うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

作られた仕組みの中に入るということ

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12月5日水曜日。街の中はクリスマスムードになりつつあります。クリスマスツリーを組み立てるところもちらほら。組み立てることが得意な人は本当に丁寧且つスピーディにできるので感心してしまいます(私はスピーディはあるものの、雑です、ザツ…)。

 

組み立てるといえば、仕組みを作る。「NPOって人を雇用できるの?」と質問を受けることがあります。正解は「できます」。人を雇用できる土台があることが前提ですが、仕組みを作る側に立つといろいろ難しいことも出てきます。でも、人を雇用することは不可能ではなく、可能です。

 

逆の立場だと、雇われる側は「既存の仕組みの中に入る」ということでもあります。すでに作られた仕組みの中に入る。すでに作り上げられた常識で成り立っているところに入る。もちろん、変化がスピーディ且つポジティブな企業であれば、既存の仕組みの中から変化を遂げて働きやすい環境にすることもできます。

 

ろう者の就職活動で、よく話題になるのが「聴こえないと言ったら落とされた」「聴覚障害がある人でも歓迎してくれる企業なのに、いざとなると電話ができないようでは無理と言われた」「人事部は好感触だったのに現場に入ってみると違っていた」などなど。

 

いずれも既存の仕組みから出てくる実態。その既存の仕組みを見てみると、採用する側が聴者であること(マジョリティ)がほとんどです。誤解のないように書きますが、この実態が起きてしまう要因は一概に「採用する側が聴者だから」ではなく、障害があることを否定的に捉えてしまっていること、そして、本人の人格がたまたまマッチできなかったこと、などが考えられます。しかしながら、聴者が作った仕組みの中にろう者が入る場合、働きにくさを感じる要因は「耳が聴こえないから」なのか、それとも「耳が聴こえない人に対して、周りがどのように工夫したら良いか分からないから」なのか。

 

仕組みを変えることを厭わない企業なら、障害を踏まえた上でどのように改善していくか試行錯誤を繰り返します。実際にそういう企業もいくつかあります。

 

既存の仕組みに入ることの選択肢だけでなく、自ら仕組みを作るという選択肢もあっていいはずなのにあまり話題になりにくい。そりゃ、リスクが大きいからなのかもしれません。

 

しかし、聴者が圧倒的に多い社会の中でいつもマイノリティ側が既存の仕組みの中に入らざるを得ない実態を見ていると…なんともいえないモヤモヤ感が。仕組みの中から脱するか、仕組みの中から改善していくか、それともバイタリティ溢れる行動を起こせるかどうか。

 

ろう者自身も人間。リスクを冒してまで成し遂げたいものがあるとしても、そこまで行動を起こすのは厄介なのかもしれません。

 

この話題はまた今度考えてみたいです。

 

発音が通じないのは、音が足りないから?

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12月4日火曜日。写真の絵は韓国語の先生が描いたもの。30年ぶりに見た懐かしい絵(蘭学者杉田玄白の絵ではないぞよ)。

 

韓国語の勉強、我ながら珍しく(?)続いています。亀の歩みのように。

 

前に韓国語を習ってる友人から「パッチム難しいんだよね」と聞いてたけど、なるほど、こりゃ難しい。聴者でも難しいと言ってるくらいだから、こりゃ、ね。

子音と母音、さらに子音が下にくっつくものがパッチム

 

日本語の発音なら「パク」や「キンパ」と一文字ずつハッキリ言う。でも韓国語は、途中で音を止めるところがあります。

 

お、おお?なんで、そこで音を止めるの?と思いつつ。日本語の「ん」は、3種類ほど使い分けがあるにもかかわらず、日本語は一文字だけの表記になっている。秋刀魚、あんこ、は「ん」の部分で、口を閉じてるか閉じてないか。

 

この時に私は思いました。

「もしかして、日本語としての発音が通じない時は、発音の仕方がなんとなく間違ってるのか」と。

 

喉のあたりで、音を止めるからもう少し音を伸ばすべきだったかな。

舌の動きを口の中でもう少し緩やかに動かすべきかな。

 

感覚的には合ってる!と思って発声しても、通じない時があります。まぁ、もともと明瞭に発声すること自体難しいし、通じなかったら別の日本語を選んだり、筆談したり手話で話せば良いので。と割り切っています。だって、音が全く聞こえないから。

 

しかし同じような発音が多い中、韓国人はどうやって聞き分けているのか不思議。先生に聞くと「私たち韓国人でも間違うときは間違えるから。あはは!」。

 

そうか、間違えたっていいんじゃない、人間だもの。

 

 

点々をどこへ持っていく?

