うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

行ったことのない国に思いを馳せてみる

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全国ニュースになった、新潟市の大雪。

 

新潟市ではないですが、三条市新潟市から約40km、電車で1時間20分くらい)で電車が立ち往生に。Twitterでいろいろな意見が出ていますが、あのあたりは夜だと真っ暗だと思うので本当に気の毒だったと思います。

 

きょうは比較的、穏やかな天候だったので散策。諸々の用事を済ませながらの町歩き、暑くなってきたのでカフェに立ち寄り。

知る人ぞ知る(?)新潟市本町の「Blue cafe」。数年前に手話レッスンのお客様が「そうそう、素敵なところあるので一緒に行きませんか〜」というお誘いを受けたのをきっかけに2、3回行ったことのあるカフェ。

入ってみると、本棚というよりは、本がとにかくいっぱい!

 今日はこれを読んでみました。

ここのカフェの良いところは、ソファがあって他のお客さんもゆったりと本、写真集を眺めていたり音楽を聴いていたり(このカフェ、ミュージックカフェでもあるそうですね)しているので、リラックスできる。

 

なぜ、きょうは村上さん?それはね、前から気になって読むか読まないか迷っていた本だったから。

 

村上春樹さんファンの方には申し訳ないけれど、私にとって「ノルウェイの森」は衝撃的な作品で、他の作品を読みきる自信がなくなってしまったから。だって、当時は高校生だったのだから(いや、関係ないか)。

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

ノルウェイの森 文庫 全2巻 完結セット (講談社文庫)

 

 

これを読みきるのに3度、チャレンジしなければなりませんでした(敢えてですが、とても素晴らしい作品でした。人間の内面について深く洞察しているというか、触れることのできない部分を疑似体験したような感覚に)。

 

ラオスにいったい何があるというんですか」は、小説ではなく村上さん自身のエッセイ。ラオスは行ったことがないけど、ベトナムの近くなのでちょっと興味があって、でも村上さんだからなぁ、という風に、読みたいけど読まない、と悶々。

 

そして、今日。

ちょうどタイミングよく、目の前に出てきたので、手に取ってみました。

おお、ラオスだけでなく、アメリカ、フィンランドアイスランドなどの欧米の国も出ていました。しかも観光地ではなく、地元の情報に基づいて街を歩いてみたり、レストランに入って現地の食事を嗜んでみたりといった内容なので、いつの間にか私も一緒に旅しているような感じに。

村上さん、ありがとうございます。

 

 

雪国で快適に過ごすために工夫していること

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新潟もスタバが増えました。ここ数ヶ月で2ヶ所オープン。

この時期になると朝と夜がものすごく寒く、0℃近くに。氷点下にいくことも。北海道の極寒地に比べたら全然大したことないはずなんだけど、太平洋側育ちの身分では「ああ、またやってきたこの季節…」となります。

ウインタースポーツ好きの人なら「よっしゃ〜楽しむぞ!!」とテンションが高くなるのが羨ましいくらい。

 

新潟市は全然雪国じゃない!って言われるけれど、積もるときは積もっちゃいます。不思議なことに海の方だとあまり積もらないみたいですね。職場はあいにく、山に近くて、12月に積もった雪がまだ道端にあります。

 

太平洋側育ちにとって、新潟の冬は「骨まで冷たくなる寒さ」だと感じています。骨が冷えていては怪我の元になるので、どうにか温まらなくては!と思って、人に聞いては試してみています。

 

最近試したのがアームウォーマー。新潟県五泉市で有名な五泉ニット。

item.rakuten.co.jp

 

今、これをつけてパソコンで書いてますが、手がポカポカしてます。

あったかいですね。

 

次にここ数年間使っているものが「湯たんぽ」。

 スノーピークのものを使っているけれど、生産中止になったのか、取り扱っていないようです。下記の写真のようなもの。

ミニ湯たんぽ 袋付 S-9397

ミニ湯たんぽ 袋付 S-9397

 

 

寝る前の布団に入れておくとポカポカ。

他にもインナーウエアなど、いろいろ試していますが、町歩きなら十分でも、雪国となるとなかなか厳しい。

東京へ出張となったとき、いつも困るのが服装。かなりたくさん着込んでみたら、東京だと暑かったり。

 

