不便だから先回りする
街中を歩いていると、誰かさんが何かを説明しているみたい。
目の前には美味しそうな一品料理が。多分、作り方や素材の説明?はたまた、便利なキッチン道具の使い方の宣伝?
と想像しながら、一旦立ち止まってみるものの、耳が聞こえないので、話されている内容が分からないし、「あのう、なんとおっしゃっていますかの?」と誰かさんにお願いするまでもないので、そのまま通り過ぎる。
もし内容が分かっていたら、どうなっていたか。「なんだろ?」と耳を傾けてみたかもしれないし、それでも同じように通り過ぎていたかもしれない。
でも、この「通り過ぎる」は、説明内容を聞いて「あまり大したことないな」と判断した上で行動したもの。
冒頭のような状況だと「大したことない」という判断に行き着けない。耳が聞こえないから、内容が分からなくて「あれはいったい何だったのだろう?」と気になって仕方ない。
・・・
耳が聞こえなくて不便なことは、そういうことです。
冒頭のような場面は、別に内容が分からなくても生死に関わるレベルではないから大したことないですね。
でも、耳が聞こえないこと=誰もが当たり前に入手できる情報すら得られないこと、として考えてみると、状況によっては生死に関わる場合だったり。
普通に得られるであろう「情報」を得ることができないため、いくつかの不便さが出てきます。
- ラジオからの情報を分かっていれば高速道路の渋滞を迂回できたかも(今はスマホで調べられる)。
- 気の利く営業マンなら、もしかしたらお得な割引の情報が聞けたかもしれない(デキる仕事人なら、障害を持っている顧客に対しても対等に扱う)。
- おしゃれなフランス料理のメニュー名が分かれば、もっと興味を深められたかもしれない(親切なところだと紙に書いて教えてくれる)。
- 隣のテーブルの会話が聞こえていたら、もっと気の利いたセリフを言えるようになっていたかもしれない(聞こえる友人に教わりながら日本語力を高める)
いずれも、生死に関わるレベルではないけれど、ラジオや人が話している情報を、自分から取っていかないといけない。自然に、耳から情報が入ってくる人とは違って、「ん?なに?」と自ら情報を得ないと、何も分からない状態が続きます。
(周りが手話で話していれば、手話は分かるので、情報の取捨選択が初めて可能になります)
不便を「ああ、聞こえないって不便だわ・・・」といつまでも嘆いてたら、前に進めない。それを本能的に知っているので、ある時は想像力をフル稼働し、ある時は目の前にいる人に聞きまくったり、ある時はじっと観察しながらスマホで調べてみたり、ある時は聴者の友人に頼んだり、と常に先回りしながら自分が困る頻度を減らせるよう、考えて過ごしています。
世の中の聞こえない人が全て同じ行動をしているかといったら、そうではないのですね。情報を得ることをすでに諦めてしまった人、必死に周りが何を話しているか常に目を光らせている人も。いろいろなな生き方があります、人間だもの。
そして、こういう生き方が果たして良いのか悪いのか正解がないけれど、そうしないと今の仕事ができないから。
これは他の障害を持つ人も同じことが言えると思うので、今度その話を聞いてみたいですね。
(写真)天寿園にて。夏はライトアップで見れます。