うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

誰かと比べることについて

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1月8日火曜日。今年で一番寒い日(8日の中で一番、8日目が寒い)。そして、新潟が唯一、嫌になる日。こんな寒さで老後を過ごせるかと思うと自信ないのに、周りにいる高齢者たちは「寒いのう〜」と言いながらも元気に歩いています。若い頃に足腰を鍛えた人は今も歩き回ったり自転車に乗って動いているので、体力もそれなりにキープできているようです。すごいですね!

 

若い頃に体を動かしたからといって必ずしもキープできるとは限らないとか。以前、施設の中に筋トレ関係のマシンが置かれていたので、高齢者対象の施設なのになぜ本格的なマシンを?と思って聞いてみたところ、「フレイルにならないように、高齢になっても筋肉を鍛えることが大事」と話がありました。

 

フレイルというのは…

 フレイルは、厚生労働省研究班の報告書では「加齢とともに心身の活力(運動機能や認知機能等)が低下し、複数の慢性疾患の併存などの影響もあり、生活機能が障害され、心身の脆弱性が出現した状態であるが、一方で適切な介入・支援により、生活機能の維持向上が可能な状態像」1)とされており、健康な状態と日常生活でサポートが必要な介護状態の中間を意味します。

 

「毎日行くところがある、毎日会う人がいる、毎日何かをすることがある」というのは結構大事なことのようです。「忙しい、忙しい」と思い込んでいる(?)日常生活に、何かしらの目的があるというのは意味があるものですね。

 

その目的を果たすために、人は誰かと比べる時があります。あの人と比べて私はこれくらい、と自分の立ち位置を確認するための作業として。

時々、メンタル強化のために「誰かと比べるより過去の自分と比べよ」と謳っている文言を見かけますが、その通りだねと思う時もあれば、それはは分かるけど〜、という時もあります。人間、なかなか素直になりにくいものを持っています(その日によって気分がなんとなく変わっちゃうなぁ、というのは、おそらく「普通の状態」なんじゃないでしょうか)。

誰かと比べることは、時にはびっくりするような効果をもたらすこともあれば、時には自分を潰しかねないことも。

 

耳が聞こえない、という身体特性があるろう者・難聴者の場合、幼い時から「誰かと比べられること」には慣れているように思います。耳が聞こえる、上手にお話ができる、という点を基準に、「補聴器をつけてもここまでしか聞き取れていない」「これくらいは聞き取れている」とか、「何言ってるか全然分からない」「聞こえないのに上手に発音できている」とか。

 

比べられていることに気づくと、「こんちくしょう!」と私は思うタイプ(状況によっては割り切る時もある)ですが、全くそう感じられない人もいます。

感覚が麻痺したかのように受け入れざるを得ない状態というか。

「発音、上手なんだってね!?」とろう者に向かって評価するろう者。

「聴者の話が分かるってすごい!」とろう者に向かって評価するろう者。

 

口話スキルだけで評価するのは時代遅れな感じもしますが、未だにろう者同士でさえ「誰かと比べる」行為が根強く残っています。その矛先が、時々、就労支援施設に通う利用者に向けられることがあります。「やればできる!」「努力が足りないんだよ」「普通の会社に入ればいいのに」。

利用者の中には、私のようなタイプもいますが、ほとんどは笑顔で分かったふりをしたり、わざと聞き入れなかったり。ある意味、スルー力が身についています。それはそれで素晴らしいですが、利用者に向かって言い放ってしまうろう者たちは、それでしか他者と接する方法を知らないまま育ってしまったともいえるような気がします。当の本人は励ましのつもりでも。

 

ただ、私自身は「誰かと比べる」ということは否定はしていなく、あくまでも状況によると思っています。人によってはトラウマになったケースもあれば、負けたくないという気持ちが湧き上がって結果的に良かったケースがある以上は、どうせ比べるなら良い方向に向かうように比べちゃおう、と思いたいところ。

 

