締め切り日を作る
冬眠したいくらい、日本海の冬はとても寒いです(中には、タイツなんて履かなくても平気!という人がいるけど、信じられないです)。
こたつの中でぬくぬくと…そんなこと言ってられないくらい、次から次へと仕事が舞い降りているこの頃。
締切日を作らないと、本当に動かない自分を何とかしたい。
締切日を設けると仕事が捗りやすいと思うけれど、この締切日も曲者で、2週間後に設定すると「ああ、まだ大丈夫」と油断してしまいがち。
2週間後、というよりも、2日後の方がほどよいプレッシャーがあり、エンジンがかかります。でも、これも曲者で、講演となると、手話通訳者に事前に資料を渡さないといけない(最終的には自分が損するから)ので締切日が、講演当日より1、2週間前だったりする。そうなると、「講演は2週間後だから大丈夫」と思ってしまい、手話通訳者に渡すというアクションを怠ってしまうことも。
だったら、手話通訳者に渡す日を締切日にすれば良いのだけれど、いつもギリギリになってしまうので申し訳ない思いです(どちらかというと、聴衆を見て話し方を変える方なので、完璧に作り上げることはあまり得意ではない。できることなら、前日まで微調整していたいタイプ)。
要は、締切日を細かく設定し、段取りよく進めていけば慌てなくて済むということ。
一歩ずつですね。
(写真)佐渡のゲストハウス「on the 美一」にて。
きれいな水に変えるということ
出張が続き、落ち着く時間がなかなか作れないまま、すっかり日が空いてしまいました(ご飯食べてる時間はあるのに、ブログはなかなか…)。
そんな中、今、読んでいる本で「書く衝動を逃さない」という見出しがあって思わず、ドキッとしました。
本を読みたいという衝動はときどき起こるが、ものを書きたいという衝動はめったにあるものではない。(中略)書いてみたいという気が起こったら、逃さないようにしなければならない。
(『こうやって、考える』外山滋比古)
ということで、久しぶりに書いてみます。あれ?毎日更新を目指していたんじゃ?というツッコミは無しで。
写真にあるものは、手話通訳士協会発行の「司法通訳の意義と通訳人の心得」。
手話通訳も含め、音声言語の通訳(英語、日本語など)を、裁判でどのように扱われているかについて専門家が話したものをまとめたブックレット。
日常生活とは程遠いと思われる司法・裁判の場で、もし、自分が発言した内容を全く違った意味で訳されてしまっていたら?
自分が思っていたのと、違う展開になってしまっていたら?
手話通訳の現場でも「私の話していること、ちゃんと伝わっているのかな」と思うことはあります。手話通訳者の技術に個人差はあるものの、通訳は密室の中で行うような部分があり、第三者からのフィードバックが得られないまま、経験だけが蓄積されやすいところがあります。
それが行き過ぎてしまうと、誤訳に対する意識が薄れてしまい、あたかも本人がそう言い切ったかのように展開されていく。手話通訳は特に、ろう者自身が日本語を耳から聞くことができないため、手話通訳者が訳した日本語を確認することが難しく(中には、読唇術をフル稼働してチェックする人も!)、手話通訳者もそのままやり過ごしてしまう。
スラングが多く、言葉遣いが上手でないろう者がいて、手話通訳者が読み取って音声日本語に訳すとき、聴者の反応が思ったより悪くなかったケースが実際にありました。その方は手話で、友達に吐き捨てるようなセリフだったにもかかわらず、手話通訳者が訳した日本語は「謙虚さがあり、丁寧に対応」という言い方になっていました。
汚れていた水を、きれいな水に変えた、という結果に。
しかし、このような訳し方は果たして正解なのかどうか。
それを問いかける内容も、ブックレットに書いてあります。
秋の夜長にぜひ。
スマホの仲間
先日に続いて東京での写真を一枚。季節を象徴するものが飾ってあり、秋を感じさせます。
出張や旅でホテルに泊まる時、「ああ、そういえば自宅にいるときは、あれがあったから便利だったんだ」と実感することがあります。
文字通り、iPhoneやiPadを立てて使うことができます。
片手が塞がることなく、両手が空いたまま画面を見ることができます(実は、ご飯食べながらiPadでニュースを見ることも)。他にも色々なスタンドがある中、これは小物入れやスマホの行き場がないとき、そのまま置いて使えるので便利です。
