音楽と孤独とそれから
車の中で聞く。
お店の中で聞く。
くつろぎたい時に聞く。
音楽はとても身近な存在。街歩く人を見渡してみると少なからず一人か二人はイヤホンを耳に当てている、きっと音楽を聴きながら歩いている。
「この音楽を聴くとね、あの頃を思い出すのよ」
「好きだった人が聴いてた音楽だな」
「これを聴くとテンション上がる!」
人間にとって音楽はとても身近な存在。だから音楽が聴けなくなることが怖いのかもしれない。
かつて友人が「まえは耳が聞こえていたから音楽がすごく楽しくて。でも今は聴こえなくなってしまって…」。
耳が聴こえないって何だか寂しい感じ、と言われたけれど、全然ピンとこなくて。手話もあるし、日本語もそれなりに使えるのであまり気にしていなくて。
今日は仕事の関係で、コンサート会場に行ってきました。はて待て、コンサートとライブってどう違うのでしょう。
大した違いはないみたいですね。語感によるのかなぁ。
三味線の演奏だったのでコンサートということで。三味線、しゃみせん。
人生で初めて、三味線のコンサートを経験してみました。
想定内ではあるけれど、音が高いのもあって、身体に響きませんでした(ロックバンドとかだったら振動を感じ取って、リズムもなんとな〜く分かる感じ)。単に響かないならまだしも、私の席は最前列。演奏者の表情がよく見える位置。
それでも、音がぜんぜーん響かない!、ということに「三味線ってそういうものかなぁ」。
時折、拍手が湧き立ってる。演奏者はまだ三味線を弾いてる。一体どういうタイミングで拍手するのだろう。演奏者も時折、観客にアイコンタクト送っている。
この時、聞こえる世界での孤独をすごく感じた。
喪失感というのかな。追い出されたのではなく、同じ空間にいる、私はそこにいてもいい、でも一緒に感じることが全然できなかった。
以前、誰だったか、聴こえない世界のことを「ガラスの箱にいるようなもの」と表現していたけど、まさにそんな感じ。
追い出されていないし、無視されたわけでもないし、何かを言われたわけでもない。
それなのに、目の前に繰り広げられる光景と私の存在がどことなく結びつかない。周りを見渡せば、一人ひとりが、私が一生聴くことのできない音を感じ取りながら酔いしれている。
ああ、これが聴こえる世界なのか。
すっごく久しぶりに感じた、この違和感。でも何となく懐かしくもあった。
そして、多くの人を惹きつける音楽って何なのだろう。一生、耳で聴くことはできない音楽。
耳が聴こえないから音楽は楽しめない、というわけではない。ろう者・難聴者の中には音楽が大好き!っていう人もいるし、ライブに通っている人もいる。バンド作って音楽やる人もいる。
私もかつて、学生の頃にライブ行っていた。聴こえないから楽しくなかったのかというと、そうでもなくて、憧れの人が歌っている姿を見るだけでも本当に楽しかったし、きっと雰囲気が楽しかった。
でも、歳を重ねるにつれて、憧れの人を見るだけじゃ物足りなくなってきたかもしれない。
音楽の魅力の一つに、演奏と演奏の合間に、演奏者がトークをする。この時間が、人柄をもっと知れる時間であり、その人の価値観を共有したり、一緒に楽しめる時間。だから、人はコンサートやライブに足を運ぶ。
そして、それ以上に演奏者が発する音が魅力的である「音楽」とは一体、どういうものなのだろう。何らかのきっかけで、もし耳が聴こえていたら、きっと真っ先に「私、音楽を聴いてみたい!」と言うでしょう。
とても良い時間でした(これ、本当にそう思う。負け惜しみなんかじゃなくて、すごく良いことに気づかされたから)。
ろう者と音楽といえば、音を可視化する実験があったので参考まで。