うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

閉ざされた世界での小競り合い

耳が聞こえない人は国内で約35万人、中でも手話を使う人は1割くらいと言われています。いわゆるマイノリティ(少数派)と呼ばれています。当の本人たちは「マイノリティ?なんぞや?」と普段あまり気にならない、気になったことがない人もいます。

 

手話を使うと、一般社会では珍しい存在に映るのか、「なんとなく私達とは違うなぁ」という目で見られることもあります(これでもひと昔と比べたら、だいぶ変わってきた)。「言語が違うなんて珍しい」と反応してしまうのは日本人だからかもしれません。

 

去年、ニューヨークで「I'm Deaf」と自己紹介し、「道が分からないの。教えて」と通りすがりの人たちに聞いた時の反応がほとんど「OK!」だったことに驚き。

異なる言語を持つ人たちが入り混じっている街だからなのか、「Deaf」という言葉に対して嫌悪感を示す人が一人もいなかった(地域によるかもしれないし、たまたま出会った人が良い人たちばかりだったかもしれない)。友人の行動を真似て、ニューヨークの空港で「I'm Deaf」と前置きし、用件を伝えたらすんなりと案内してくれました。ヨーロッパでも同じような反応。

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それはさておき、国内外問わず、手話を使う人たちが集まったコミュニティがいくつかあります。中には、聞こえない人たちだけが集まるところもあり、手話で情報交換がされています(今はSNSの発展で、わざわざ集まるまでもない、とコミュニティの必要性が減っているところもあるようです)。

 

聞こえない人たちだけが集まるなんて、なんて閉鎖的なんだろう!と思う方もいます。

 

聞こえないという聴覚障害について、ポジティブに受け止めて自らの能力、可能性を伸ばし合ったり、当事者だけで問題解決を探るといった、セルフヘルプ機能を果たしているコミュニティもあります。しかしながら、一部のコミュニティで閉鎖的になっているところもあります。

 

普段の生活で、聴者から見えない抑圧を受けているろう者(聞こえない人)が、同じ立場にいるろう者に対して、力関係を築きたかがるケースがあります。「見えない抑圧」というのは、いろいろな場面に出てきますが、例えば話し合いをした時に、聞こえないからという理由で意見を聞いてくれなかったり、話が分からなくて確認したかったけれど聞きにくかったりという「目には見えない抑圧」。

 

そうした抑圧をそのまま、他の人に与えてしまう。そうすることでしか、自分を保つことができない人もいます。聴者の世界ではちっぽけな人間。だからもっと認められたい!と、聞こえない世界に求めてしまう。

同じ障害を持っているから仲良くできる、というのは理想論であり、現実的には難しいこともあります。自分は良かれと思って行動しても、結果的に嫉妬されることも。

 

そうした閉ざされた世界の中で、「あなたは間違っている」「あの人がそう言っていた」という小競り合いがあります。

しょうもないことで何で争う?何で足を引っ張る?と思うことがたくさんあります。

 

閉ざされたコミュニティだからこそ、外部からの情報がますます入らなくなり、多様な価値観を知るすべがなくなる。そうなると、感情的に強く意見を言った者が勝ち、のような構図になります。

 

もう少し、なぜ分かろうとしないのか、なぜ多様な生き方を認めようとしないのか、と時々思います。

 

聴覚障害は、耳が聞こえないだけでなく、情報を受け取るための部分が弱くなりがち。

聞こえないという障害を乗り越えるのではなく、いかに上手に付き合っていくか。それこそ、当事者同士で話し合って解決するセルフヘルプ機能の役割なのではないでしょうか。

そこにコミュニティの存在意義があると思います。

 

 

と、毎回、小競り合いの話を聞くたびに思ったのでありました。