今年の春、紙面の新聞購読を停止し、iPadで見れるデジタル版を選んでみました。新聞が溜まってしまうストレスがなく、デジタル版は見たい記事を電子化、保存(もちろん、購読料はかかります)。それに加えて、上記のスタンドがあるので「見たいときに、読みたいときに、両手を使わなくても見れる」とメリットが大きかったです。
個人的には、メールが来たときにピカピカと光で知らせてくれるライトオンが便利だと思いつつも、iPadを置くにはちょっと小さいので、上記のスタンドとセットだったらいいなぁ。ということで、今日はここまで。
ちなみにこの「自立コム」、聴覚障害者向けの機器を取り扱っています。「来客を知らせるお知らせランプ」とか「起きる時の目覚まし時計」とか。
前より製品がスリムになってきました。
東京で立ち寄るところ
東京に用事があって行ってきました。たまたまトランプ大統領の来日と重なり、出発前は「だ、大丈夫かしら。警備とか厳しそう。途中で呼び止められて荷物を調べられるとか、そんなこともあるのかしら?」とそわそわ。
案の定、いつもに増して警察官があちこち。一日の間にこんなに大勢の警察官を見かけたのは初めてでした。だからか、いつもより人がそんなに多くなく、移動も割とスムーズにできました。
東京といえば、時間がある時に必ず立ち寄るのが「東京中央郵便局」。KITTEの中にあります(そういえば名古屋駅にも新しくできていたんですね)。
たかが郵便局、されど郵便局。
ここには必ず限定商品が置かれているので、お土産にも喜ばれます。ハガキ、クリアファイル、マスキングテープなどなど。切手の種類も豊富で、コレクションしたい方にはうってつけかも。
そして、ATMもたくさんあるので便利といえば便利です(今回は、ずっと保留していた振込用紙をようやく取り出して処理)。でもこれからは、インターネットバンキングも使えるのでどうなるやら。
久しぶりにゆっくり「東京時間」を過ごせました。都会はSuicaだけ持っていれば事済むくらいインフラが整っていて新鮮でした。
ちなみに、新潟〜東京の新幹線開通35周年により、11月のみ半額で行けますので東京行きにぜひ。
年は違えど語り合えることの楽しみ
誕生日迎えました。
今年は特に平成生まれの10代、20代と接する機会が多く、何気ない会話から世代の違いを感じることも。でもそれ以上に、言葉にはまだ(?)出してないけれど、考えていることはあるようです。
手話ができない分、まだ直に言えてない部分もあるようには思うけれど、LINEで話してみると質問が出てきたり、自分はこう思うけどどうですか?と確認されたりと良い刺激を受けています。
20歳になったばかりのとき「質問する前に自分で答えを用意してから聞いてこい」という先輩がいました。当時は、答えなんてまだ分からないのに何で?と思いながら、必死に先輩についていこう!という気持ちで対話させてもらっていました。
ところが私も最近、似たようなことを思うようになり。
分からないことを聞くことは大事。
百聞は一見にしかず。
でも、やみくもに聞けばいいってもんじゃなくて、何となく自分はそう思うけど、という部分が大事。
聞かれる立場としては、いきなり質問されるよりは、「こう思っていますが」と理解している部分を話してくれたら、答えやすい。もちろん、言葉にすることが苦手な人には一緒に紐研ぎながら、知りたいのはこういうこと?と確認しています。
年は上だけれど、経験もそれなりにしてきたけれど、学生さんたちと話してみると怖いもの知らずの勢いもエネルギーとしてすごく大事な力だったり、気付きもしなかった価値観に驚かされたり。ドキッとすることもあります。うふふ。
日々、学びながら進んでいきたいですね。
少し時間ができたので映画を久々に。『セックス・アンド・ザ・シティ』。
かなり楽しかったです。たぶん20代の頃に見てたらそこまで惹きつけられなかったかも。クリスマスの夜に何も予定がない!という方は是非。
日本語が分かるということ
今月はゲストスピーチが2本。パワーポイントを作るたびに過去に講義したことを振り返ってみる。
「あなたはどうして日本語が書けるのですか」
「どうして日本語が分かるのですか」
といった質問を受けるけれど、この訓練を行ったから身につけられた、と容易に答えるのもどうかなぁと自問自答。同じ集団行動をしても、個人差はあり、そのバラツキが微妙な違いだけに留まらないから。
