うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

日本語ができなくても生きていける?

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日本語に触れる機会の一つが、新聞。

以前までは、紙での新聞紙を読んでいました(なんと、大雪の日も見事に配達されていてびっくり。配達担当者、ほんとにお疲れ様です。大雪の日くらいは無理しないほうがいいのでは…とちょっぴり心配)。

 

読み終えたものは、生ゴミの処理に役立てていました。便利ですね、包むと匂いもさほど気にならなくなる。

 

しかし、溜まるものは溜まります。数日間、出張などで出かけると溜まってしまいます。こういう時に電話で「あのう、○月○日〜○日までの分は結構です」と連絡できたらいいけれど、電話できない。リレーサービスの電話を使ってもいいけれど、時間がもったいなくて。でも、当時はメールでの手段も確保していなく…。

 

慌しい日常を送っていると、新聞紙も一気に存在感を増します。

ここで思い切って、数年お世話になっていた新聞購読をやめました。とはいえ、新聞も大切な情報ツール。生ゴミ処理はビニール袋で代用するとして、新聞をどうしたのかというと、デジタル購読に切り替えました。

 

ここでiPadが大活躍!サクサクと読めます。

ずっと紙に馴染んできた立場としては、じゃっかん物足りなさを感じますが、それでも溜まるスペースが減っていくのは気持ちがいい。

 

ところで、新聞紙といえば、日本語が書かれているものを通して情報を得ます。写真も。英字新聞なら英語。

 

「何を当たり前なことを?」と思う方、日本語ができなかったら新聞は本当に使い物にならないでしょうか。写真、広告を見れば何となーく分かるかもしれないけれど、日本語が分からなかったら(できなかったら)、得られる情報が限定的になってしまいます。

 

日本にいると実感が湧きにくいけれど、海外に出かけていると「情報」というものに敏感になれます。普段、当たり前のように入手できていたものが手に入らなくなる。手に入りにくくなると、人間、不安を覚えます。

長らく海外に出かけていれば大したことないかもしれないけれど、「分からない」と感じる時間が長くなると、不安になります。

 

日本語ができない、日本語が分かりにくいという立場にいる方にとって、目の前の情報が得られなくなることがどういうことなのか、ピンとこないかもしれません。それが日常的になってしまっているから。

 

先ほどの、不安について。

不安になるという状態は、自分が日頃から情報を得られていることを知っているという証でもあります。日本語ができるから情報が得られる。

 

こういう行為に価値を感じているからこそ、情報が得られなくなる状態について、あまり良い状態ではないことは実感として理解できます。聴者にとって、時々、ろう者同士が手話で話しをしている時「何の話をしているのだろう」と不安になったり、自信をなくしているのは、情報が得られない状態を知っているから、です。

 

ところが、ろう者の場合は、耳が聞こえないこと、周りが音声で話されていることについて最初からの情報量を知らない(聴力によっては個人差あり)ので、情報が得られなくなってもさほど不安を覚えない、という感じがあります。

 

知らぬが仏、ではないですが、知らないことによって守られている部分があります。

しかしながら、ろう者にとって日本語ができないことは、日本に住んでいる以上、致命的です。特にIT技術が進歩している中で、メールでのやり取りも日本語が媒介しているので、必然的に日本語に触れないといけない場面が出てきています。

 

一昔前なら、近隣の助け合いや農業、手工業など日本語に触れる機会は限定的になり、必要に迫られる機会が少なかったようです。行政からの文書、手続きは家族がやってくれたから大丈夫だったと答える、ろう者も少なくないです。

 

日本語ができなくても生きていける、手話さえあれば大丈夫!と言い切れる人は果たしてどのくらいいるのでしょうか。日本語ができないことに対する危機感があってもなくても、日本語を学びたい!と思った時にアクセスできるところも限定的になっています。

(なんだか、さっきから少ない、限定的、と繰り返していてネガティブな言葉ばかり。でもそれが現実なのよ、ですね)。

 

日本語を本気で学びたい!人はすでに、日本語をある程度身につけていると思います。

また、実際に教室に通いながら学んでいると思います。

耳が聞こえないことを理解した上で日本語を学ぶ環境が果たして、全国にどのくらいあるのでしょうか。

 

この話の続きはまた今度。

今日もごきげんよう