うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

文章を書くということ。

海外から帰国して2週間くらい経つけれど、日本語がわかること、日本語が読めるということが本当に大きいことだと実感。

 

日本を出ると当然、日本語による情報量が少なくなる。

でもなかなか、そういうことに気づかない。想像はできていても、現実味がないというか。

 

でも、今回の海外旅行はITの進歩に、いやでも気づかされました。

日本語でのラインのやり取り、メールでもそうだけれど時差はあれど、日本語がない環境で日本語でインプットし、日本語でアウトプットする自体がとても不思議な感じ。

 

留学経験がないし、異国の地で住んだことがないので分からないけれど、ITのおかげで異国の地にいても日本語のリハビリができる、というのは大きいのかな。

 

ろう者は日本語が苦手な人もいる中で、私自身、頭では分かっていたけれど、「情報が入らない」ということがいかにモヤモヤ感を与えるか、フランスで嫌というくらい痛感しました。

 

一概にフランスといっても場所によるけれど、私が今回訪れた街は、日本人がパリに比べて少ないところ。空港に降り立った瞬間、「あ、来てはいけない場所だったのかな」と。これがフランスに対する第一印象。

 

「出口」と表示されているフランス語でパンチを食らったような感じ(え?そんなことぐらいで?と思うけれど)。英語も少ししかできないけれど、英語は「読める」感じで、フランス語は「なんじゃ、こりゃ。読めんわ」という感じ。それは分かっていたけれど、英語での表記もあるだろうと甘く見ていました。

 

で、こういう状態はある意味、ろう者が「日本語で何と書いてあるのか」分からないという状態に近いのでは。そう考えると、知りたいのに知れないというモヤモヤ感が大きくなっていく。

でも、最初から「フランス語だから仕方ないよね。勉強したことないし」と諦めていたら、知りたいという欲望はそれなりにコントロールされて、「わからなくてもいいや」になっていく。ろう者の中には、「日本語が苦手。聾学校でちゃんと教えてくれなかったからいいや」という人もいるので、まさしくそういう感じなのかも。

 

しかし、やはり「情報」というのは自らを良くも悪くも生きていく上で不可欠なもの。

何かをするにしても求められる「判断力」を高めていくために必要なんだけれど、どうなんだろう。世の中には、不要な情報もある。知らぬが仏、という諺もあるくらいなので、知らなくていい、というのは理解できる。でも、私が出会ってきたろう者の中には、本当に知らなくていい、というスタンスで生きているので、「ああ、こういう情報を知っていればきっと、もっと充実できるものがあるのでは」と思ったりする。私の勝手な見方かもしれないけれど、でも何かが重要なところを落としていないか、と言いたくなってしまう時がある。

 

自分自身を見つめ直していく作業が、これからもっと必要なのかもしれない。

そのためにも文章を書く作業をコツコツと続けていきたい。