そんな感じで、自分らしく冬の乗り越え方を模索しているところです。

 

「ろう者の祈り」が刊行されました。

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ツイッターFacebookでお知らせしていましたが、こちらにはまだアップしていませんでした。

 

「祈りってなんだか宗教みたい」と思われがちですが、決してその類ではなく、ろう者が聴者とともに働いて社会生活を送る上での実態について描かれています。著者は、耳が聞こえる人で手話とは無縁の世界にいらっしゃったのですが、数年前の出会いをきっかけに手話を学び始めました。

 

ろう者という言葉に違和感を持つ難聴者もいらっしゃいますが、この本はあくまでも「手話を使う耳が聞こえない人」であり、日本語の壁についても取り上げています。

 

「これだから、聞こえない人は大変なんですよ」というメッセージではなく、あくまでも音声言語が中心になっている社会の中で、どのように生きているか、どのように過ごしているかを知ることにより、お互いが寄り添って生きていく必要性について語られています。

 

「障害を持っているから仕方ない」「聞こえないから日本語なんて難しい」「聴者は誰も分かってくれない」とネガティブな発言をしてきた人とたくさん会っていますが、一方でポジティブに生きているろう者もたくさんいます。

聴者との関わりの中で楽しみを見つけて生きている。聴者とかろう者とか区別せずに、対等な関係を築いて生きている。

両者の違いは何か。簡単には語れないほど、生活環境が様々であること、本人と関わる聴者にも様々な背景があります。

 

それでも、ろう者にとっては、どこへ行っても必ず出会う聴者に対して「関わりができたらいいなぁ」と一度は思っています。どこへ行っても、どこで過ごしても、耳が聞こえる人には必ず出会いますから。

 

人肌が恋しくなるこの冬に、ぜひ手に取ってみていただけると嬉しいです。

 

ろう者の祈り 心の声に気づいてほしい

ろう者の祈り 心の声に気づいてほしい

 

 

一緒に登場している日本語教師・鈴木隆子氏(テンダー教室)

 

次に停まるのはどこ?

 

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昨日の続き。

新幹線に乗ったあと、デッキに立ちっぱなしだった私。

 

右も左も、後ろも人、人、人。

 

ほとんどの人はスマホで漫画、ゲーム、LINEやってて。

当の私はというと、かろうじて右手が使えたのでもっぱらLINEしてました。「ああ〜ここから出たいよう」なんてメッセージ送れるはずもなく、仕事上の連絡から大切な人たちとの連絡のやり取りで、あっという間に東京に着きました。

 

でも途中で、どの駅に停まるのか少し気になっていました。いつもなら、席から見える電光掲示板で『次の駅は◯◯です』と確認できるのですが、今回は席ではなく、デッキ。

 

デッキから見える窓は小さく、駅名まで確認できるか微妙。いつもお世話になってる上越新幹線なら、だいたい町の雰囲気で『次は大宮かな』『次は越後湯沢ね』と判断できるのですが、今回は東海道新幹線

 

10年くらいご無沙汰しているので、窓の外を見ても今、神奈川なのか?まだ静岡なのか?分かりづらいです。

デッキから電光掲示板は見えるはずもなく、周りもスマホに首ったけ。はてさて困ったもんじゃ〜

 

結局は、降りる駅までの間の駅名を全部覚えていたので、ことなきを得た、のですが、見知らぬ土地だったら「あのう、次はどこですかな?」と聞いていたかも。

 

情報が少しでも遮断されると、何だかそわそわしますね。

 

 

帰省ラッシュで出てくる120%

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新年あけましておめでとうございます。去年、ブログで年末の挨拶ができませんでしたが、今年もよろしくお願いいたします。

 

今年のお正月は、珍しく予定がなく寝正月に。数ヶ月ぶりにテレビを楽しみました(テレビのない生活をしていると、視覚的な情報がとても新鮮に映るのか、価値のある番組は釘付けに)。

ここ数年、お正月は旅行に出かけていましたが、今回のように家でゆっくりするのも案外、いい感じがしました。しかし、一つだけ問題が…。

 