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12月3日月曜日。朝、外を見ると雪を被った山々が現れてきます。冬の始まり。こういう時は、この猫さんのようにふわふわした座布団の上で背を伸ばしたいもの。

 

先日、とある集まりで『日本語のカタカナ表記を、ろう者が時々間違えるのはどうしてだろう?』ということが話題に。

 

間違う特徴として、一つは、文字の順番が反対になってたり抜けたりすること。

 

(例)

ノスタルジック→(誤)ノルスタジック。

クラウドファンディング→(誤)クラウドファディング

 

もう一つは、濁点の位置が間違っていること。

(例)

パックパッカー→(誤)バッグパッカー

バイパス→(誤)パイバス

 

 

恥ずかしながら日常茶飯事で、メールやLINEを作る時に上手く変換できなくて初めて「ああ、違うのか」と誤用に気付きます。

 

カタカナ表記だけに限らず、漢字の読み方も同じで濁点が付いてたり付いてなかったり。高校時代に漢検受けるための勉強をしてたら「もう!なんで、こんなところに濁点付けるのよ!」と漢字さんにイラついたことも。

 

カタカナ表記の読み方は、英語やローマ字表記に変えると割と覚えやすいです。

上記の例だと、

ノスタルジック→nostalgic 

クラウドファンディング→crowdfunding

 バックパッカー→backpacker

バイパス→bypass

 

bならビー、pならパ、というふうに。

英語、ローマ字表記が読めなかったらどうするか。そんな時は手話に置き換えて覚えるケースもあります。

 

コレステロールなら、「これ、捨てる、ロール」。日本語の音を視覚化に変えて覚える。時々、ジンジャエールを「神社、応援」と表すように冗談っぽく使うこともあります。

 

それでも間違えるときは間違えます。音が聞こえないので仕方ない、アップデートして覚えるのみ(そして、使用頻度が低ければ忘却の彼方に…)。

 

ということで、点々を付けるところが間違ってたり、ズレていたらさりげなく教えてくれると助かります。「それ、間違ってるわよ」とズバッと言われたら誰でも萎縮しちゃいます。学ぶ意欲が高ければ別に気にならないけれど、誤用を指摘されまくったら…。

 

間違いの場面を見かけた時は、おうむ返しのように自分の方から表す。すると、気付く人は気付きます。

 

ああ、言葉は奥深い。

 

 

 

分からなくてスルーしちゃうこともある

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12月2日日曜日。先日、立教大学にて「聴覚障害者と労働」について話をしてきました。労働分の専門家ではないのでプレッシャーがハンパなく。でも、専門家の論文や当事者からの話などの情報も含め、実践していることを話したところ、ちょうど障害者雇用が話題になっていてタイムリーな話だったと学生から反応がありました。

 

日本に留学している学生さんもいて、同じ日本語学習者として感じることが多かったとコメントがあり勇気付けられました。「外見が外国人なので、日本語が多少間違っていても、変だとしても理解してくれる。でも、ろう者は見た目が日本人なので、別の苦労があると思う」とも。

 

相変わらず講演するのが下手だなぁと自分で感じます。

なので、コメントも含めて何らかの反応があると本当に助かるというか、嬉しくなります。ああ、伝わって良かったなぁって。通訳が素晴らしい、というのもあり!

 

今年の講演はあと1本、福島県!(うう、寒い)。テーマが異なるので、しばらくはパワーポイントとにらめっこ。

 

外国人といえば、韓国語の先生(韓国人)が「地域によってイントネーションが違うから、本当に苦労した」と話がありました。何回聞き返しても分からない時ってありますか?と聞いたら、「もちろん今でもあるわよ」。

そんな時、どうしてました?と聞いたら「そこはもう笑顔で乗り切るしかないわ。分からないけど、ニコニコとね」と満面の笑みが。

この部分は、ろう者にも共通しています。全員がわかったフリしているとは限らないですが、分からなくてどうしてもスルーしちゃうことがあるのは、きっと手話を学ぶ聴者も同じ。

 

