うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

読み方が分からない

テレビのない生活を送っている、と話すとたいてい驚かれます。

 

ネットが普及しているから驚くほどではないのになぁと思うけれど、それでも「ええ?何で?困らないの?」と真っ先に言われるので、テレビがいかに国民の中に根付いているかよく分かります。

 

最近は好きな番組、好きな時間帯で複数のチャンネルで録画できるとか、見逃した番組をもう一度見れるとか多様な機能がついているみたいですね。買ってみようかな。

字幕もデジタルになってからほとんど付くようになっているし。

 

20年くらい前までは、専用の受信機器がないと字幕がつかなくて「何じゃこりゃ?」と想像力を働かせながらドラマをよく見ていました。

その際、字幕にルビ(ふりがな)がついていて、とても助かっていました。


漢字の読み方が様々なので、「この漢字は何て読むのかしら」と分からないときにルビがあると「こうやって読むのか~」と感心することもしばしば。

 

耳が聞こえていたら、音声を聞きながら読み方を知ることができる。たまに、聞き取れなくて「私も分かんないわ、読めませぬ」と言われることはありますが。


耳が聞こえないのでどうしても、読み方を間違えてしまうことがあります。

 

「日」。
この漢字はいくつもの読み方があります。
「にち」「ひ」のほかに、二日(ふつか)、四日(よっか)などなど。

同じ漢字なのに、読み方が異なる漢字に遭遇すると「うわぁ~何て読むんじゃあぁ?」。

 

そんな場面に時々出くわします。そんなとき、スマホが手元にあるとすぐに調べられるので便利。
でも、調べることに慣れていないと「めんどうくさいな、もういいや」。


そんなときは周りの人に聞いてみればいいけれど「聴者に聞くなんて恥ずかしい。馬鹿にされるから」と頑なに聞こうとしない人もいます。

 

外国人が「この漢字、どう読むのじゃろ?」と聞いてもたいていの日本人なら「ああ、これはですね、こう読みますよ」と気さくに答えると思う。でも、同じ日本人に聞かれたら「なに、そんなことも分からないの」とやや軽蔑的な反応にならないだろうか。

 

そこがとっても不思議に思えて。
ろう者の「漢字が読めない」というのは、外国人とそう変わらない。本人の努力不足がすべてと言い切ってしまったら希望も何も持てなくなってしまう。


本人を取り巻く環境も大事。聞かれたら「これは、こうやって読みます。意味は一緒に調べてみましょう」というスタンスで答えたいものですね。

体を動かすメリット

縁あってジムに通っています。

でないと、車での移動が多いのでどうしても運動不足になりがち。

 

車は便利だけれど、「灯台もと暗し」になりがち(いや、これは私だけ?)。車で走っている道を、あらためて歩いて回ってみると意外なところにお店があったり、意識していなかった場所に建物があったり・・・。

 

運動不足解消の目的でジムに通っていますが、インストラクターとマンツーマンで指導していただいています。
でないと、サボったり何をやればいいのか迷いがち。

 

指導受けながら様々なプログラムをこなしていくと、身体がだんだん軽やかになっていく感じに。


そして、何よりも、身体を動かしていると余計なことを考えずに済む。
これが一番のメリットで、スマホから離れる絶好の機会にもなります。

 

これからも動かし続けていくのみ、ですね。

手話通訳を知らないろう者

いつの頃だったか、メールのやりとりを通して「今度お会いしませんか」という流れになって、待ち合わせしていたとき。

 

私を見て、「え?ろう者ですか」。相手は手話ができる方なので、一言二言交わして、ろう者ということが分かったそうです。

 

「私はろう者です」という内容をメールしなかった私が悪かったかもしれないですが、なぜ驚くのか不思議だったので聞いてみると、「いやぁ、日本語でのメールがスムーズだったもんで」。

 

ろう者にとって日本語は、外国語のように見えてしまう人もいます。


差し出された筆談の紙を見ても、アラビア語のように見えてしまう。
どうすればいいのか分からなくて、その場しのぎの反応を示しておくだけ、という人もいます。 

 

