耳が聞こえないのに「聞いてない」
え?そんな話があったの、聞いてない。
この「聞いてない」という言葉、日本語としては聞き慣れています。
でも、ろう者が「聞いてない」と表していることについて、「耳が聞こえないのに?」とちょっと不思議に思いませんか。
「知らない」という言い方だったらまだ分かるけれど、生まれつき全く聞こえないろう者が「そんなの、聞いてないぞ」と表すのが不思議に見えます。
生まれつき目が見えない、盲の方で「見てない」という日本語は使うのでしょうか。
ラインは分からないけど、LINEは分かる。
日本人のスマホ使用率が高くなっているこの頃、LINEを使う人も増えてきているのでサクッと調べてみたら、2015年12月の時点で「6,800万人」。
Facebookは2,400万人、Twitterが4,000万人(あくまでも同じサイトからの比較)なのだから、LINEはとても身近なものになっていますね。
ろう者の中にも、LINEでのやりとりの方がスムーズにできて便利だという声があります。
手短に言葉(日本語)を入れるだけでなく、手話で自撮り(動画)したものを送ることで、メールよりストレスが少ないようです。
メールだと、日本語を打たないといけないから、という理由。スタンプなら言葉にできない気持ちを伝えることができるから、という理由も。
文明の恩恵を使いこなしていくことで連絡のやりとりがスムーズに。
そこで不思議なのは、LINEを使っているろう者の中には、LINEを「ライン」と読むことができない人もいます。
LINEは理解できるけど、ラインは理解できていない。
この話、何の話だろうと思うかもしれませんが、事実です。
もう少し噛み砕いていくと、
「LINE」が理解できる=連絡のやりとりに使うもの
「ライン」が理解できる=LINEをラインと読む(このほかに、工場で使うものを指す意味もありますね)
ろう者の中には「ライン」を指文字で表されると「ら・い・ん」と映り、それが何を指すものなのか、理解できないケースがあります。
LINEを表すときは、手話で「L」の字を使って送り合うように表します(これも、おもしろいことに地域と年代によって手話が異なります)。
なぜ、当の本人は「LINE」と理解しているのに「ライン」が読めないなんて、どういうこっちゃ??
この場面に遭遇すると「何で読めないの、何で分からないの、何で覚えられないの」と周りが思います。無理もない話。
日本人にとって、日本語ができることは当たり前(と思っている人がいかに多いことか。無意識に。)
外国人(見かけが外国人でも、生まれが日本、というケースも含めて)なら、
日本語が読めなくても「外国人だからね」というフィルターがかかって、許される。
でも、ろう者は見かけが日本人なので、それだけでもう許されない。
極端ですが、分かりやすく言うとそんな感じじゃないでしょうか。
もし、外国人だからねというようなフィルターがかかっていれば、「LINEが読めないのかな、これはラインと読みますよ」という風に教えることができるのでは。
LINEはあくまでも例えの一つ。
ケンタッキーもそう。カーネルおじさんの髭をモチーフした手話を表し、口の形は「ケンタッキー」っぽく表している。
でも、本人に聞いてみると「ケンタッキー」と答えられない。
それでも生活はできる。ケンタッキーが言えなくても、困らない。
人に馬鹿にされても、気にしていなければ大丈夫。
そんな日常生活が所々、あります。
ろう者は耳が聞こえないから、日本語が分からない。
耳が聞こえないから、日本語が上手く話せない。
これは正しくもあり、間違いでもあります。
ものすごく日本語の語彙が豊富なろう者もいますし、限られた生活言語として使っている人もいます。
ただ、日本語が分からないろう者に対して「頭おかしいんじゃない」「何で分からんの」と蔑むような見方だけは避けて通りたいもの。そのような見方を持ってしまったら、そう思った時点で思考停止になります。
ろう者と日本語の結びつきについては、終わりのないテーマでもあります。
私もここまで書いていて、うむむ、私はどこへ向かおうとしているのだ?と思うのでありました。
歯医者さんで、うっかりしてしまうこと。
最近お世話になってます、歯医者さん。
数年間、虫歯さんにごまかしてきたけれど、さすがにメンテナンスしないといかん!ってことで、通い始めました。