それにしても新潟は太平洋側と比べて、骨に染みるくらい寒い。でも空気が澄んでて、車を走らせながら「ああ!今の、とってもいい風景!ちくしょう、カメラ忘れた!」と悔やむくらい、素晴らしい景色が広がっています。ぜひ、新潟へ。

ひとり旅の食事

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1月2日水曜日。新年に読み終えた一冊は「一号線を北上せよ」。たまたま実家に置いてあった文庫本で、ヴェトナム市街編というサブタイトルに惹かれ、そして著者が沢木耕太郎ということで一気に読了。

 
巻末には、女優・高峰秀子さんとの対談が収録されていた。高峰秀子さんといえば、あの映画、「名もなく貧しく美しく」。

 

映画は見たことないけれど、周りの高齢者(ろう者)たちが懐かしそうに語るので「たかみね ひでこ」が自然にインプットされる。日本で初めて、ろう者の生活にスポットが当てられた映画とはいえ、私はまだ見たことがない。でも見たことがあるような錯覚になってしまった。そういうことで、高峰秀子、という名前を見たときは偶然とはいえ、「ああすごいなぁ!」と小さく感動。

 

対談は巻末にあり、本全体の3分の1以下の分量だけれど印象的だったの引用してみる。まずは、ひとり旅について。


沢木:危険なところに迷い込んじゃっても、そこから回復できる、引き返せるというのがその人の力じゃないですか。

そういう自分の力を計りながら旅行してるんだと思うんですよね。その力の自分量をうまく見つけられない子たちが、危険なところに行って回復できなかったりすると思うんです。

 

だから「一人旅はいいですよ」と勧めるひとつの理由は、誰かに助けられないで、自分一人で自分の実力を計りながら旅行できることなんです。そうやって一個一個確かめながら旅することで、少しずつ身の丈が高くなっていくような感じがあるんですね。

 

高峰:確かにそうですね。一人で旅すると、キザな言い方だけど、自分てものが見えてきますよね。沢木さんが書いてらっしゃったけど、例えば、バスに乗って窓から綺麗な景色を見た時、誰かと一緒の旅だと、「綺麗だね」「うん、綺麗だ」で完結しちゃうけど、一人だとその綺麗だという思いが胸の内に静かに沈んでいって醸成されていくと。

 

ひとり旅の魅力をうまく言葉で表されていて、「わかる〜!」と共感。12年前に宮古島を訪れた時に見た景色を今でも覚えている。でも、ひとり旅は良いことばかりじゃない。と思っていたら、それについても対談で触れていたので引用。

 

沢木:でも唯一、一人旅で辛いのが食事する時なんです。一人だと美味しいものが食べられないじゃないですか。例えばレストランだって、外国は日本みたいにカウンターというシステムがないから、フランス料理だって一人で来られたら困るでしょう。高峰さんがパリにいた時、どうでした?

 


高峰:そう言えば、そうね。ちょっと寂しいといえば寂しかったかな。だけど、「ああ、寂しいなぁ」と思いながら、それでもいつかこの寂しさを 懐かしい思い出 にしたいと思ってました。

 

二人で行けば少なくとも2種類は食べられるし、グループなら取り分けできる。だから人と食べに行くのは、私の中では好きなこと。好きな人と一緒に食べに行けるだけでも嬉しい(そして、それをなぜか、顔に出さないように努めている)。

ひとり旅で得られるものは、人によって違うけれど、少なくとも食事に関してはきっとほとんどの人がそう感じているんじゃないかな。一緒に何かをする時、「食べる」という行為が他者と共有しやすく、ハードルも低い。

前にひとり旅していた時のこと。島を回ったりダイビングした後に「さて、夕食はどうしようかな〜」と街に出かけようとしたら、ゲストハウスのメンバーに呼び止められ「一緒に食べましょうよ」。これがきっかけでいろいろな方々の話が聞けてとても楽しかった。旅している間は、一人の方が気楽に自由に動ける分、どこかの時間で誰かと話をすることを欲しているのかもしれない。

