声を出しながらの手話について
11月25日日曜日。1ヶ月後はクリスマス。フィンランドから公認(!)サンタクロースが来園する企画もあるとか。新潟県立植物園 クリスマスイベント(12月1日)
サンタクロースといえば、聞こえない子供に手話で語りかけた動画が数年前に話題になっていました。
夢を与えるサンタクロースも手話ができる!嬉しいニュースです。
手話といえば、「日本手話と日本語対応手話の二つがあるんですか」と質問を受けることがあります。言語学の専門家ではないので、難しい言葉は使わず(使えない)に解説させていただいていますが、「声を出しながらの手話は、どうなんですか」という質問も出てきます。
世の中には、全く耳が聞こえない人もいれば、片耳だけが聞こえていたり、特定の音だけ聞き取れる人もいます。人間の耳は不思議なもので、私が発する声(独特らしい)を短時間で聞き分けられる人もいれば、どんなに時間をかけてもなかなか慣れない人もいます。ちなみに、iPhoneのSiriは全然認識してくれないのに、「ドナルド・トランプ」と「バラク・オバマ」この二つを発声するとほぼ完全に認識される(!)。
私は自分が発する声が、どんな声をしていて、どんな風に聞こえるかを『自分の耳で』聞いたことがありません。どうやら男性っぽい低い声がするようなので、聞こえるようになったら真っ先に自分の声を聞いてみたい。
残存聴力がある人なら、自分の声は聞こえていると思います。
耳が聞こえない人の中には、手話で話をします。声を伴わない手話もあれば、声で話をしながら手話を使うパターンがあります。
相手も耳が聞こえない、自分も耳が聞こえない。そこに声を使う必要性がない場合は、手話を使います。聴者が相手でも、手話に堪能な聴者であれば、声の必要性がないので手話での会話になります。
でも、例外もあります(だから、ややこしく映るんですよね)。
幼い時から訓練して身についた口話(こうわ)のスキルを低下させたくない、キープしたいから、自分は発声する、という方法。この感覚は、普段、日本語を『音声で』話している聴者にとっては想像しづらいことかな。
相手が聞こえていたり、手話が分からなかったりする場合は、声を出しながら手話で話をします。それは、声自体に必要性があるから。発音の明瞭度はともかく、声を出すことをコミュニケーション方法の一つとして活用するから。
ここまではシンプルに「声が必要か必要ないか」と区別するだけなのですが、ここからは非常にややこしくなります。
1対1の関係を超えて、数名、グループ(集団)での会話になると…
聞こえる人が声を出しながら手話で話をした場合、声の果たす役割が優先的になります。その一つが、割り込み。
耳が聞こえない人は、声が聞こえないので『目で話し手を見る』。
話し手に対して、他の聴者が「あーやっぱり!」「ちょっとそれは…」「ええ?そうなの?それはね…」と発声した時、話し手が交代します。発声した時点で、交代した人が手話で話しても、聞こえない人にとっては『誰が話しているのかを見るのが、間に合わなくなる』。
ワンテンポ遅れても、まぁ、話している内容が分かればまだ大丈夫。
とはいえ、聴者同士が盛り上がった時に、一体どうやって割り込めばいいのか、すっきりしない気持ちのまま見守る…ということもあります。
また、声を出しながら手話で話をする場合、日本語がベースになります。
日本語の文法の上に手話を乗せるイメージで、日本語対応手話とも言われています。巷では「ろう者は、日本語対応手話は通じない」と言われていますが、正しくもあり、間違いでもあります。
日本語対応手話でも通じるというのは、聞こえない人自身が日本語のリテラシーをある程度身につけていることが前提になります(中途失聴者も同様)。
しかしながら、それでも日本語対応手話が否定的に見られているのは、声そのものの役割が聴者同士の中で通用し、耳が聞こえない人には通用しにくい場面が生じてしまうからなのではないか、と。
手話がいろいろな形で使われている現実。
手話を学ぶ人が時々ぶつかる壁の一つ。
ケースバイケースだよ、なんて答えになりませんね。
目の前にいる人や近くにいる人が分かるためにいろいろな方法をチョイスしながら話をしてみることが大事であり、そのためのスキルが手話であることは間違いない。
手話を学びながら、異文化理解を深めていく。その道のりを歩く人たちを応援しながら、私自身も学び続けてみたいです。
少し古いですが、学生時代に衝撃を受けた論文がこちら。
聴者とろう者の発話者交代の仕方が具体的に書かれています。手話通訳を担う人でも案外、知られていない内容かもしれませんので是非ご一読を。