もし日本語が分からないまま育っていたら、きっと世の中の情勢に全く関心を持たず、他者との関わりも持ちたくなかったかもしれない。
でもそれはそれで、アートを究めていたかも。
日本語が分からないまま、日本で生活していたら。時々、想像してみるけど、難しい。
去年、フランスの空港に降り立った時の衝撃さ(フランス語が全く読めず、英語表記もなかった)が旅行という非日常的なものではなく、日常生活の中にあったとしたら。
日本語が分かることは、日本で生活を送る上でどんなことをもたらすのだろう。
と考えてみるのも、良い機会ですね。
今日もごきげんよう。
漢字からくるイメージ
いきなりの写真ですみません。ハロウィン風のプリン。
焼き鳥屋さんで食べ終わった後、なんとなーく甘いものが食べたい!ということで注文してみたら、なんと手のひらサイズのプリンが。ごちそうさまでした。
10月も今日で終わり。今年は残り2ヶ月です。
10月に読んだ漫画といえば、こちら。
動物好きとも知られているロシアのプーチン氏の半生が描かれています。
ロシアといえば、ゴルバチョフ氏の印象がとても強い国(平成生まれの人にとっては、そうでもないかも?)。ところが、いつのまにかプーチン氏が登場して、現在も指揮をとっている。
漫画では、様々な人の聞き取りから丁寧に描かれていて、読む側も謎に包まれる感はあるものの、ロシアという国が身近に感じられる一冊でもあります。
彼の登場により、亡命の道を選んだという人も少なからずいるようで。
「亡命」という言葉、「ぼうめい」と読むのですが、意味がピンとこなくて覚えるが少しタイヘンでした。「他国に逃れる人」のことを指すはずなのに、「命が亡くなる」というイメージがありました。命が亡くなるのに、なぜ他国で生きている?と不思議に思いながら、日本語としての「亡命」の意味を理解していったのであります。
他にも、「朝飯前」というのがあり、覚えるのがタイヘンです。
「朝」「食べる」「前」=朝食の前、という意味として捉えてしまった人も。あながち間違いではないものの、もう一つの意味があることを知っている人はどのくらいでしょうか。
参考までに、朝飯前は、
・朝起きて、朝食をまだ取らないとき
・ご飯を先に食べる前に終われる易しいもの
という意味です。つまり「簡単すぎて」というニュアンスに近いかもしれません。
このように、漢字からくるイメージで解釈するものの、時々「え?なんでそういう意味になるの?」とちんぷんかん、の時もあります。
漢字ともっと上手に付き合いながら、今日も本を読むのでありました。
今日もごきげんよう。
やさしい日本語は、人にやさしい
とある駅で見かけた案内看板。
日本語の他に、英語、中国語、ハングルで書かれていることに慣れてきたこの頃、見慣れない言葉が。タイ語?
それにしても、一つの案内看板に、複数の言語があると安心ですね。フランスのとある地方に行った時は、空港でさえ、案内板がフランス語しか書いてなくて心細くなってしまいました(フランスに入っていきなり、英語がないことにパンチ食らった感じ)。
ところで、外国語といえば「やさしい日本語」がニュースとして各新聞に紹介されていました。
災害が起きた時、外国人が何に困るのかといえば、日本語の意味が分からないことが挙げられていました(もちろん、日本に長く住んでいて人脈や日本語もバッチリ!な人もいるので、言語の壁に困っている人とそうでない人に分かれます)。
今朝の記事によると、外国人にとって分かりにくい日本語として、安否確認、相続、余震、などが挙げられていました。
「安否確認」についての説明として、「生きているかどうか、怪我をしていないかを調べる」ということ。
「相続」は、死んだ人が遺したものを引き継ぐこと。
「消化」は、火を消すこと。
あらためて、日本語を掘り下げてみると「手話でわかりやすく伝えるための工夫」ができるようになります。これが上達のポイントです。聴者は母語である日本語をさらに噛み砕いて、言い換えてみるといいかもしれませんね。
ろう者の間には、日本語が不得手な人もいる中、今朝の記事紹介にあった「やさしい手話」の言い換えは、手話で伝え合う時にも大いに役立ちます。
やさしい日本語に置き換えて、手話で表してみると、今まで通じなかったことが通じるようになるかもしれません。そして、日頃のコミュニケーションについて振り返る良い機会になるかもしれません。
参考記事
今日もごきげんよう。
想像力を働かせるということ
