シャワーの音
少し雨が降ってきたと思ったら、まだまだ暑い日差しが。
どんなに暑くても、お風呂は必ず湯船に浸かっています。で、最近失敗してしまいました。
普段あまり使わないシャワーを、どういうわけか、使うことになって。
お湯と水をそれぞれ出して調整する(後になって知ったけれど、調整しなくても、あらかじめ設定した温度で出てくるというシステムだった)つもりで、シャワーを使いました。
そこまでは良かったけれど、シャワーを使うときにお湯と水の二つ、蛇口をひねったのですね。当然、終わった後もちゃんと締めるべき。
それなのに、どういうわけか、蛇口を一つだけ締めてそのままにしてしまったのです。
しかも、シャワーの向きは壁に当てたような形にしていたので、ほんとに気づかず、そのまま浴室を出ました。
このあとは想像にお任せしますが、「いやぁ、やっちまった…」とその日の夜は凹みました。
地球さん、ごめんなさい。
シャワーの水は音が出ているので、聴者であれば「ん?なんか音がするな」と気づけたかもしれない。ああ、聞こえないからこそ、気をつけていたつもりだったのに。
そんな出来事がありました。その場を立ち去るときは必ず、後ろをもう一度見ていきましょう、ですね。
(写真がないので、こないだの旅写真を)
聞こえない人が一人だけの時
高校野球が始まったと思いきや、初戦からハラハラする展開で一喜一憂しているこの頃。こんな炎天下で大丈夫なのかなと余計な(?)心配をしながら、でも見ていて、応援したくなってしまう。
母校が出るわけでもないのに、地元や愛着のある地域の学校が出ると「ガンバって!」。テレビを見るとホントに仕事が進まないので、スマホで速報を確認しながら。
野球はチームプレーがモノを言う。個人がいくら強くても、チーム全体が強くならなければ勝てない。これは何年もずっと続いている伝統というか、鉄則というか。
チームというのは、職場でも似ていて。
その中にいる一員として、最大限の実力を発揮するためには、ひとりだけでは難しい。ひとりだけがどんなに強くても、実力が良くても、結果的にはアンバランスになってしまう。個人に負荷が集中してしまうから。
(輝きを放ってるのは花だけではない)
野球で例えるなら、エースがいくら良い成績を残しても、打線が音無しでは、勝てない。打線が強くても、守備が脆かったら負ける。
歴代の優勝校を見ると、かつて横浜高校のように強いエースがいても勝てたのは、運もあるけれど、チームプレーとしてお互いを励まし合ったり、点を取られても取り返す!という執念深いところがチームとして共有されているような気が。
そこで、耳の聞こえる人たちに囲まれて、聞こえない人が一人だけのチームだったら?
今までにも高校野球のドキュメンタリーで紹介されたことがありました。
職場で聞こえない人がより高い実力を発揮できるとしたら、それなりに周りとのコミュニケーションも含めてチームプレーしやすい環境作りが欠かせません。
そもそも、コミュニケーションというのは双方向のやりとりを通して、思考、共感を伝え合うもの。
仕事上の報告、連絡、相談だけにとどまらず、日常会話の雑談も含めてがコミュニケーション。
そういったものを毎日行えるようになるためには環境作りとして、周りからのアプローチが大事。もちろん、本人からのアプローチがあってのこと。
チームの一員という意識を持つことで、働きかけることはできるけれど、その意識を持つためにはどうしたら?
監督に言われっぱなしのチームより、自分で考えて行動できて監督とも話し合いができるチームの方が実力がつきやすい?(野球のことは分からないけれど、ゴルフの場合はキャディとの二脚三脚が結果を呼ぶみたいですね)。
チームのあり方、職場でも考えさせられることがあったので今日はここまで。
また次回へ。
教養としての社会保障
ライフネット生命の出口さんが紹介していた本。
なんとなく難しそうなタイトルだけれど、仕事と生活に関わる社会保障を知るべく購入。出口さんが勧めていたのもあって、これは読まなきゃ!と。
重要なキーワードを網羅していて、介護、医療、雇用、障害者、児童、地域、などなど身近なものが多かったです。
社会保障の基本から、現在の社会保障と国家財政に関する話が書かれており、データと照合しながら今後の方向性について学ぶのに最適な一冊になりました。繰り返し丁寧に読み砕いていきたくなります。教科書として使われていたらきっと、早い段階で社会生活について理解が深まりやすかったかも(それはそれで、今の年齢だから言える)。
じっくり読み砕いていきます。
話が通じなかったら?
