うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

身近なこと、外にあること

f:id:syuwakoushi:20190728190333j:plain

7月28日日曜日。30度を超える暑さが続くので久しぶりに何かを書こうか、という気になった。気まぐれ。県外から遊びに来た友人と雑談した中で、選挙で話題になっている障害者のことも出てきた。友人は手話ができる。私と違う点は、耳が聞こえること。

 

ろう者が話す、聞こえなくて困っていること。聞こえなくてもできること。

聞こえないことに関するあらゆる話題について「共感はするけれど、少なくとも同意というようなものは難しい」というような話に。実感できないから、というのが理由の一つ。

 

その人が置かれている立場を理解すること、考えることはできるけれど、実感として「うん、そうだね!そういうことだよね!」というところまでは言い切れない、と。すごく当たり前のことだけれど、なかなか気づきにくい部分かもしれない。不利な立場に置かれている側から「私のこの境遇を分かってくれるよね」と求める声は、ろう者だけに限らず誰にでも起こりうることかもしれない。

 

実感として分かって欲しいところまで求めているのか。

それとも、こういうことがあったという事実を分かって欲しいところまで求めているのか。

 

ろう文化、日本手話のキーワードも出てきた語らいの中で「やはり、身近な人や身近なことであれば実感として湧くかもしれないよね」という結論(?)になった。一般論として知っていること、と身近なこととして知っていること、の二つは似ているようで似ていない。後者の方が、説得力が増すほど自分の中での知識が昇華されていく。それを増やし続けていくことでしか、実感を持った理解に到達することはできないのかもしれない。

 

そこまではいかなくてもあらゆる話題について忌憚ない意見や感想を投げかけてくれること自体、ありがたいこと。耳(目)が痛いことも言われるけど、聞こえる側に対する理解を深めていくためには避けて通れない。

 

きっと冒頭の話題はしばらく続きそう。