楽しかった!また滑りたい!
まさに、無料のジェットコースターでした。
お尻が痛かったのは仕方ないけれど、また滑りたいね!と話していたら、なんと、降りた先に、貸し出し用のマットがあったのでした。入り口に置いてほしかった…。
でも、マットを使えばもっと楽しく滑れそうです。
列車の時刻も迫ってきたので、この日はここまででしたが、加茂市の魅力が少しずつ知れた一日でした。
毎年4月には「雪椿祭り」があるそうです。新潟にも良いところありますね。
東京からの来客、ありがとうございました。
人は出会うべくして出会う
少し前に友人と話していたこと。
「失恋は、その時はすごく痛いけど、次の人に出会うために必要な時間」「付き合ってくれた人には感謝しなきゃね」。
人の出会いは、自分にとって「今」のタイミングで必要だからこそ出会うもの。
もし1年前だったら?もし1年後だったら?そんなのは分からないけれど、少なくとも今、ここで出会ったということは「偶然ではなく、必然」。
そして、当時に出会った人で、今も関係が続いていることは本当にありがたい。SNSでも繋がっているとはいえ、実際に会った時に一緒に過ごせることは、ありがたいこと。
今日も良き出会いがあったことに感謝です。