うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

きれいな水に変えるということ

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出張が続き、落ち着く時間がなかなか作れないまま、すっかり日が空いてしまいました(ご飯食べてる時間はあるのに、ブログはなかなか…)。

そんな中、今、読んでいる本で「書く衝動を逃さない」という見出しがあって思わず、ドキッとしました。

 

本を読みたいという衝動はときどき起こるが、ものを書きたいという衝動はめったにあるものではない。(中略)書いてみたいという気が起こったら、逃さないようにしなければならない。

(『こうやって、考える』外山滋比古

 

ということで、久しぶりに書いてみます。あれ?毎日更新を目指していたんじゃ?というツッコミは無しで。

 

写真にあるものは、手話通訳士協会発行の「司法通訳の意義と通訳人の心得」

手話通訳も含め、音声言語の通訳(英語、日本語など)を、裁判でどのように扱われているかについて専門家が話したものをまとめたブックレット。

日常生活とは程遠いと思われる司法・裁判の場で、もし、自分が発言した内容を全く違った意味で訳されてしまっていたら?

自分が思っていたのと、違う展開になってしまっていたら?

 

手話通訳の現場でも「私の話していること、ちゃんと伝わっているのかな」と思うことはあります。手話通訳者の技術に個人差はあるものの、通訳は密室の中で行うような部分があり、第三者からのフィードバックが得られないまま、経験だけが蓄積されやすいところがあります。

 

それが行き過ぎてしまうと、誤訳に対する意識が薄れてしまい、あたかも本人がそう言い切ったかのように展開されていく。手話通訳は特に、ろう者自身が日本語を耳から聞くことができないため、手話通訳者が訳した日本語を確認することが難しく(中には、読唇術をフル稼働してチェックする人も!)、手話通訳者もそのままやり過ごしてしまう。

 

スラングが多く、言葉遣いが上手でないろう者がいて、手話通訳者が読み取って音声日本語に訳すとき、聴者の反応が思ったより悪くなかったケースが実際にありました。その方は手話で、友達に吐き捨てるようなセリフだったにもかかわらず、手話通訳者が訳した日本語は「謙虚さがあり、丁寧に対応」という言い方になっていました。

汚れていた水を、きれいな水に変えた、という結果に。

 

しかし、このような訳し方は果たして正解なのかどうか。

それを問いかける内容も、ブックレットに書いてあります。

 

秋の夜長にぜひ。