うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

ろう者はわがまま?

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7月11日水曜日。セブンイレブンの日。新潟駅の近くに、一風変わったセブンイレブンがあります。外見は全く同じですが、入り口が一瞬分かりにくく、本当に営業しているの?と目を引くものが。

gata21.jp

(写真が冬のものなので、見るだけで「わぁ〜涼しい!」と感じますw)

 

最近、アメリカから友人が一時帰国したので久しぶりに会いました。

英語とASL(アメリカ手話)を使った仕事をしているので、彼女と私の間ではアメリカ手話、日本手話、日本語、英語、と混じった会話に。私自身、アメリカ手話と英語はほんの少しだけできる(できない、と話したら怒られました)のですが、なかなか面白いです。

 

留学経験があり英語が堪能なスタッフも途中で加わって話をしてみると、ますます英語とASLの頻出度が高まり、ついていけなくなりました(ろう者同士が手話で話して、それを懸命に読み取る聴者のような立場)。

それはそれで楽しかったです。

 

 

今回、いくつかの話題の中で黒人の話も出てきました。初めてアメリカに行った時に黒人ばかりの集団があって怖かった、という話。私も初めてロサンゼルスで泊まったモーテルやコンビニで多くの黒人とすれ違って「怖い」と思ったことがあります。何かをされたり、睨まれたわけではないで、まさに「映画で見たイメージ」による完全な私の思い込みでした。

 

 

モーテルでは窓の向こうに有刺鉄線が張られていたり、浴場のドアに穴が空いていたり、オンボロなエアコンに壊された鍵、と日本では考えられない環境だったので余計に怯えていたのかも(でも、友人は気持ちよく寝てました。性格の違い?)。

 

 

この思い込みはステレオタイプと呼ばれるもので、「日本人は曖昧」という外国人からの見方もその一つ。 一括りにして◯◯人はこうだという見方。

 

 

映画『大統領の執事』に黒人が出てきますが、世代や環境の違いによって白人に対する見方が分かれるシーンがありました。白人の言うことを忠実に守った方が生きやすいという主張がある一方で、黒人がいつまでも言いなりになるのはおかしい、と反論するという場面は、他の映画にも見られます。

 

 

黒人が辿ってきた歴史は長く、どちらの主張が正しいかという次元ではなく、置かれた環境によっては自らの生き方、価値観が脅かされるものになるからこそ、アイデンティティの確立が明確にならざるを得ない(そうすることで自分を守る)ともいえるように思いました。

 

 

「白人の言いなりに」というのは、ろう者の中では「聴者(耳が聞こえる人)の言いなりに」と置き換えられます。そういった類の話は、私が生まれる年よりもずっと前から起きている話で、ろう者の高齢者の「聴者の言うことを聞け、と言われた」「ろう者は何をやっても無理と言われた」という昔話に見られます。

 

 

先ほどの黒人の話で、映画の中では「白人と仲良くする黒人」と「白人と敵対する黒人」の二つに分かれて描かれています(その方が映画のストーリーとしての分かりやすさがある)。これが、ろう者の間でも共通しています。「聴者と仲良くするろう者」と「聴者と敵対するろう者」。

 

でもこの構図は時代の変化によって、一時的に過激的だったことも含めて変わってきているように思います。インテグレーションの教育的な背景、ろう者の日本語の親和性が高まった環境も含めて、昔ほど目に見える差別が少なくなってきました(目に見える差別というのは、おし・つんぼと目の前で言われた、手話やると手を叩かれた、食事を別々にとらされたなど)。

 

 

でも、最近SNSやテレビでろう者の宿泊拒否、入場拒否が報じられました。このニュースは過去にもいくつかあるので「またか」という感じだけれど、差別という言葉で主張する当事者の声を見ると、時代は変わってきたように見えても双方の間では変わってきてない部分もあるのかな、とふと思いました。

 

 

「差別された」と感じるのはどうしてなのか。断られたという事実に対して感じたものなのか、それとも断られた後の対応の仕方に対して感じたものなのか。

 

 

その変わってきてない部分をどう捉えるかは、人にもよるし、ケースバイケースによります。「だから、ろう者はわがままなんだ」「障害者のくせに何を言うてる?」という意見がある中、「ろう者は一人で行動できる」「聞こえないけど結婚もしてるし、普通に暮らしとる」という前向きな意見が当事者の中から出てきています。

 

 

ろう者だって一人で旅できるし、スポーツも普通にできる。

 

 

それはとても良いことだし、そもそも障害というのは現代社会が作ったものであり、聞こえない=障害、というのは古い価値観。

 

ただ、今の私にとって、この前向きな発言になかなか積極的になりきれていません。福祉の仕事をしているからか、ろう者の置かれた現実があまりにも多様なので一括りにできない、というのが本音。「ろう者は一人で行動できる」というのは事実であって事実でない。

 

 

聴者は一人で行動できる、に置き換えてみると…。「いやいや、私なんか一人で旅できないもん」という聴者の友人がいます。そう考えると、ろう者の中にも一人で行動できる人がいれば、そうじゃない人もいる。

 

 

しかし、何かを発信していくためには必要なことであることを承知の上で「ろう者は弱い者ではない」と主張する。そうせざるを得ない社会のあり方を見る限り、目に見えない本当の差別が解消されるはいつなのだろう、と思います。

 

 

聴者と同じようにサービスを享受しようと思ったら断られた、という事実は事実。今に始まったことはでないものの、どうやったら改善できるのか、という部分でどこまでお互いが話し合ったのか見えてこないので、気になるところです。

 

発信する側に立つ以上、どういう方法なら良かったのか、こういう配慮があってとても助かったなど、具体的な事例がもっと発信できれば、ケースに応じた対応ができるようになるし、双方の話し合いがより深まるのではないかと。ろう者の中には、常に自分が聞こえないことを先方に伝えた上で「こうしてもらうとありがたい」と先回りして行動している人がいます。おそらく、そういうケースが目に見えてこない(情報が少ない)ので、サービスを提供する側も不安にならざるを得ないのかもしれません。

逆にいえば、ろう者との関わりがある聴者の方が「こうすればいいかな」と行動できるのは、ろう者の状況を日常的な経験から知っているというのが大きいかもしれません。

 

行きつけのお店やディーラーさんは、私が聞こえないことを知ってるので前もって必要なことは紙に書いたり、メールでも対応しています。そういう対応方法を知っているだけでも、知らないよりは大きいと。

 

単純に、障害者を毛嫌いする人と遭遇してしまったために起きたニュースだけのことかもしれませんが、いろいろ考えさせられた出来事。

 

 

ろう者とか障害者を一括りにすることはステレオタイプを助長するようなことにもなる一方、一括りにすることで分かりやすく現実を伝えられるのもあります。その上で慎重に言葉を選びながら対応できると、もっと優しい社会になれるのかも。

 

 

タイトルの答えは、わがままでもあり、わがままでもない(ああ、こんな終わり方で良いのかしら)。