帰省先は愛知県なので、一旦東京駅まで行かないといけないルートになっています。

愛知といえば名古屋。名古屋駅〜東京駅は東海道新幹線が通っていて、「のぞみ」「ひかり」「こだま」の3本が走っています。

東京駅は始発なので、時間に合わせて自由席でも確実に座れます。ところが、名古屋駅から東京駅に向かうとなると、京都や大阪、そして福岡からの乗客がすでに乗っているため、なかなか座れないことも。

 

ましてや帰省ラッシュとなると、さすがに自由席はアウト。

ニュースで放送されている「帰省ラッシュピーク!乗車率120%」といった感じのテロップがあるのですが、この数字が120とか150とかはともかく、100%超えているってことは混雑しているということですね。

 

ちなみに乗車率って?という方は、下記のリンクが参考になるかもしれません。

cancam.jp

 

今回は、名古屋駅から東京駅に向かう新幹線で苦戦。新幹線が目の前に停まっているにもかかわらず、席の間の通路からデッキまで人、人…。全然乗れる余裕がないので、数本見送った後、思い切ってデッキに入りました。案の定、東京駅に着くまで立ちっぱなし。

帰省ラッシュを甘く見ていました。最初から指定席を取ればいいのでは、という結論になるのですが、今回は予定が変わることも想定されていたので自由席のままにしていました。

仮に指定席が取れたとしても、通路側に人、人…となると、指定された席に行くまでにストレスが溜まりそう。そんなわけで、帰省する時期が重なると本当に大変。

毎回帰省されている方は本当にお疲れ様です。

 

次回の帰省どうしたら良いのものか、考えるきっかけになって良かったです。帰省ラッシュ、お疲れ様でした。

ちょっとした会話から考えてみたこと

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「今日はとっても寒いですわね」「そうですね」

「明日は晴れるみたいですよ」「そうだといいですよね」

「お久しぶりです、しばらくお会いしていませんでしたね」「そうですね、いつぶりでしょうかね」

 

こういう会話を、当たり障りのない会話、といいます。あたりさわり。

あくまでも、私のケースですが、聴者との関わりで無意識にやっていたことの一つが、上記の会話で、いつもここから入って「ところで、本題なんだけど〜」というふうに話を展開していくことが多いです。

 

ろう者を相手にすると、上記のような会話はするものの、本題に入るまでの時間が何となく短くなっていたり、省略されていたり(したり)。もちろん、ろう者全員というわけではなく、「まぁ、久しぶり!元気だった?もうね、近くにスタバができてて道が混みやすくなっての〜」という感じで話すこともあります(むむ、オバさん?)。

 

「ろう者は言い方がいつもストレート」と、手話関係者の間ではよく言われています。

 

ストレートなんだから分かりやすいでしょう、とシンプルに考えたらいいのだけれど、どうしても不愉快になってしまうこともあります。私も、ストレートに言うことはありますが、相手が嫌になるような言葉はできるだけ投げないようにしています(それでも分からず屋がいるので、時にはストレートに、時には変化球を、といった感じで投げながら反応を見ています)。

 

なぜストレートなのか。

手話という言語の特性も関係あるかもしれませんが、視覚的に情報を得る立場にいる者同士ならではの「情報交換」が大きいかもしれません。

聴者は、視覚的だけでなく、聴覚的な情報も得られる。なので、情報を伝え合うことに関してはあまり敏感ではないかもしれません(人によりけり)。

 

ろう者は、耳が聞こえない、聞こえづらいため、どうしても情報に偏りが出てしまう。そんな時、他者からの情報提供があると自らの解釈について修正したり分析することができる。それも、同じコミュニティ内で、早い段階であればあるほど、ホットな情報を自ら取り入れることができます。

 

逆に言えば、修正したり書き加える作業が日ごろできていなかった場合、どうしてもストレートな表現になってしまいがちなのでは。

ろう者の中には、読書が好きだったり友達との関わりを持ちながら自らを磨いたりとする人もいます。一方で、聴者との関わり方に不安を持ちながら避けてきている人もいます。

 

当たり障りのない会話をすること自体、ろう者は耳に入ってこないため、世間話があまり上手にできない人も少なくありません。世の中、もう少し視覚的な情報が入るように整備されていたら、おそらく少しは「あの人に伝えてみようかな」という気持ちが起きるのでは。