ひとりがいいと思って出かけた旅なのに、ひとりじゃちょっとなぁ、と思う瞬間がある。それを分かっていても、次にまたひとりで出かける。その繰り返し。

 

久しぶりに旅について思い馳せた一冊。今年はいろいろなところに出かけてみようかな。

 

2019年もよろしくお願いします

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1月1日火曜日。年賀状が1億通減ったとニュースが流れていました。1枚あたり62円なので少なくとも62億円?という驚愕な数字に。

 

新年が始まったので、何かがリセットされると錯覚しそうですが、普段と変わらず、でも今年はいろいろな意味で変化しそうな1年になる予感が。

 

今年もよろしくお願いいたします。

 

2018年ありがとう

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12月31日月曜日。大晦日。今年で一番、おとなしくしている日。起きる時間を気にせず、ぐっすり寝れる幸せを噛みしめています。

 

今年もブログ読んでくださってありがとうございました。「読んでいますよ」という声は、励みになっています。

韓国から帰ってきたスタッフから素敵なお土産が(写真)。ハングルが読めるようになりつつある!これだけでも私にとっては一歩です。

 

来年、どなたかご一緒しましょう。

2019年もよろしくお願いいたします。

どっちつかずなリアリティ

12月29日土曜日。肉の日。予約していた漫画が届いたので早速読んでみました。 

ひだまりが聴こえる-リミット-2 (Canna Comics)

ひだまりが聴こえる-リミット-2 (Canna Comics)

 

 

聴覚障害、聴こえないことについて取り上げた漫画は他にもあります(聲の形、寂しいのはアンタだけじゃない、など)が、「ひだまりが聴こえる」は心情について鋭い洞察力で描かれていました。恋愛的な要素があるとはいえ、聴覚障害に関する情報も織り交ぜられており、聴こえない人と聴こえる人の間に存在している【聴こえにくい人】のリアリティさを突きつけられる内容。

個人的には続編がとても気になるところ。

 

まだ読んだことない方はこちらからぜひ。

 

ひだまりが聴こえる

ひだまりが聴こえる

 

 

心がけていること

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12月19日水曜日。サンタクロースのコスチュームをいろいろ調べていたら、いろいろありすぎる。でも、メガネ+ふかふかしたお髭+白い袋のセットはなかなか見つからない。どうしても、あのふかふかしたお髭が欲しい。と思ったら、カツラ付きが。カツラは要らないよなぁ、とか思いながらいろいろ調べて…

 

値段もいろいろ。値段と中身と、口コミのような評価を調べて決めることに。この評価、ネットでは判断が難しいところだけど、参考にならないわけでもない。

 

この評価は口コミでもあり(中には印象操作のためのものもあるようですが)、ネット以外の世界でも同じ。誰かに聞いた、誰かが言ってた、というのは一つの情報。

 

テレビで発信されたのも情報の一つ。

この情報の受け取り方は人によって異なり、事実が歪められることもあれば、結果的に良い方向にいくことも。

 

仕事で、高齢者と関わる機会が多く、いつものことながら好奇心の強さに圧倒される。こちらが情報をつかんでないと「知らなかったの?こういうことがあったんよ」と断定した言い方をされる(合っている時もあれば勘違いしている時も)。耳が聞こえないということもあり、ニュースの字幕も含めて目に入ったものは興味を持ち、他者に話をすることを通して、自分が受け取った情報に間違いがないかどうか確認する。確認という行為が意図的な人もいれば、そうでない人も。

 

でも、私が関わっている高齢者の方々は、私から「そういう情報もあるみたいですが、こういう情報もあるようですね」と私なりに知ったことを伝えると、「ほぉ!そうなのか、では、アレはどうなのじゃ?」と更に興味を持つほどバイタリティ溢れた雰囲気が。

 