逆もしかりで、ろう者にとって、手話のできる聴者に出会うと「え?聞こえるの?」と驚くこともあります。


驚く理由を聞いてみると、「いやぁ、手話での会話がスムーズだったもんで」。
(ここでいう、手話のできる、というレベルはろう者によって千差万別)

 

日本語と手話。
情報保障としての「手話通訳」があります。ざっくりいうと、二つの言語を行き来し、通訳することで両者のやりとりを円滑化させる仕事があります。
世界で二番目に古い仕事が、通訳と言われているくらい、人と人が関わり合う上で不可欠な存在。

 

ろう者にとって、日本に住んでいるとマイノリティの立場なので、マジョリティとの関わりを持つために手話通訳を大いに活用しているというイメージがあるかもしれません。

 

しかし、「手話通訳、お願いできるの?」というならまだしも「通訳って何?」というろう者もいます。


今までどうやって生きてきたかというと、必要最低限の会話を紙に書いてもらって、煩わしい契約書などはすべて家族や親族で対応してきた、というケースも珍しくありません。必要最低限の内容なら、日本語の単語で何とか対応できます。


英語も同じように、文法が間違っていても何となく単語を並べておけば、相手の察する力によって救われることがあります。
(それが正しいとか間違いとかではなくて)

 

きっとそれが「筆談でも、ろう者があいづち打っているから通じているね」と誤解しやすい部分かもしれません。

 

手話通訳を知らないろう者は、手話のできる聴者に会った経験がほとんどない。手話のできる聴者に出会うと、「この人、聴者?ろう者?」と近くにいる人に確認する癖があります。
差別化したいのではなく、あくまでも確認作業として「自分の手話が通じる相手なのかどうか」という不安からくる質問、と私は見ています。

 

そこから一歩踏み出して、手話を通して聴者との関わりを増やしていくことは、共存共栄の社会作りへの一歩だと思います。

 

ろう者にとって音声言語の日本語をうまく使いこなすことが難しいのなら、手話という言語を通して人との関わりを深めていく選択肢が、ろう者の中にあってもいいのではないでしょうか。

通じないことがあってこそのコミュニケーション

仕事柄、ろう者同士の会話を観察するときがあります。

 

お互いに手話だったり、口話(こうわ)だったり。口話で話すときは、日本語として話すけれど、通じ合っていないまま話をしている場面が時々あります。

 

聴者同士、日本人同士でもありがちな場面なので、そんなに変わらないはず。
でも、時々「ろう者同士なんだから通じているんでしょ」と信じてやまない人に出会います。
手話って素晴らしい、手話ってお互いに顔を見て話すからすごい、と言われますが、どの言語にもそれぞれの魅力があるように、手話だから上位というわけではない、と説明しながら否定し続けていると「あ~もういいや」と思いたくなるときも。

 

日本語の話し方で、若い人からお年寄りまで言い方がそれぞれ異なっていたり、その人の性格や育った環境によって方言だったりする。それと同じように、手話もそれぞれの話し方があります。


巷で日本語対応手話、日本手話という話があり、日本語対応手話が劣勢、日本手話が優勢みたいな話もある中で、ろう者の手話を観察しているとおもしろいことがいくつか出ていますよね。

 

ろう者によっては、日本語対応手話の方が自然に表現できていたり、そうでないケースもあるので本当に、千差万別。


日本手話で話をしなければいけない、という窮屈さよりも、コミュニケーションの手段としての日本手話を使ってみるという「手段」的な視点を持てる人を増やしていきたいです。


あくまでも、ろう者に会って手話で話をすることは、手段の一つであり、ろう者自身の価値観や思いを知ることが目的。

目的と手段をはき違えないように、そして、コミュニケーションが取れなくても通じるまで話をすることこそが、コミュニケーションの一つではないでしょうか。

手書きのお便り

メールが連絡手段として使われているこの時代、耳が聞こえなくてもメールでのやりとりができる、まさに「文明の恩恵を享受」。

 

でも、時々、手書きの手紙を書いたり届いたりすると嬉しい。メールでもいいのに、わざわざ時間をかけて書いてくれるって、すごい。


今日もすてきなお便りがきました。 

丁寧な字で書かれていて、交流した年月を思い起こしてくれるような文面。「そうだった、あのときにこうだったんだ」。

 