とあるカフェへ。
ランチでもディナーでもない時間帯に入ったので、店内には私と友人の他、4名。このカフェは個室が一つあり、4名が入っていました(靴を脱いで入る個室なので、靴が4足置いてありました)。
友人から「そういえば、あの個室、静かなんだよね」。耳が聞こえない私は「え?静か?」とあまり気に留めることなく目の前のスイーツを美味しくいただいていました。
どうやら、妙な静けさが気になるようです。確かに個室はカーテンみたいなものがあるので、中が見えません。
「おかしいよ、もう少し話し声が聞こえたっていいはずなのにね」と友人。
「いや、もしかして、手話で話してるんじゃない?」と私。
果たして、中にいる4名はどういう人なのでしょう。しばらく私たちは気になりながらも雑談しながらスイーツを楽しみました。
あの個室、ろう者かなと少しばかり期待していましたが、残念。違っていました。
普通に、聞こえる人たち4名が個室から出てきました。普通に、声で話していました。
さっきの妙な静けさ、きっとおそらく、全員がスマホをいじっていたタイミングかもしれません。
それにしても、「もしかして、耳聞こえない人なんじゃない?」という想像は、一般的にどのくらいの人が思い浮かべるものなのでしょう。
店員が話しかけても反応のないお客さん、「もしかしたら耳が聞こえないかも」という想像ができる人はどのくらいいるのでしょう。
そして、想像ができる人の共通点としては、「過去に耳の聞こえない人に会ったことがある(見たことがある)」「手話を習ったことがある」。
そういう人が増えたら、きっと難聴者や中途失聴者にとって少しはホッとするかもしれません。話しかけられたことに気付けず、無視されたという誤解を招かずに済む。これがどれくらい、心理的にとてもラクになれることか。
私自身も、できるだけ接する相手がどういう人なのか、常に想像力も時にはフル稼働しながら対応してみよう、と思ったのでありました。
スイーツ、ごちそうさまでした。
見つめ合うのは恥ずかしい
という人もいますね。
そもそも見つめ合うことが苦手、難しいという人もいます。このムーミン達のように、程よい距離で見つめ合うならまだ大丈夫、という人も。
手話を使う人の間では「見つめ合う」ことは普通のことであり、それがないと会話が成り立たない言語でもあります(ただ、盲ろう者もいて、手を触って手話を通して会話をする人もいます)。
この「見つめ合う」は、もちろん話しながら、であるのが前提。
黙ったままの状態であれば、私でも「いや〜見つめないでおくれ〜」となります。
手話を習い始めた人の中には時々、目をそらして話すので何を話しているのか分からない時も。
でも手話で話しをしていると、無意識に「見つめ合いながら話すこと」に慣れてきているのが分かります。本人も「手話のおかげで、人の顔をしっかり見れるようになった」と効果を感じているようです。
おもしろいことに、見つめ合うことの先にある「視線」について、聴者の中には「見られている」ことになかなか気づきにくい人もいるみたいで。
ろう者が話しかけているにもかかわらず、「え?まさか、私を呼んで話していたの?」ということがしばしば。よく考えてみれば、確かに学校では、先生から声で名指しされることもあるし、名前を呼ばれて「あ、私のことね」と気づく場面が多く、むしろ、相手に見つめられて「あ、私?」という場面は少ないかもしれません。
また、手話の場合、同じ空間にいる以上、名前で呼ばれることは少ないような気がします。視線で追いかけて、その人と目があった瞬間、呼びかける。
相手も同時に「あ、私を呼んでる。何だろう」と気づけたら、会話が始まるはずだけれど、意外と気づきにくい人もいます(鈍感だから、って済ませてもいいかもしれませんが、見るという行為に慣れていないことに、ろう者が気づけたら会話はもっとスムーズにできるはず)。
以前、聴者がぼーっとしている時にろう者が話しかけてみたけれど、反応がなくて「なんだよ、無視しやがって」と怒りそうになった人がいました。その場で「いやいや、無視しているつもりはなくて、気づいてないからもう一度、呼びかけてみたら?」とやらせてみたところ、誤解は解けました。
見る、という行為を通して人との関わりを持つ。手話が持つ文化として外せない重要なもの。あらためて、意識してみると、なかなかおもしろいです。
それにしても、じっと見つめられたら、やっぱり恥ずかしい〜