でも、当たり障りのない会話はそもそも必要なのかどうか。クッションの役割はあるものの、本当に必要としない場面も全くないとは言い切れない。

 

でも、全く当たり障りのない会話が皆無だと、何となく違和感が。

終わりが見えない内容になってしまいました。

 

またこの続きを考えてみるとして、明日は大雪が降るそうです。気をつけていきましょう。

声と音声入力のお話

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12月に入ってからブログの更新ペースが緩くなってしまいました。

 

「新潟の冬って本当に寒いですね」と関東人に言われて、「ウンウン、そうだそうだ」と思いっきり頷いているのですが、新潟の人も今年はさすがに寒いそうです。

来週水曜日あたりが雪マークになっています。

 

そういえば、みなさんは天気予報をどうやって調べますか。

テレビのニュースだったり、誰かに聞いたり、ラジオだったり。私はいつも

ウェザーニュースタッチ

ウェザーニュースタッチ

  • Weathernews Inc.
  • 天気
  • 無料

 

このアプリを使っています。

で、最近何かと話題になっているgooglehomeでも天気予報を調べることができるとのこと。手が離せないときや、何かに取り組んで両手が使えない時に、声で「今日の天気は?」と話しかけるだけで情報が入るそうです。機械が喋るみたいです。

 

おお、便利!と思ったのですが、私にとっては使えないかもしれません。

何が問題なのかというと、音声入力。

以前、iPhoneで音声入力を試みたことがあります(きっと、耳が聞こえない人で試した人は多いはず!)。Siriという機能です。知りたいから「しり」と名付けられた?

 

私の発音は、聞き慣れている人は大抵、何を言っているのか分かってくれます。

初対面の人にとっては聞き取りにくいようです。私なりに発音は気をつけていますが、自分の声が全く聞こえないので確認しようがありません。

そんな状態なので、Siriを使えば「聴者がどんなふうに聞こえているのか」を確認できるのでは、とちょっと遊び気分で試してみました。

 

ところが、これが難癖で。

どんな言葉を発しても「ほにゃらら〜」という感じで、正確に音声認識されず。全く言葉になっていなく、「すみません、何をおっしゃってるのか分かりません」とSiriに言われる始末。いやいや、Siriさん、頑張ってよ!と言いたくなりますw

 

近くにいた聞こえる人から「え?何で聞き取れないの?」とSiriの性能の低さに驚いていました(いや、性能が低いんではなくて、私の発音が問題なのかも?)。

でも不思議なことに「バラク・オバマ」と「ドナルド・トランプ」は正確に認識されていました。確かに、カ行、タ行の発音は言いやすい。

おそらく世界中の大勢の、一般市民が使う言葉だから発音が多少違っても、Siriなりの補正力があったのかもしれません。

 

今やスマホが主流になりつつあり、パソコンよりもスマホが便利になり、音声入力も便利という時代の流れになっている中、将来的にパソコンのキーボードがなくなり、音声入力で完結するというような話もあります。そういう時代になったとき、耳が聞こえない人で、自分の発音が確認できない人は置き去りにされるのでしょうか。

 

いえ、キーボードならではの便利さもあるのでそう簡単に無くならないとは思いますが、音声入力の機能が最初から使えないなんて何だか残念。

 

それにしても聴者の耳は本当にすごいです。私の発音に慣れているスタッフは、声だけでも通じるようになってきています。

慣れるまで時間がかかりますが、Siriさんも、もしかしたら慣れてくると正確さもアップできるということでしょうか。

 

音声入力、これからどこまで浸透していくのでしょう。

音楽と孤独とそれから

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車の中で聞く。

お店の中で聞く。

くつろぎたい時に聞く。

 

音楽はとても身近な存在。街歩く人を見渡してみると少なからず一人か二人はイヤホンを耳に当てている、きっと音楽を聴きながら歩いている。

「この音楽を聴くとね、あの頃を思い出すのよ」

「好きだった人が聴いてた音楽だな」

「これを聴くとテンション上がる!」

 