日本人「うーん、、、」
外国人「だから○○だって!」
日本人「いやぁ、そういわれてもなぁ」
外国人「オーマイガーッ!」
先日、空港から目的地に向かうバスに乗って少し走り出したところ、タクシー乗り場でこんな場面を見かけました。
大きなバッグを抱えた欧米人(外国人)が、タクシー運転手(日本人)と何やら話をしていました。
欧米人らしき旅行者はおそらく、空港からどこかに向かいたいようで、スマホと印刷した紙を見ながら伝えようとしている。一方、運転手さんは頭を掻きながら、苦笑いしながら首を縦にも横にも振らず。
欧米人は一瞬呆れながらも、懸命にスマホに何かを打ち込んで、運転手に見せようとしている。
この場面を最後まで見ていたかったけれど、私の乗っていたバスが走り出してしまいました。
結局どうなったのでしょう。バスに乗っていなければ、私が「あのう、何か?」と英語で筆談しようとしたかもしれない(でも、状況によっては最後まで見ていた方が良かったり。その前に、話しかけられる勇気があったかどうか…)。
あの後、欧米人は無事、移動できたのだろうか。運転手さんも目的地がやっと分かってホッとしたのだろうか。いろいろな展開が頭の中をぐるぐる。
この場面を放っておけず、じっと見てしまったのは、日頃の生活で「話が通じない、分からない」という場面を少なくとも一般的な日本人よりは経験しているから。
スーパーで買い物する時、店員さんが何かを言う。通い慣れているところなら口の形が読み取れなくても、アレかな?と察することができます。
しかし、不慣れな場所だと「ん?」と無意識に聞き返す場面も増えてきます。
私の反応に戸惑う人もいれば、とっさにコミュニケーション方法を切り替えて対応できる人もいます。冒頭の運転手さんも、どう答えていいか分からず、Yesとだけ答えても困るのでどうしよう、という状態だったかもしれません。
これからの時代(今も含めて)、多種多様な生き方が目に見える形で出てきています。外国人を見かける機会も増えています(訪日外国人、前年比18%増加)。
統計データ(訪日外国人・出国日本人)|統計・データ|日本政府観光局(JNTO)
外国人に会った時、自分の持っているコミュニケーションモードが多ければ多いほど臆せず、答えられるようになります(もちろん、性格的にシャイな場合もアリなので全員がそうだとは限らない)。
ろう者に会った時、聴者にとって「同じ日本人なのに話が通じない、なぜだ?」と戸惑いやすいこともあるようです。コミュニケーションモードを切り替えて、筆談なり、手話に近い表現なり、スマホでUDトーク使うなり、いろいろな方法を駆使した会話力がある人は、ろう者とも仲良くなれるようです(性格の不一致は除くとして)。
マジョリティの中にいるマイノリティ。一人一人が気持ちよく過ごせることを目指してコミュニケーションを図ってゆきたいものです。
それにしても、空港のあの一場面、どうなったのでしょう。気になります。
(神戸にて。焼きたてパンを朝食にいただきながら、青空を眺めてみる)
日本語ができなくても生きていける?