お互いにそれが分かるだけでも、隣人に優しくなれそうな気がしませんか。

 

何でもないようなことでも

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12月1日土曜日。昨日の早朝、東京に向かう新幹線の車窓から撮ったもの。手持ちのiPhone、カメラがぼやけている(メンテナンスが足りないのだよ)ので、カメラを片手にあちこち行きたくなっている。

 

写真を撮りたい。無性に。

 

時々、突然やってきます。この気持ち。出会いと別れがこの短期間に集中しているせいかもしれません。

 

2018年の終わりの月がやってきました。

焦る気持ちをおさえ、写真を撮りに出かける時間を編み出して12月を楽しんでいきたい。そして、新年になっても変わらないこの気持ちで!

 

声を出しながらの手話について

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バルト3国を旅した友人からのお土産

11月25日日曜日。1ヶ月後はクリスマス。フィンランドから公認(!)サンタクロースが来園する企画もあるとか。新潟県立植物園 クリスマスイベント(12月1日)

 

サンタクロースといえば、聞こえない子供に手話で語りかけた動画が数年前に話題になっていました。

nlab.itmedia.co.jp

夢を与えるサンタクロースも手話ができる!嬉しいニュースです。

 

手話といえば、「日本手話と日本語対応手話の二つがあるんですか」と質問を受けることがあります。言語学の専門家ではないので、難しい言葉は使わず(使えない)に解説させていただいていますが、「声を出しながらの手話は、どうなんですか」という質問も出てきます。

 

世の中には、全く耳が聞こえない人もいれば、片耳だけが聞こえていたり、特定の音だけ聞き取れる人もいます。人間の耳は不思議なもので、私が発する声(独特らしい)を短時間で聞き分けられる人もいれば、どんなに時間をかけてもなかなか慣れない人もいます。ちなみに、iPhoneのSiriは全然認識してくれないのに、「ドナルド・トランプ」と「バラク・オバマ」この二つを発声するとほぼ完全に認識される(!)。

 

 

私は自分が発する声が、どんな声をしていて、どんな風に聞こえるかを『自分の耳で』聞いたことがありません。どうやら男性っぽい低い声がするようなので、聞こえるようになったら真っ先に自分の声を聞いてみたい。

残存聴力がある人なら、自分の声は聞こえていると思います。

 

耳が聞こえない人の中には、手話で話をします。声を伴わない手話もあれば、声で話をしながら手話を使うパターンがあります。

 

相手も耳が聞こえない、自分も耳が聞こえない。そこに声を使う必要性がない場合は、手話を使います。聴者が相手でも、手話に堪能な聴者であれば、声の必要性がないので手話での会話になります。

 

でも、例外もあります(だから、ややこしく映るんですよね)。

幼い時から訓練して身についた口話(こうわ)のスキルを低下させたくない、キープしたいから、自分は発声する、という方法。この感覚は、普段、日本語を『音声で』話している聴者にとっては想像しづらいことかな。

 

相手が聞こえていたり、手話が分からなかったりする場合は、声を出しながら手話で話をします。それは、声自体に必要性があるから。発音の明瞭度はともかく、声を出すことをコミュニケーション方法の一つとして活用するから。

 

ここまではシンプルに「声が必要か必要ないか」と区別するだけなのですが、ここからは非常にややこしくなります。

 

1対1の関係を超えて、数名、グループ(集団)での会話になると…

聞こえる人が声を出しながら手話で話をした場合、声の果たす役割が優先的になります。その一つが、割り込み。

耳が聞こえない人は、声が聞こえないので『目で話し手を見る』。

話し手に対して、他の聴者が「あーやっぱり!」「ちょっとそれは…」「ええ?そうなの?それはね…」と発声した時、話し手が交代します。発声した時点で、交代した人が手話で話しても、聞こえない人にとっては『誰が話しているのかを見るのが、間に合わなくなる』。

 

ワンテンポ遅れても、まぁ、話している内容が分かればまだ大丈夫。

とはいえ、聴者同士が盛り上がった時に、一体どうやって割り込めばいいのか、すっきりしない気持ちのまま見守る…ということもあります。

 

また、声を出しながら手話で話をする場合、日本語がベースになります。

日本語の文法の上に手話を乗せるイメージで、日本語対応手話とも言われています。巷では「ろう者は、日本語対応手話は通じない」と言われていますが、正しくもあり、間違いでもあります。