人間にとって音楽はとても身近な存在。だから音楽が聴けなくなることが怖いのかもしれない。

かつて友人が「まえは耳が聞こえていたから音楽がすごく楽しくて。でも今は聴こえなくなってしまって…」。

耳が聴こえないって何だか寂しい感じ、と言われたけれど、全然ピンとこなくて。手話もあるし、日本語もそれなりに使えるのであまり気にしていなくて。

 

今日は仕事の関係で、コンサート会場に行ってきました。はて待て、コンサートとライブってどう違うのでしょう。

wisdom-box.com

 

大した違いはないみたいですね。語感によるのかなぁ。

三味線の演奏だったのでコンサートということで。三味線、しゃみせん。

人生で初めて、三味線のコンサートを経験してみました。

 

想定内ではあるけれど、音が高いのもあって、身体に響きませんでした(ロックバンドとかだったら振動を感じ取って、リズムもなんとな〜く分かる感じ)。単に響かないならまだしも、私の席は最前列。演奏者の表情がよく見える位置。

 

それでも、音がぜんぜーん響かない!、ということに「三味線ってそういうものかなぁ」。

 

時折、拍手が湧き立ってる。演奏者はまだ三味線を弾いてる。一体どういうタイミングで拍手するのだろう。演奏者も時折、観客にアイコンタクト送っている。

 

この時、聞こえる世界での孤独をすごく感じた。

喪失感というのかな。追い出されたのではなく、同じ空間にいる、私はそこにいてもいい、でも一緒に感じることが全然できなかった。

 

以前、誰だったか、聴こえない世界のことを「ガラスの箱にいるようなもの」と表現していたけど、まさにそんな感じ。

追い出されていないし、無視されたわけでもないし、何かを言われたわけでもない。

それなのに、目の前に繰り広げられる光景と私の存在がどことなく結びつかない。周りを見渡せば、一人ひとりが、私が一生聴くことのできない音を感じ取りながら酔いしれている。

 

ああ、これが聴こえる世界なのか。

 

すっごく久しぶりに感じた、この違和感。でも何となく懐かしくもあった。

そして、多くの人を惹きつける音楽って何なのだろう。一生、耳で聴くことはできない音楽。

 

耳が聴こえないから音楽は楽しめない、というわけではない。ろう者・難聴者の中には音楽が大好き!っていう人もいるし、ライブに通っている人もいる。バンド作って音楽やる人もいる。

私もかつて、学生の頃にライブ行っていた。聴こえないから楽しくなかったのかというと、そうでもなくて、憧れの人が歌っている姿を見るだけでも本当に楽しかったし、きっと雰囲気が楽しかった。

でも、歳を重ねるにつれて、憧れの人を見るだけじゃ物足りなくなってきたかもしれない。

 

音楽の魅力の一つに、演奏と演奏の合間に、演奏者がトークをする。この時間が、人柄をもっと知れる時間であり、その人の価値観を共有したり、一緒に楽しめる時間。だから、人はコンサートやライブに足を運ぶ。

 

そして、それ以上に演奏者が発する音が魅力的である「音楽」とは一体、どういうものなのだろう。何らかのきっかけで、もし耳が聴こえていたら、きっと真っ先に「私、音楽を聴いてみたい!」と言うでしょう。

 

とても良い時間でした(これ、本当にそう思う。負け惜しみなんかじゃなくて、すごく良いことに気づかされたから)。

 

 

ろう者と音楽といえば、音を可視化する実験があったので参考まで。

www.ted.com

本を読むきっかけ

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書店でたまたま目に入った本。 

松坂世代の無名の捕手が、なぜ巨人軍で18年間も生き残れたのか」。

松坂世代」という言葉に引っかかった私。「横浜高校vsPL学園」で延長戦を投げ抜いた松坂大輔選手と同世代なので、思わず手に取ってみました。

加藤健、という名前は知らなかったのですが、巨人軍に18年間というのは結構な長さという印象だったのでパラパラとめくってみると、なんと「新潟県聖籠町出身」。

私の周りにも何人か、聖籠(せいろう)町生まれ育ちの人がいるのですごく身近に。

 

ちなみに聖籠町は、新潟市新発田(しばた)市に接している町です。市ではなく。

人口は約1万人。

聖籠町 - Wikipedia

手話では「聖母マリア」の漢字にちなんで十字架をイメージした表し方になっています。

 