日本語の漢字や文脈を捉え間違えて事実が逆の受け止め方になっていた時は、訂正するけれど訂正する側も気をつかう。私自身の受け止めた情報は合ってたかしら?と。なによりも訂正したときに「おお、そうかそうか。ありがとうよ」と情報を修正する姿勢は、私自身とてもリスペクトしている。きっと、今までの長い人生の中で生き抜くために身についた素直さ、なのだろうと思いながら。支援とはいえ、関わる立場としてはすごく気をつかう部分でもあり、さまざまなジャンルの本を読むのもその動機になっている。

 

知らないですね、で終われば終わり。それもありだけど、どうせならお互いが面白く、時には真剣に話をした方がもっと楽しく過ごせる。

 

とはいえ、自宅にテレビを置いてないので時々「テレビでやってたよ!」には弱くて、私が訂正されることも。最近のテレビはとっても便利なようなので、来年買うか検討してみようかな。

読むべきタイミングで出会う

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12月16日日曜日。

 

「経営経験なし、行政経験なし。難問山積の福岡市。前途は多難ですーーー」

 

この書き出しから始まる本。

 

別の用事で立ち寄った書店にて、たまたま目にした本。36歳で福岡市長になった高島宗一郎さん、現役市長による本は初めてだそう。

 

熊本地震が起きた時、Twitterで支援物資を呼びかけて手際良く被災者の元に届ける活動をされていて「すごい市長がいるんだなぁ」。

でも名前ははっきり覚えていなくて、たまたま表紙を見たら「もしかして、熊本地震の?」と思ってペラペラめくっていたら、やっぱり!ということで、早速買って読んでみました。ブログもやっているとのこと、早速チェックしてみたらちょうど先日、市長選が行われ史上最多得票で3期目を任されることに。「すごい市長さんだ!」。

 

36歳でアナウンサーを辞め、8年間の間に福岡市を最強都市に変えたという市長の取り組み・当時の想い・普段心がけていることが綴られています。

選挙に出るということだけで友達がいなくなってしまったり、リーダーシップを発揮することで煙たがられたり。それでも、認めてもらえるために小さな結果を積み重ねていく。最新のテクノロジーを取り入れてSNSを駆使して情報発信していく。なんてすごい市長さんなんでしょう。

 

いったんは地上にいる自分の立場を離れて、「鳥の視点」で俯瞰して「こっちのほうがいい」という決断をするのです。

「虫の視点」で、つまり地上にいる自分の目でリアルに山積する課題や困難を見てしまうと、安易な道を選びがちになってしまうからです。

 

A案とB案がある。どちらにもメリット、デメリットがある。さあどうする、というときに最悪の選択は「すべての支援者」に配慮して「決めない」「動かない」ということです。

決断しないことがいちばんの罪。決めずにずるずると先延ばしするよりも、なるべく早く決断することが大切です。

 

私たちが運営する組織は小さな組織。 フットワークが軽く行える一方、何かを決めるときに必ず「これはどうなのかしら」と懐疑的な声も聞こえてきます。市長さんの背負っている重大な責任と比べたらとても小さい。でも、他者の人生に関わっている以上、決めないと何も変わらないので前に進んでいます。言葉にできない苦しみは抱えているものの、それを吐き出した時点で何かが変わるわけではない、実績を出してこそが経営者としての務め。

私自身はまだまだ、全然その領域に到達できておらず、ここ数ヶ月間ずっと悶々としているものがあるものの、この本との出会いで救われる気が。

 

多分、読むべきタイミングで目の前に本が現れてくるのかもしれません。

 

福岡市を経営する

福岡市を経営する

 

 

他に何度でも読みたいブログとの出会いも。

経営者の孤独/わざわざ・平田はる香「寂しさはそこにあるもの。哀しみはいつか癒えるもの。孤独は逃れられないもの」 : 小さな声を届けるウェブマガジン「BAMP」

 

起業家の意義は見過ごされているものの価値を見出していくこと | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

 

後になって語れるものがあるよう、結果を出していきたいので書きとめてみました。

一人のろう者のお話

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12月15日土曜日。

 

飲みにいきたいなぁ。

−はい、行きましょうよ。

 

旅行に出かけたい。

−私が代わりに予約しましょう。

 

あれが食べたいな。

−車出すから一緒に行こう。

 

(ん?ちょっと待って。

◯◯したいなぁ、と言えば周りが動く。

自分は何もしなくてもいいってこと?

