忘れものほど大切なものはない
朝、車を走らせていると道路脇に中学生らしき学生が一生懸命走っていた。
確か、あの子は毎朝学校まで歩いている。でも今日はなぜか逆方向へ。
きっと忘れものでもしたのかな。
忘れもの。
人は誰でも「あ!しまった、なんてこった!」と思うことがある。引き返して取りに行くこともあれば、絶望的になりながら目的地に向かうことも。
カバンを新しく変えたり、たまたま置く場所を変えていたり、いつも忘れていたり…と人によって忘れ方は異なるけれど、忘れものをした出来事はなぜか案外、覚えている。
私にとってその一つが「補聴器を忘れたこと」。
耳が聞こえない人が通う聾学校に、私は通っていて、きまって毎朝チェックされるものがあった。
ハンカチ、鼻紙(今はティッシュというカッコいい言い方)、教科書だけでは不十分。
補聴器、というものがとても大事。ハンカチは忘れても、補聴器となると先生のお怒りモードが。補聴器なんて耳につけていても、ほんとに聞こえない。
正確には、聞こえるけれど雑音と人の声が全く同じに聞こえてしまって、聞き分けることが全然できないので、困ったもんだ。そんなわけで補聴器をつけても、あまり意味がない状態だった。
にもかかわらず、補聴器だけはしっかり忘れないように!と意識していたせいか、忘れたことは数回程度だった。先生に怒られるのが嫌だったからかも。
補聴器って、夏になるとタイヘン。暑くて、耳の中が気だるい状態に。もう補聴器を外したくて仕方ないしかたない。
それでも、補聴器は毎日身につけていた。ハンカチよりももっと身近な存在の「補聴器」。
地域の小学校へ交流に出かけた時に「え?持ち物リストに、補聴器がない!」と衝撃を受けたものだ。当たり前といえば当たり前だけれど、子供心ながらに「何で補聴器がない?」と思わず反応してしまった。
忘れもの。
忘れものは、大事に思っているからこそ気づくものであり、そうでなければ、忘れたことすら忘れてしまう。
それは思い出も同じ。
昔付き合っていた人や疎遠になってしまった人を今でも思い出せるとしたら、きっと大事に思っている証し。そうでなければ、もう忘れてしまっていることに気づくこともない。
「しまった、なんてこった!」というのは、大切に思っている証し。
時には、忘れものしたっていいんじゃない?
人間だもの。
(写真)新潟といえば…朱鷺。とき。