手話で話している島
インドネシアのとある村で、村民たちが手話で話し、ろう者も溶け込んでいる様子が取材されていました。(動画あり)
個人的にはもっとどういう背景があって、どういう文化があって形成されていったのか、知りたいところです。一つのコミュニティとして成り立っていることは、その一員が手話で話すことを日常生活として「当たり前」になっています。
誰もが普通に「手話で話す」といえば、懐かしい本がありました。
「みんなが手話で話した島」(今は絶版で、古本でなんと1万円!)。
アメリカの、とある島で島民たちが手話を共通言語として使っていたため、「誰がろう者で、誰が聴者かなんて全く意識してなかった」と書いてあったことがとても印象的。
島民であれ村民であれ、ろう者と聴者が一緒になって過ごすことはとても良いこと。まさに理想とする共存社会の縮図でもあります。
時々、「ろう者が手話で話しをしているのを見ると、本当に家族のような雰囲気がある」と言われます。
もともと、手話という言語を見かける機会が珍しく、聴者にとっては理解ができない言葉でもあることから「何の話をしているか分からないけど一生懸命見つめ合っているから仲がいい」という受け止め方もあります。
ベトナムを旅した時も「日本人とベトナム人、お互いに通じ合っているから手話って便利ねぇ」と言われたことがあります。いやいや、全然通じてないし、食べるとか飲むとかの簡単な意思疎通なら問題ないけど、特定の名前や場所、背景を聞いたらもうお手上げ!!ジェスチャーって限界ありまする。
そんな感じですが、当の本人たちにとっては、無意識に仲間意識を持っているので、そこがコミュニティの強みでもあります。手話が通じるだけでも、安心できます。
当然、負の面もあって、コミュニティは、ひとつの村のようなものであり、一員の言動によって影響を及ぼす事例もいくつかあります。根も葉もない情報が一気に広まることによって、噂を真正面に受け止めた人たちが排除するという動きもあります。
ろう者に限ってそんなことはない、と思いたくなる声もありますが、ろう者も人間。合わないものは合わないのです。
そんな中で、一人一人が心地よく過ごせるコミュニティとして機能していくためには 、信頼関係と割り切りのバランスも関係しているように思います。ある程度の割り切りがあれば、いざとなった時に力を貸してもらったり、お返しをしたり。
仲がいいわけじゃないけれど、シェアしたり助け合っていくには、弱いつながりが土壌を築いているのでは。
社会の縮図とはいえ、誰もがマイノリティを排除することなく、多様性を認め合うことのできるコミュニティ。私の所属しているNPOにとって、まだまだ学ぶべきことがたくさん!
今日もごきげんよう。
(散歩がてら見つけた、紫陽花?)