相手を思い浮かべて、お便りを書く作業は一見、時間がかかるけれど心に響くものがそこにあって。

 

手書きのお便り、よく考えてみたら、世界で一つだけの贈り物なんだね。ありがとう。

 

 

定期購読は時間の締め切り

定期的に届いてくる雑誌があります。

定期購読を依頼(たまたまその雑誌は地方では販売されていない)しているので月2回のペースで送られてきます。

 

帰宅後に雑誌を手にするたび、「あ、今日は月の初めだからだなぁ」。


今日がいつなのかをあらためて教えてくれます。

 

定期購読は、決まった時期に送られてくる便利さだけでなく、
時間の間隔について気付かせてくれる便利さがあります。
あと2週間で桜の季節は終わるのかぁ。
もう2週間したら、いよいよ夏の始まり。

 

 

今日も届いていました。
(しかし、問題なのはこの後で、雑誌を読むタイミングを逃すと、そのまま積ん読・・・)

Apple Watchは「音」を伝えてくれる

今日、仕事している間ずっと違和感があって。腕時計を家に置き忘れてしまったので、ずっと違和感がぬぐえず。左腕が妙に軽くて。

 

腕時計は日頃つけているので、いつも時間を確認するときにはスマホよりも時計を見ています。時々、会食や誰かといるときはスマホで確かめるときもあるけれど、日付を確認するときは、もっぱら腕時計。

 

先日、腕時計を思い切ってApple Watchに変えてみました。10年くらい愛用していたものは、大事にしまっておき・・・(Apple Watch、バッテリーが切れると使えなくなるので、そのときはアナログ時計の出番)。

 

仕事柄、スマホを連絡手段としてほぼ使っているのですが、Apple Watchに変えて数ヶ月経ったところ、思った以上に活躍してくれています。

 

万歩時計やアラームが使えて助かっているけれど、何よりも一番大きいのが「メールの着信音がバイブとして知らせてくれること」。


スマホもバイブがあるけれど、ポケットや鞄に入れていたらほとんど気づけない。しかも、iPhoneなのでメールが来ているかどうかの確認をわざわざ「ホームボタン」を押さないといけない。


でもApple Watchに変えてからは、わざわざ押す手間がかからなくなり、料理している間も「あ、メールが来てる、あとで確認しようっと」と心構えができるように。

 

音が聞こえる聴者にとっては「あ、誰かがきた」「あ、メールだな」と気付くのは当たり前のことに過ぎないでしょうか。

 

先日、「ドアの向こうで足音がしたので、誰かが来た、って分かる」と聴者と話していましたが、ろう者はその足音が聞こえない。聞こえないとすると、ドアの向こうに誰かがいるかなんて考えもしない。そうすると、いきなりドアが開いたように感じるのも無理はないかもしれません。

 

音の果たす役割、案外大きいかも。

明日から忘れないように持って行きます。

あいづちが打てるようになりたい

「はい」「へぇ」「あ~」「うん」「そうですね」・・・

会話の中で何気なく行われているあいづち。

相手に安心させたり、警戒されたり、興味を引いたり、と何でもできるあいづち。


あいづちがないと、会話が進まないというのは手話も同じであって、できることならスムーズにあいづちが打てるようになりたいもの。

 

手話で会話するとき、「分かった(理解したかどうかは別)」というあいづちがあると「話が通じた」と安心できます。それに、手話であいづちができることは、一歩レベルが上がった、も同然。手話を教える仕事に携わっていると、あいづちができるかどうかによって教え方を変えていました。

 

英語であいづち打てるか、と聞かれたら「I see」や「gongratulations!」があるのは知っているけれど、いざとなったときに出てくるだろうか。


まだ日本語の方がなじみがある感じだけれど、英語の勉強はこれからも続けるということで。

あいづちは会話の潤滑油と言われるくらいなので、せめてあいづちを自然体で打てるようになりたいものです。

ドアの向こうにいる人を呼ぶためには

「コンコン」。

部屋の中にいる人に、「入りますよ」とドアをたたくアレです。
音を出すことで、中にいる人が「あ、誰かが来る」と心構えしやすいようにお知らせするようなものです。

でも音が聞こえなかったら、突然ドアが開いてビックリすることに間違いなし。

 