手に取ってから新潟出身と知ったので、読んでみたい!と即、購入。でも、もし「松坂世代」というキーワードがなかったら素通りしていたかも。

新潟市内の書店とはいえ、ポップというか、何かしらのお知らせが書かれていなかったのですごく勿体無いような気が(知っている人は知っているから不要かもしれないけど)。新潟出身、という一言だけでもあると、野球に全く無縁の新潟人でも「お?なんだろう」と興味を持つのでは。

 

あらためて、言葉、一言ってすごく大事。

 

12月20日、私も一冊の本に取り上げられることになりました。新潟生まれではないけど、新潟で活動をしているということで「ろう者の祈り」として紹介されています。

amazonではまだ販売されていないみたいですが、一応、オンライン上でも紹介されています。良かったらぜひ、お読みください。

product.rakuten.co.jp

師走から読み方を考える

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12月になりました。何だかんだ毎日、仕事であちこち行ってブログ更新、サボってしまいました(インプットを怠ると本当にアウトプットできなくなりますね、そりゃ当たり前ですわな)。

 

12月といえば師走。

こないだ「もうあっという間に年末になるのか〜本当に忙しいわね」とスタッフたちと話していたとき。「師走というのは、まさにこの通りね」と話していたら、案の定、ろう者から「ん?し?しわす?」。

 

師走の漢字を見ると、「師」「走」。

文字通り、師匠なる人が忙しく走り回る、というイメージが目の前に浮かぶけれど、耳が聞こえない人にとって「しわす」と読めるようになるまで少し時間がかかります。漢字が大好きな人は当然、サクサクと読めるけれど。

 

「走」がなぜ「わす(はす)」になるのか、理解できないことが大きいかもしれません。耳が聞こえていると、無意識に読めてしまうことがいかに多いことか(もちろん、全員がそうだとは限らないけれど)。

 

指文字を読み取るとき、日本語力が大きく関係していて、「しわす」と表して、とっさに「ああ、師走ね」と理解したとき、ろう者が「??」な顔をしていると、どうしても「この人、師走が分からないって?何で?」とつい、いらぬ感情を抱いてしまう。

そんな光景を見るたびに、指文字は日本語がベースになってるからねぇと思うのですが、なかなかそのあたりが理解されにくいみたいです。 

 

指文字とはなんぞや。

あいうえお、かきくけこ、といった50音を一つ一つ、手の形に変えて表したものが指文字です。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:JSL-AIUEO.jpg#/media/File:JSL-AIUEO.jpg

 

手話も言語の一つと言われて時の流れが経っていますが、手話の中に指文字が含まれているので「指文字を使えば、通じる」と思われているかもしれません。

 

手話がわからない時に指文字使えば通じるという教え方も行われているので、そりゃぁ、学習者にとってはそうなのか!となっても無理はないかな、と。

 

知識の一つとして、体系的な学習ができていればもう少し違った方向へ。なんだけれど、まさか指文字が通じないなんて!といったこともあります。指文字が通じない背景の一つに、年配のろう者(70代〜)は学校で教わっていないため、空書や筆談で対応してきた、あるいは口の形を読み取ってかろうじて理解してきたため、指文字を覚える必要性に迫られることがなかった、というのがあります。

 

もう一つは、指文字を知らないろう者は初めからそのコミュニティ(手話サークル)に入ってないか、あるいはかつては所属したけれど、居づらくなって辞めてしまったため、その存在すら知ることなく、指文字が通じないろう者がいることすら知らない手話学習者も少なくないです。通訳者の中にも、指文字が通じると思って表し続けていることがあります(ろう者自身が「うん、うん」と頷いてしまっているので)。

 

指文字を知らないろう者に出会う機会がほとんどない以上、仕方ないのですが、指文字が通じなければ、文字に書いてみたり言い換えたりと言葉を工夫したら良いのですが、どうも一筋縄ではいかないようで。

手話通訳を担っている人が「なんでわからないのよ」とつい突っ込んでしまう場面も、残念ながら実際にあります。 もっと柔軟に、コミュニケーションのモードを調整していけたらもっと楽しくなる予感がします。

そんなわけで、「師走」が読めなかったら、文字を書きながら師走の意味を伝えていきましょう。