 

日本語対応手話でも通じるというのは、聞こえない人自身が日本語のリテラシーをある程度身につけていることが前提になります(中途失聴者も同様)。

しかしながら、それでも日本語対応手話が否定的に見られているのは、声そのものの役割が聴者同士の中で通用し、耳が聞こえない人には通用しにくい場面が生じてしまうからなのではないか、と。

 

手話がいろいろな形で使われている現実。

手話を学ぶ人が時々ぶつかる壁の一つ。

ケースバイケースだよ、なんて答えになりませんね。

目の前にいる人や近くにいる人が分かるためにいろいろな方法をチョイスしながら話をしてみることが大事であり、そのためのスキルが手話であることは間違いない。

手話を学びながら、異文化理解を深めていく。その道のりを歩く人たちを応援しながら、私自身も学び続けてみたいです。

 

少し古いですが、学生時代に衝撃を受けた論文がこちら。

金澤貴之「コミュニケーションと抑圧」

聴者とろう者の発話者交代の仕方が具体的に書かれています。手話通訳を担う人でも案外、知られていない内容かもしれませんので是非ご一読を。

 

色眼鏡かけるくらいなら透明な眼鏡を

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11月20日火曜日。駅で見かけた鳥巣箱のような木箱。

これは「乗り放題」の「ノリホ」ではなく、乗車人数+報告の、ノリホだそうです。鉄道に詳しい友人曰く、列車の人数を紙に書いて投函というアナログなやり方で、最近は減っているとのこと。貴重な木箱だそうです。

 

分からない時は聞いてみるものですね。

気になった時は調べてみるものですね。

 

私たち人間はどうしても思い込んでしまう時があります。そして、この思い込みが間違った決めつけ、レッテルを貼る行為に繋がることも無くはありません。

 

先日、こんな話がありました。

手話通訳の仕事をしている人に「聞こえない人とはどうやってコミュニケーション取るんですか」と質問がありました。ろう者に会ったことがない聴者からの質問。

 

手話だったり筆談だったり…と答えた後、近くにいる、ろう者を指差して「この人は口の形を読むことがすごく上手いんですよ」と付け加えて説明。聴者は「ええ?そうなんですか」と驚き、近くにいたろう者に話しかけてみました。

概ね通じていたので「すごいなぁ」と感心しきり。

 

しかし、そのろう者は大変困惑していました。

 

と、友人から聞いた話はここまでになりますが、この話は続きがありまして。

 

口の形を読み取れていたにもかかわらず、なぜ困惑していたのでしょうか。

 

口の形を読み取ることを「読唇術(どくしんじゅつ)」といいます。これが、一部の聴者にとってはかっこよく見えてしまうそうです。たしかに音がなくても何を話しているのか分かれば、まるでマジックでもかかったかのような気分になりますね。

 

この読唇術がくせ者で、口の形が読めるから誰でもどんな口の形でも読み取れる!というわけではないのです。ボソボソ喋る人もいれば、早口でマシンガントークで話し込む人もいる中で、口の形だけを見るのは結構しんどい作業。相手の声が聞こえにくい分。

 

1時、2時、7時。

ビール、水。

きつい、キウイ(今日食べました)

 

口の形がほとんど似たような形になっています。それを、単語レベルにとどまらず、文章や会話レベルになると、何を言ってるのだろう?と想像力をフル稼働しないといけなくなります。

 

さて、先ほど困惑していたろう者。

なぜ困惑していたのでしょう。

 

手話通訳者が「この人は口の形が読み取れますから」と「配慮」したつもりかもしれませんが、結果的には「この人は手話は使いますが、口話ができるので手話使わなくてもいいですよ」とも受け止められます。

 

先ほど困惑していた理由は、そこにあります。

つまり、当事者である本人が望むコミュニケーション方法を、代弁するつもりでフォローした通訳者が「口話できますよ」と説明したため、ろう者のコミュニケーション方法が限定されてしまったということ。

 

私にも似たような状況に出くわしたことがありました。

「あなた、口話ができるんでしょ。だってインテグレーションで育ったんだもの」。

 

インテグレーションというのは、聴者が通う学校にろう者も通って学ぶというもの。

 