それってすごいじゃん。)

 

それから数十年後。

 

休み取れたからどこか行きたいなぁ。

−いいね、行こうよ。

 

映画見たいなぁ。

−あれ見てみる?一緒に行こ。

 

友達が結婚するって?お祝いしたいな。

−誘ってみたら?

 

ん?ちょっと待って。誘ってみたら?っていうのは、自分からってこと?

−うん、そうだよ。

 

それから1年後。

 

このお店に行ってみたい。

−うん、誰かと行く?なら、予約してみたら?

 

耳聞こえないから予約なんて無理だし。

−え?カンケーないよ。いくらでも方法はあるし。

 

(ここで手話通訳者から「私が代わりに電話してあげようか」と一言)

 

あー助かった。代わりに電話してくれるなら楽チン。じゃ、頼むわ。

−いや、断れよ。自分でできるんだろ。

 

(え?今までは周りが動いてくれてたのに…)

 

−人数、行きたいお店が分かれば後は動けるだろ。大丈夫。何かあったらその時は、その時だからさ。

 

(まぁ、そうだよな。いい歳していつまでも周りに頼るのもなんだかな…通訳者は優しいけど、確かに自分で予約してみるのも悪くないかもな)

 

それから数日後。

 

やった、フツーに食事会できた!

−こないだはありがとね!

−美味しかったよね!

 

(予約して周りに連絡して実施するって、どうなるかと思ったけど案外、楽しかった!お店の人も怪訝な顔しなかったし、聞こえないと言ったらフツーに対応してくれて嬉しかったな)

 

ありがとう、自分でやれ!と言ってくれて。

−いやいや、無事終わって良かったね。今度飲みに行こうぜ。

 

俺が予約しとくよ!

−お!やるじゃん〜

 

 

 

(つづく)

 

 

基本から入ることの地道さ

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12月14日金曜日。先日、福島県で講演してきました。新潟から見ると福島県は隣の県ですが、山を越えないといけません。車で行くと約1時間で会津、約2時間で郡山に行けますが、今回は講演ということで運転と講演を一緒にすることはできなく、公共交通機関を。これを周りに話すと「ええ?車で行かなかったの?」と言われることも。たしかに公共交通機関だと遠回りルートになっちゃいます。

 

新潟〜郡山は高速バスが繋がっています。でも、時間が決められていること、何かと融通が利かないので今回は新幹線を。

 

新潟駅上越新幹線)〜大宮駅(東北新幹線)〜郡山駅(在来線)〜本宮駅

 

隣の県なのに、新潟→群馬→埼玉→栃木→福島、と1日の間に複数の県を跨ることになるのです。どうりで「ええ?車で行かないの?」という反応になるわけで。

 

現地では、福島県内で使われる手話がいくつかあったので「今のは?」と聞きながら覚えてみました。基本的には、その地域で使われる手話を通して地域の人たちを知りたいので、現地のと話をすることは楽しいです(そして、講演の最中に使ってみたり)。

 

日本語の方言があるように、手話にも地域独特の表現があります。手話講座などで「手話にも方言がある」という話は出ています。

しかしながら、学習者は当然、基本の形と方言の二つ、同時に教えてもらうとなると「どっちを使えばいいの?」と疑問を持ちます。「どっちでもいい」「ろう者が使っているのを見ればいい」といった答えでは、なんとなく消化不良に。

 