日本語に触れる機会の一つが、新聞。
以前までは、紙での新聞紙を読んでいました(なんと、大雪の日も見事に配達されていてびっくり。配達担当者、ほんとにお疲れ様です。大雪の日くらいは無理しないほうがいいのでは…とちょっぴり心配)。
読み終えたものは、生ゴミの処理に役立てていました。便利ですね、包むと匂いもさほど気にならなくなる。
しかし、溜まるものは溜まります。数日間、出張などで出かけると溜まってしまいます。こういう時に電話で「あのう、○月○日〜○日までの分は結構です」と連絡できたらいいけれど、電話できない。リレーサービスの電話を使ってもいいけれど、時間がもったいなくて。でも、当時はメールでの手段も確保していなく…。
慌しい日常を送っていると、新聞紙も一気に存在感を増します。
ここで思い切って、数年お世話になっていた新聞購読をやめました。とはいえ、新聞も大切な情報ツール。生ゴミ処理はビニール袋で代用するとして、新聞をどうしたのかというと、デジタル購読に切り替えました。
ここでiPadが大活躍!サクサクと読めます。
ずっと紙に馴染んできた立場としては、じゃっかん物足りなさを感じますが、それでも溜まるスペースが減っていくのは気持ちがいい。
ところで、新聞紙といえば、日本語が書かれているものを通して情報を得ます。写真も。英字新聞なら英語。
「何を当たり前なことを?」と思う方、日本語ができなかったら新聞は本当に使い物にならないでしょうか。写真、広告を見れば何となーく分かるかもしれないけれど、日本語が分からなかったら(できなかったら)、得られる情報が限定的になってしまいます。
日本にいると実感が湧きにくいけれど、海外に出かけていると「情報」というものに敏感になれます。普段、当たり前のように入手できていたものが手に入らなくなる。手に入りにくくなると、人間、不安を覚えます。
長らく海外に出かけていれば大したことないかもしれないけれど、「分からない」と感じる時間が長くなると、不安になります。
日本語ができない、日本語が分かりにくいという立場にいる方にとって、目の前の情報が得られなくなることがどういうことなのか、ピンとこないかもしれません。それが日常的になってしまっているから。
先ほどの、不安について。
不安になるという状態は、自分が日頃から情報を得られていることを知っているという証でもあります。日本語ができるから情報が得られる。
こういう行為に価値を感じているからこそ、情報が得られなくなる状態について、あまり良い状態ではないことは実感として理解できます。聴者にとって、時々、ろう者同士が手話で話しをしている時「何の話をしているのだろう」と不安になったり、自信をなくしているのは、情報が得られない状態を知っているから、です。
ところが、ろう者の場合は、耳が聞こえないこと、周りが音声で話されていることについて最初からの情報量を知らない(聴力によっては個人差あり)ので、情報が得られなくなってもさほど不安を覚えない、という感じがあります。
知らぬが仏、ではないですが、知らないことによって守られている部分があります。
しかしながら、ろう者にとって日本語ができないことは、日本に住んでいる以上、致命的です。特にIT技術が進歩している中で、メールでのやり取りも日本語が媒介しているので、必然的に日本語に触れないといけない場面が出てきています。
一昔前なら、近隣の助け合いや農業、手工業など日本語に触れる機会は限定的になり、必要に迫られる機会が少なかったようです。行政からの文書、手続きは家族がやってくれたから大丈夫だったと答える、ろう者も少なくないです。
日本語ができなくても生きていける、手話さえあれば大丈夫!と言い切れる人は果たしてどのくらいいるのでしょうか。日本語ができないことに対する危機感があってもなくても、日本語を学びたい!と思った時にアクセスできるところも限定的になっています。
(なんだか、さっきから少ない、限定的、と繰り返していてネガティブな言葉ばかり。でもそれが現実なのよ、ですね)。
日本語を本気で学びたい!人はすでに、日本語をある程度身につけていると思います。
また、実際に教室に通いながら学んでいると思います。
耳が聞こえないことを理解した上で日本語を学ぶ環境が果たして、全国にどのくらいあるのでしょうか。
この話の続きはまた今度。
今日もごきげんよう。
ホーリー・カウ(なんだって?)
なんだって?動物が喋っている?
去年、書店でたまたま見かけた小説。
超常現象を追いかけるFBI捜査官の海外ドラマで、9年間ずっと続いていた「X-ファイル」でおなじみのモルダー捜査官が小説を書いて出版したもの。
モルダーって誰?という方は、こちらから。
「X-ファイル」って何がそんなにすごいの?という方は、こちら。
先日の関西行きフライトで何を持って行こうか考えていたら、本棚に佇んでいた一冊を発見。1年越しにやっと読めました。
超常現象は全くなく、おなじみの(?)宇宙人は出てきません。
なんと、アメリカの農場に住んでいる『ウシ』が喋りながら話が始まります。
