うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

通じないことがあってこそのコミュニケーション

仕事柄、ろう者同士の会話を観察するときがあります。

 

お互いに手話だったり、口話(こうわ)だったり。口話で話すときは、日本語として話すけれど、通じ合っていないまま話をしている場面が時々あります。

 

聴者同士、日本人同士でもありがちな場面なので、そんなに変わらないはず。
でも、時々「ろう者同士なんだから通じているんでしょ」と信じてやまない人に出会います。
手話って素晴らしい、手話ってお互いに顔を見て話すからすごい、と言われますが、どの言語にもそれぞれの魅力があるように、手話だから上位というわけではない、と説明しながら否定し続けていると「あ~もういいや」と思いたくなるときも。

 

日本語の話し方で、若い人からお年寄りまで言い方がそれぞれ異なっていたり、その人の性格や育った環境によって方言だったりする。それと同じように、手話もそれぞれの話し方があります。


巷で日本語対応手話、日本手話という話があり、日本語対応手話が劣勢、日本手話が優勢みたいな話もある中で、ろう者の手話を観察しているとおもしろいことがいくつか出ていますよね。

 

ろう者によっては、日本語対応手話の方が自然に表現できていたり、そうでないケースもあるので本当に、千差万別。


日本手話で話をしなければいけない、という窮屈さよりも、コミュニケーションの手段としての日本手話を使ってみるという「手段」的な視点を持てる人を増やしていきたいです。


あくまでも、ろう者に会って手話で話をすることは、手段の一つであり、ろう者自身の価値観や思いを知ることが目的。

目的と手段をはき違えないように、そして、コミュニケーションが取れなくても通じるまで話をすることこそが、コミュニケーションの一つではないでしょうか。