部屋の中に、聞こえる人がいれば「今、音がしました」「今、誰かが来ます」と教えてくれるので心理的に安心できます。

 

でも、もし、ホテルのオートロックのように、
中にいる人に開けてもらわないといけなくなったとき、
中にいる人が聞こえない人だったら・・・。

 

「コンコン」が無意味な音になってしまい、
開けてもらえる可能性がないと分かったとき、人はどうするのでしょう。


近くに窓があれば、窓越しに手を振ったり光を出したりと工夫できますが、
ホテルの部屋だとそうはいかないので、どうするのか。

 

さすがにドアを強くたたいたり、ガチャガチャと開けたりするわけにはいかない。
こういうときはメールをすればいいと、今の時代ならそう解決できますが、
仮に携帯を持っていなかったら。仮に、携帯の音に気づいていなかったら。
(携帯も、結局は音があって初めて使えるものに)

 

「音」が果たす役割の大きさに絶望しながら、でも、
そんなときはドアの下にある隙間を活用して、新聞紙を揺らしてみたり、カードを投げてみたりと、工夫ができます。

 

それでも気づかなかったら?

 

ここは潔くあきらめましょう。時が経てば、気づいてもらえる可能性が高いです。
(でも、病気とかで倒れていたら大変なことになります。なので、できるだけオートロックの便利さに頼らず、いつ起きても大丈夫なように対策したいですね)

ドアの向こうにいる人に気づかせるためには。
部屋の中にいる人を呼ぶためには。

 

ちょっと考えておくだけでも、心構えができるはず。

スルーしてしまう人もいるけれど、見る人もいる

 

「目を会わせろと言われても、どうやって合わせたらいいのか分からなかった」。

 

手話を習う人の中には、視線を合わせることに難しさを感じる人がいます。

 

日本語、英語、韓国語などの音声言語は、耳から入り、口から出てくるので、目をあまり使わなくても会話ができるからですね(非言語コミュニケーションとしてのボディランゲージもありますが)。

 

それに、「見られる」ことに対して強烈な違和感を持つ人もいます。

 

他人に肩を触られたくないという感覚も似ていて、

自分の周りにある範囲の中に入ってもらいたくないという、パーソナルスペースがあります。

世の中、自分とは全然異なる感覚を持つ人がいることをついつい、忘れがちなのかも。

 

視線を合わせることについて、盲ろう者もいますが、

ろう者は良くも悪くも他者との目を合わせることには慣れています。

耳が聞こえないが故に慣れざるを得ない、ですね。

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聞こえる人の中にも、視覚的に捉えることが得意ということもあります。

それに近いと思いますが、手話を使って話すときの視線は「手の動き」ではなく、

相手の目と口を真っ先に見ます。

 

分かる、分からない、の前に「見る」。そして、頭で頷く。

頷くタイミングによっては、相手に「あ、今のは通じたんだね」と誤解させることもあります。

あくまでも、次の流れを確認したくて促しているだけなのに。

 

言語と文化の違いでしょうか。

 

先日、エレベーターですれ違う時、ろう者の方が「あ!こんにちは」と視線を合わせて挨拶しました。そして、同じ日にエレベーターに乗ろうとしたら、聴者に会いました。

「あ!こんにちは」と言いかけたところ、私の存在に気づいていなかったのか、聴者の方からスルーして通り過ぎようとしていました。

あとで本人に聞いてみたところ、気づかなかったそうです。

 

普段、視覚的に情報を得ているからこそ、相手側の顔を見ることが習慣になっています。

目を合わせて話すことは、自己啓発の本にも書いてあるように、信頼関係を築く上で欠かせないもの。とはいえ、ろう者を相手に話すと大変緊張してしまう方もいらっしゃるようです。

 

それでも目を合わせることは、相手を安心させる意味でも重要なこと。

慣れるまでに時間がかかりますが、一度慣れてきたら強みになりますね。