残念ながら(?)私はインテグレーション育ちではないし、聴者と同じ学校に通ったからといって全員口話が上手なのかというと、そうでもなかったり。それに、口の形が読み取れるということを褒め言葉として受け止めるのは学生のうちだけ。

 

先ほどの困惑したろう者はその後、どうなったかというと…

 

手話通訳者に対して「口話が上手だって?それじゃ、今日から口パクで会話しましょうよ」と返したという。

 

誤解のないように書きますが、手話通訳者も人それぞれ。本当にいろいろな人がいるので、ごく稀に「あなた、実は耳聞こえてるんじゃないの?」というツワモノに出会うこともあります。

 

ああ、思い込みは怖い。

でも、誰にでもあること。間違いに気づいたら直していく。

 

ということで、今日もお疲れ様でした。また明日〜

料理するたびに謙虚さが増す

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11月18日日曜日。朝と夜は気温が一桁に。今年も冬が始まろうとしています(もう始まり?)。紅葉もそろそろ終わりそうです。

 

なんとなくノスタルジックになりそうな(実はこれ、ノルスタジック、と勘違いして覚えていました。こりゃダメだわ、カタカナは難しい)。

 

ところで、里芋を使った料理にチャレンジしてみました。新潟県五泉市は、きぬおとめ、という里芋が出回ってて、行きつけのお店にもメニューに出てきています。

 

いざ挑戦!と思ったら、皮むきの難関をクリアできず。里芋の皮むきってこんなにハードル高いのか…だから冷凍物が出回るってことなのかと今更ながら気付くワタクシ。

 

二度目の挑戦は、土を落としてから鍋へ。その後、水で冷やしてみると「おお、皮がむけた」。あっけなく、難関はクリアできました。

しかし、この作業は手間がかかります。

 

お正月の煮物に出てくる里芋、あれはおばあちゃんが頑張って、手間かけて皮をむいたってこと。

 

里芋を使った料理が作れる人は本当に尊敬します。

寒くなってきたので、根菜を食べて冬を乗り切りましょう!

 

ちょっとした沈黙のあいだに

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11月11日日曜日。東京からの来客が「紅葉が見れるなんて感動!!」と興奮していました。
上記の写真は、紅葉が綺麗に見える道から撮影したもの。逆光で葉っぱの色が見えづらく…でも、木漏れ日が良い感じに。

 

先月からずっと講演、イベント、来客の対応などで予定がぎっしり埋まっているものの、隙間時間に本を読んだり、お茶飲んだりしています。で、カフェで本を読んでいたらこんなことがありました。

 

本を読む私に誰かが近づいてきました。視界に入ってきたので見上げると、全く知らない人が。

「◯◯◯ですけど、◯◯◯◯◯い」。

 

とっさのことだったので「はい?」と思わず、表情で返す。

「あ、◯◯◯ですけど〜」。

 

数秒間、沈黙。「あ、耳聞こえないんです」とやっと返事しました。

 

すると、相手の方は「え?」と戸惑っていました。

この沈黙がたぶん、2秒、3秒は続いたかも。ああ、この沈黙の時間、久しぶり!(懐かしんでる場合じゃないのに)。

 

逃げようとしてるわけでもなく、でもどうしたらいい?と困惑している表情だったので、「あ、書いてくれればOKです!」ということでペンと紙を差し出すと、すぐに書いてくれました。

 

カキカキカキ…

 

隣のスペースで誕生会を行うのでちょっとうるさいかも、ごめんなさいね、という内容。

ああ、私聞こえないので全然お気になさらず〜

 

ということで、「ありがとう」と手話で表したら相手も「あ、ありがとう!」と見よう見まねで手話で返ってきました。

 

この小さな出来事、聞こえない人なら誰でも経験があること(中には逃げてしまう人も!)。相手から見れば、本を読んでいる姿を見て、まさか耳が聞こえない人ということは想定できない。けれど、とっさに紙に書くという行為はコミュニケーションを取ろうという姿勢なので安心感が生まれます。

 

ここで私がなぜ、「耳が聞こえないんです」と応えるのが遅れてしまったのか。

今回は、本の内容がちょっと難儀だったのもあり、頭の切り替えが遅かったこと。

そして、読書の時間の最中だったこと。

日頃、口の形を読み取る時にある程度の想像力を駆使しているにもかかわらず、今回はそれが間に合いませんでした(想像力を使っても、読み取れない時はあります)。

 