(どこまでも続く成田空港国際線ターミナルにて)
初診のときからずっと、歯科衛生士さんが丁寧に説明してくれるので不安も徐々になくなり、虫歯さんとうまく付き合っているところです。
ぎゅるるる〜(機械の音)
虫歯を削り取る機械の音がすっごく嫌いだから行きたくない!というの、多いみたいですね。
耳が聞こえないので、音も聞こえないからあまり気にならないです。
でも、困ったことが一つ。
「痛かったら手をあげてくださいね」。
これは分かるんだけど、
「いまはここのあたりが、そうですね、こうなっておりますのね(歯の状態について、鏡を見ながらの説明)」。
マスクされているから困る、というのは経験あるけれど、その方は丁寧に対応してくれてマスクも外してくださいます。
しかし、その度に、相槌のつもりで首を振ってしまう。
口の形を読み取ったり、手話で話す時もたいてい、「伝わっていますよ」という意思表示として首を振る。
聴者が相手なら、声で返すことも多いけれど、つい癖で「うん、そうですね」と縦に振るのでリアクションが分かりやすいと思われているかもしれません。
それはそれでいいんだけれど、
歯医者さんでとなると、横になって口を開けた状態で、つい縦に振ってしまうと大変なことに。
聴者の方は普段、口を開けた状態でどうやって相槌打ってるのだろう。
未だに解けてないこの疑問。
歯科衛生士さん、すみません。
次回から気をつけます。
鼻づまりの声がどんな感じなのか想像できない
初対面の人から「あのう、風邪ひいてますか」と言われる。
続きを読む人に任せられる案件をもっと増やしていきたい。
「部下ができたら読む本」「リーダーとはこうあるべき」という自己啓発の本を何冊か読んだけれど、いざ部下を持つとなると、どこまで踏み込むか踏み込まないかという線引きに悩むようになった。
悩むと言っても、悩み方自体はちょっと違うのかも。
上司がいたときは、指示されたことの意図をつかむことに精一杯だった。それはそれで、上司が求めるもの、目指しているものは何なのか考え込むことがあった。
管理職として、リーダーとして取り組むことになった今、考え込むほどの時間は無く、その都度「今のはだめだったかな」「もう少しはっきり言った方が良いかも」と戸惑いながらも意思決定を下している。
そして、少しずつ仕事を頼みながら調整してみると、やはりキャパを超えない範囲で頼むことによって管理職の仕事もスムーズに。丸投げではなく、その人が取り組むことによって学びを得る内容であれば、任せる!と決めておく。
今年はリーダーとしてのあり方を模索しながらの一年になりそう。
ひとまずは、「残業せずに帰ろうよ」。
手話を使うと脳も鍛えられる?
とある本で「指は第二の脳」と書いてありました。普段、指をこまめに使うといえばパソコン、料理といった指を使う作業のときがほとんど。
ろう者は手話使うので、指をしょっちゅう曲げたり伸ばしたりしています。指を器用に捻ることもできたりしますが、脳への影響はどのくらいなんでしょう。
ちょっと調べてみようかな。
ちょっと躓いても、すぐにリカバリーできればOK
「躓く」の漢字、手書きだと書けそうにもない、、、パソコンだから便利ですね。
最近、漢字を書こうと思ってもパッと思い出せないのはそのせいかなぁ。漢字は思い出せるけど、「さぁ書いてみよ」と言われたらちょっとどきどきしてしまう。
はい、「つまずく」と読みます。
仕事にしても生活にしても、ちょっとミスしてしまったり、間違えてしまうことはよくあること。書類にハンコ押さないといけない場面でうっかり逆にしてしまったり、待ち合わせの場所を調べたにもかかわらず当日になって迷子になったり。
人間だから完璧にはいかない。だからって、そのままでいいのかといったら、違いますよね。ミスが起こった原因を突き止めることは大事だけれど、それ以上にリカバリーが大事では。
ハンコを逆に押してしまって「まぁいいや」で処理したら、それこそお客様や取引先に大変失礼なことになってしまう。あらためて作り直すか、逆に押印した部分の近くに再度押すなどのリカバリーが必要だけれど、中には、パニックになりどうすればいいか分からず、書類を破り捨ててしまうケースもあります。
利用者さんたちを支援する側も同じように「なんでミスするの?」という言い方はできるだけ避けている。