教える側としては基本形はこうであって、場所によってはまた異なる。ということが無難かもしれません。ただ、基本形というのはテキストに載っているものであり、生きた手話は方言として映ります。まさか、自分が使っている手話が基本形ではなく、その地域でしか使われないものだったと気付くこともあります。

日本語の場合、テレビが普及した頃からNHKアナウンサーによる言葉が標準語になり、方言との境目が分かるようになってきたとか。

 

手話の場合も同様の流れで、都会に近ければ近いほど(教育の影響、身の回りの環境によって世代が若ければ若いほど)、一般的に通じる手話が標準、基本形になっています。ただ、文字に残りにくいこと、手話が常にどこでも見れるわけではない環境下、基本形としての手話がどれに当てはまるのか分かりにくい部分があるように思います。

 

できることならその地域で頻繁に使われていること、確実にほとんどの人が理解できる言葉も学習者に伝えていく。語彙レベルの話とはいえ、量がモノを言う。基本があってこそ、コミュニケーションの第一歩になるのだから。文法レベルも基本を繰り返すことで、自由自在に使いこなせるように。

 

なんとなく地道だけれど、レベルアップする上で壁にぶつかったとき、元に戻れる。ということで、基本から入って継続していくことを、韓国語学習で実感中です。

 

それにしてもいよいよ、韓国語が難しくなってきました。どうなるやら(笑)

どうせ聞こえないのだから

 

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12月12日水曜日。フランスのデモにより、マクロン大統領が声明を発表した画面。ろう者はおそらく、内容よりも手話通訳の方に目がいったのでは。

 

youtu.be

 

国際ニュースを見ていると時々、手話通訳が画面に映る。国内では、東日本大震災の頃に官房長官の記者会見に手話通訳がついたことが話題になったものの、ニュースに流れる時はなぜか省かれている。。。他のブログで紹介されていたのでリンクを。

togetter.com

フランス政権に対するデモが連日ニュースになっているものの、現地に住んでいるろう者はどのくらい関わっているのか、どのくらい情勢を理解し、どう捉えているのか。かつて日本にも大規模デモがあった時、ろう者の一人から話を聞いたことが。

 

「当時は何だかよく分からなかったけど、周りが血の気が多かったから一緒にやっただけで。気づいたらそういうことだったのか、って後になって知ったのさ」。スマホがない時代だったので、どうやって情報を得たのだろうと気になってもう一歩踏み込んで聞いてみると、「いやぁ、周りを見て少しずつ知ったようなもんさ」。

 

耳から得られる情報は、きっと私が思っている以上に膨大な量にちがいない。幸い、スマホがあり、パソコンがあり、インターネットのおかげで情報量がぐんと増えてきている(多すぎて困ることも)。日本語が読めるから増えているだけで、日本語も使いこなせなかったらどうなっていたか。

 

今、韓国語を勉強していて切実に思うのは、韓国語が少しずつ分かるようになるとそれなりに読める文字も増えてくる。そして、何かしらの情報を得る時に読める、読めないのとではかなり違う。読めたら、さらに次の新しい情報へのアクセスができるようになる。日本に住んでいる以上、日本語は避けて通れない言葉なので、読めること、書けることがいかに大切か。

どうせ聞こえないのだから完璧な発音を目指すよりは。

 

手話通訳にしても日本語にしても、自らアクセスできるものはあった方がいい。発音は発信するための機能にすぎない。読話力(口の形を読み取る力)の助けにもなりうるけれど、韓国語で読み取る自信はほぼゼロ。どうせ聞こえないのだから、筆談できるようなレベルを目指していこうって割り切ることに。

 

英語も然り。中学時代、英検を初めて受験した時はテロップも字幕もなかった映像を見て、口だけを懸命に見ていた(そして、何と合格)。あれをもう一度やって、と言われたら絶対無理。読み取れないってば!英語なんでしょ、と。

 

要は音声言語も手話もどちらもできた方が、情報がより得られるということで引き続き、韓国語の勉強に勤しんできます。