カフェでの場面でいうと、カフェをざっと見渡した上で「私に話しかけてくるってことは、私が何かを落としたり、私のことを知ってて連絡先を聞きにきたりするくらいだろう」と想像します。そして、想像する範囲内で使われる言葉が脳内に広がります。

 

「何か落としたみたいですよ」

「これはあなたのものですか」

「本読みました、うすいさんですよね」

といった具合に。

 

そして、相手が実際に何かを話して、脳内に出てきている言葉のいずれかに当てはまったり、それに近かったりするとある程度は、読み取れます。

しかし、今回はまさか、読書の最中に話しかけられるとは思っていなかったので、ちょっとした沈黙が生じました。

 

仮に手話で話しかけられたとしたら沈黙は起きなかったはず。手話を読み取る時も、ある程度想像力を使っているとは思ったけれど、口の形を読み取る時ほどのエネルギーを要しない。この感覚、聞こえる人の場合なら「日本語で話しかけられたら普通に答えられるけど、英語や韓国語でいきなり話しかけられたら…」というようなもの、かな。

 

ということで、本を読んでいる人は必ずしも聞こえる人とは限らないってことですね(いいの?こんなオチで)。

 

失恋から考えた、仕組みを作るということ

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11月5日月曜日。30代前半最後の日。ああ、もう折り返し地点。

たまたま、「失恋」の漢字を見た年配の方から「しつこい」と言われました。し、しつこい?と思わず聞き返しました。

 

年配の方は、ろう者。耳が聞こえません。

「だって、この漢字、しつこいって読むんでしょ?」。

 

失=しつ、恋=こい、ということで「失恋=しつこい」と読んでいました。真顔で。

 

しつこいから失恋する、というのはさておき、こういう場面はよくある話。漢字の読み方を間違えるって、本人は気付かないし、気付きようがない。私もその一人。

聞こえる人でも間違うことはあるけれど、確率的に見たら、ろう者の方が圧倒的に多いかも。スマホで漢字を入力した時に、うまく変換してくれなくて、「あれ、今までの読み方、もしかして間違ってた?」と初めて気付くことも少なくないです。

 

耳に入る情報量を上回る方法なんて無い。もう仕方ありませんのう。

耳が聞こえないってことを割り切る。

 

そして、仕事でも割り切っています。私宛に電話があった時のこと。

相手は私が聞こえないことを知らないで電話かけてくるときがあります。手話や聴覚障害のキーワードを掲げてNPOを運営しているものの、まさか耳が聞こえない人が運営しているとは思っていなかったのか、「え?聞こえないんですか」と反応されることは日常茶飯事。

スタッフのほとんどは手話ができるけれど、電話通訳は年に1回あるかないか。手話通訳ができないというよりは、手話通訳ができるスタッフもいるけれど、緊急でない限り、ダイレクトに連絡し合った方が効率的。

 

LINEやSNSが普及している時代が後押ししているのもあって、メールでお願いするとほとんどが快諾。チャットで対応できるところはチャットで、という風に。

 

それでも「いや、電話で話したいんだから」と言われたのは、意外にも手話関係者でした。スタッフに向かって「手話できるんでしょ。だったら電話で通訳しなさいよ」と。おお、そこまで言っちゃうのか…。

よくよく聞いてみると、電話の相手は、私と同じく耳が聞こえない人、ろう者。日本語を使ったメールが苦手だから、手話で話をして通訳してもらった方がスムーズだからということでした。

 

「それだったらテレビ電話しましょう」ということで、テレビ電話に切り替えました。もともとテレビ電話は苦手だし、時間を取られてしまう感があるので正直やりたくないけれど、日本語が苦手と言われてしまった以上、どうしようもない。案件が進まない。もうテレビ電話しかない、ということもありました。

 

電話しても(判断できる人が)反応してくれない。それならメールで!ということが周囲に浸透してきたのもあり、メールで連絡してくることが増えました。おかげで日程調整や案件の打ち合わせがサクサク進み、記録にも残るので助かっています。

 

既存のシステム(音声言語を中心にした、耳から聞く仕組み)では対応しきれない。だったら、新しいシステムを作っちゃおうということで、もう割り切ることにしました。新しい仕組みを作っている方々にも色々聞いてみたいです。

 

最後に、失恋の話が出ていますが、失恋したとかそういうことはないのでご安心をw