ミスしたときにものすごく上司に怒られてしまってトラウマになりかけているケースもあります。
でも本来はミスするのが人間なので、どのようにミスを解決していくかという視点をこれからも持ち続けていきたいものですね。
ろう者にとって「うるさい」は褒め言葉。
ろう者が「うるさい」という言葉を発したら、私としては褒め言葉だと捉えています。
ろう者が「うるさい」と言うと、「え?耳聞こえるの?」と聴者に言われます。
かくいう私も「静かだなぁ、ここ」と言うと、「え?どうして分かるの?」と言われたことがありました。
どうしてってそんなの分かるでしょう、と思ったけれど、確かに私は全く耳が聞こえないので「静か」とか「うるさい」という言葉が出てくることは想像できないのかも。
夜の町(人気がないところ)や田んぼに囲まれているところでは、視覚的に物の動きがほとんどないから「静か」に写る。
逆に、物の動きが多ければ多いほど「うるさい」と感じる。
あくまでも視覚的には、なので、時々聴者が思っている以上に「静かだなぁ」と思ってしまうこともあります。ほかのろう者にもそれとなく聞いてみたり観察してみたりしたけれど概ね共通しているようです。
最近、ろう者の一人が「ここにいると、うるさい」と言い続けています。
何かしら?と思って話を聞いてみると、「聴者がたくさんいるところでは、静かだから」。
どっちがいいのかと更に聞いてみると、苦笑いしながら「まぁ、どっちでもいいけどね。でも、手話が通じるところが良い。安心できる」と答えていました。
耳が聞こえない本人にとって、相手の話が分かったり、雑談の内容が自然に(耳ではなく、目に)入ってくることによって「情報を得ている状態」に。
聴者がたくさんいるところだと、全員が手話使えないために口で話のやりとりをしていて、本人にとっては「何の話か分からないけど、何か喋っているな。でも分からん」という、「情報が入らない状態」に。
情報が入れば入るほど、頭も使うので「うるさい」と感じるようです。
雑音とはまた違った感覚の「うるさい」、ろう者がその言葉を発したら、まさに本人は自ら情報を得て、得た情報に対して頭を使っているともいえるのではないでしょうか。
でも、別の意味での「うるさい」というのがあって。
残存聴力を活かした補聴器装用者にとって、雑音まで補聴器が拾ってしまうが故に、心理的にも身体的にもそぐわない音として「うるさい」というのがあります。この場合は、聴者の「うるさい」と似たような感覚かもしれません。
情報を得ることって、当たり前のようだけれど、実はとっても大事なことなんですね。
仕事に対する見方を変えると人生も変わる
今日が入社式というところも多かった日。
私の職場は小規模というのもあって、新卒に一斉採用するパワーを持ち得ていないので、年間いつでも採用される機会を提供しています。
入社は、文字通り新しい会社に入るのでわくわくと緊張感で精神的にも刺激される出来事。
退職は、その逆で、結婚や転職、いろいろな事情があっての出来事。
私も会社を辞めたことがあるけれど、当時は会社を辞めたくてタイミングを見計らっていたように思う。それも、辞めたいから早く日が経つのを待つといった受け身ではなく、辞める日が近づくにつれて職場から何かを学び、何を持ち帰れるか考えながら仕事をしていました。
そして退職した日、無職というかフリーランスの立場になったけれど、その日の夜は解放感に満たされました。
当然、収入が減ったり生活環境がころっと変わった(雪国へやってきた)ので不安も。でもそれ以上に「今後の生活に何だか、とてもわくわくする」という気持ちが大きかったので決断できたのかも。
こんな風に人生の岐路に立つ出来事があるたびに、退職した夜がよみがえってきます。
安定した仕事を持つことはとても大事。人生、生きていくためにはお金も必要なので。
その上で、目の前にある仕事に対して一生懸命になれるかなれないかの違いはすごく大きい。嫌々やって、老後のために定年後遊ぶために貯蓄するという人生と、そうでない人生のどちらかが自分にとって納得できるか。
自分で決断して、当然、一人では生きていけないので周りの人のサポートを受けながら、能動的に生きていくことは、自分の人生に対する責任でもあるのでは。
そんなことを悶々と考えながら入社式とは何だろう、と思うのでありました。