しかも、人間と変わらない感情を持ちながら、冒険に出かける話です。
現実的にありえない!と思う場面が多く出てくるのに、いかにも本当に起きそうな出来事が散りばめられています。
最初は、農場に住むところから始まるのだけれど、自己紹介がまるで人間のような語り口になっていて、ウシなのか、人間なのか分からなくなるくらい。自分の運命を知ってしまったウシがインドを目指して移動する、という話。
宗教、文化の違いも描かれていて読み応えあり。
この小説のいいところは、第48章まであり、一つの章を読み終えるのに時間がかからないこと。電車の中で読むとしたら、ちょうど次の次の駅に着くまでの間に、一つ読み終えられるかも。
「なんだって?」と思うような出来事に遭遇したら、ぜひこの一冊を手にとって別世界へ。
今日もごきげんよう。
人と会う旅
ここ数日、更新できず「もしかして体調崩していないか」と心配のメールがありました。関西方面へ出かけていたので更新できなかった(理由にならないですね…すみません)。
おかげさまで元気に過ごしています。
今回は神戸へ出かけてきました。伊丹空港に降りて高速バスで三宮へ。
何度か利用している空港ですが、京都、大阪、兵庫、と近隣県へのアクセスが充実しています。地理的に可能な位置だからですね。
今回の目的は「人と会う」。旅は私の好きなことの一つで、観光だけでなく人と会って話を聞いたり、話したりする。それに加えて、美味しい料理が食べられる。これだけでも十分、価値のある時間に。
観光はその延長にあり、その街を生きている人からの話は、街の魅力を感じるきっかけにもなります。
「ああ、昨日言っていたあれかー!」と感動しながら観光することも。
こういう旅の仕方、学生時代からずっと続いています。
「え?せっかく行ったのに、何も見てこなかったの?」と言われたこともしばしば。
人に会う旅。現地で初めて会う人もいます。こうした出会いから、街の情報を知り、街を歩いてみる。そして、話をすることで新しい価値観やその人が持っている人生観を知る。
とても刺激を受ける時間。
旅の仕方は人それぞれ。これからも「会いに行く」旅をしてみたい。
ありがたいことに、「会いにきてくれる」ことも。人との出会い、繋がりは大事にしていきたいですね。
語感は人による?
8月になりました。職場には県内外問わず、来客が続いています。ありがたいことに、お土産も持ってきてくださることも。
中には、「ええ?」と思わず二度見してしまうものあります。
今年の流行大賞に選ばれそうな言葉、「忖度(そんたく)」。
忖度まんじゅう。温泉まんじゅうのような、手軽に食べられるものでした。ご馳走様です。
この「忖度」。今年は何かとニュースで頻繁に使われていたのですが、すぐには意味がつかめられずにいました。なんとなく違和感がありました。
そんたく。ソンタク。
なんか、「損(そん)」しているような気がして。別に、損得は関係ないのですが、そん、という語感が微妙に引っかかっていました。
語感。
語感とは、文字通り、言葉に対する感覚。
損する、という動詞があるからかもしれません。でも、この語感はあくまでも私だから感じるものであり、他の人はどうなのかというと、「え?全然考えたこともなかったわ」と答える人も。
そんたく。
最近は少しずつ、本来の意味と言葉の語感がマッチしつつあります。
この語感は、どこからくるのでしょう。そして、手話にもあるのかどうか。
この続きはまたの機会に。
きょうもごきげんよう。
語呂合わせは難しい?
毎日、郵便受け(ポスト)を確認する癖がついています。
ダイヤル式の鍵がついていて、あらかじめ決まっている番号に回せば開くシステム。
毎日確認しているのだから、番号はメモするまでもない。
と思いきや、ごくたまーに「ん?あれ?」と番号が思い出せない時があります。
「モルダー、疲れてるのよ」ではないけれど、記憶だけに頼るのはリスクが高い。周囲にどうしているのかを聞いてみると、「それなら、語呂合わせで覚えれば?」と言われます。
語呂合わせ。実は、私はこれがあまり得意ではないのです。
鎌倉時代を築いた源頼朝さんがなぜ「良い国」なの?というレベルです。
小学時代、語呂合わせという概念がさっぱり分からず、「良い国を作ったのは分かるけど、そもそも何で1192年が良い国なの?」という感じです。
「いいくに」という言い方が、数字の「1192(いいくに)」という【音】に結びつかず、どうして?どうして??の堂々巡り。親を困らせた質問ベスト3に入っています。
音が聞こえない、音を聞いたことがないからなのか、語呂合わせがどうしても得意になれず。
もう仕方ないので、数字そのまんまを丸暗記して記憶定着できるよう練習しました。だから源頼朝さんに苦手意識あるのか(それは関係ナシ)。
語呂合わせって、日本語による音がベースになっています。若干、音が分かったり、音が聞こえる方にとってはリズミカルに覚えられるかもしれません。それにしても、数字と関連づけて音を出しながら覚えられるように工夫しているあたり、さすが!と思いますね。
もう少し何とか良い方法ないかな。
今日もごきげんよう。