同じMacだけど違う
ツイッターでつぶやきましたが、今度プレゼンすることになりMacパソコンを持って行こうと考えていたらHDMIケーブルに接続できないことが判明しました。
MacBookProならまだ可能性は残っていましたが、Airは進化しているのか、今持っているパソコンに適したケーブルがないようです。
同じ形のパソコンとはいえ、差込口があるかどうかよく確認しないといけないです(ああ、良かった。電気屋さんで購入しかけました)。何を当たり前なことを、と思われるかもしれませんが、同じシリーズでもモデルによって異なるのですね。
現在、持っているMacは2年前の製造モデルですが、HDMI対応のプロジェクターには使えないようです(使える方法があるかも知れませんが、直接、使えるものがないという意味で。もし何か方法があれば教えてください)。
プロジェクターといえば、HDMIだけに限らず他のケーブルもあるので、それに対応したものを買えばいいのですが、ケーブルが増えても何だかなぁ。なので、今回はiPadで対応することに。
同じMac且つまだ新しい、それでもちゃんと前もって調べて適したケーブルを買ったほうがいい、というのを学びました。
今日もごきげんよう。
話し方によって決まる
台風が上陸している中、選挙の結果報道にも奔走、とツイッター上でも何やら忙しい感じです。
今回の選挙といえば、期日前投票に行こうと何度思ったことか。タイミング良く出張先の近くに投票所があったので行こう、行こうと思っていたのに、行けませんでした(何故ならば、投票に必要なハガキを忘れたから)。
スマホのQRコードがあればハガキがなくても投票できますよ、だったら既に期日前投票して今日は一日中引きこもるつもりでした。でもそれはそれで、準備にかかるコストもあるので実際のところ、どうなんでしょう。
選挙といえば、昨日まで連日、候補者があちこち演説していました。いつも通り過ぎるたびに「むむう、何を言ってるのだろう」と思いました。耳聞こえないから、内容が分からない、ということです。新聞やSNS(今回はいつも以上にツイッターでよく情報が入った感じ)で、それぞれの掲げる政策について知ることはできるけれど、あの演説で話す熱意のこもった言葉を知ることができたらもっと、違っていたのかな、とも思います。
とはいえ、あの演説は、聴者はどのように耳に入っているのでしょうか。
「ああ、また言ってる」「ん?なんか目新しいこと言ってるな」「おお、頑張って!!」「難しい話だし、聞かなくてもいいか」・・・といったところでしょうかね。
人前で話をするとき、中身はもちろん大事。
その上で、人柄というか、話す人の語り方によって「この人を応援してみたい」と思うこともあるのではないでしょうか。それが、選挙の演説にも、そういうことはあるのかどうか、ふと気になりました。決め手になるもの、として。
ブログは熱いうちに打て
10年くらい前から読んでいる著者・和田裕美さん(世界でナンバーツーの営業ウーマン)が最近、メルマガで「書けるときに書かないと冷めちゃう!」というようなことが書いてあって、久しぶりに書きました。
毎日更新する!と言っていたのにペースが下がっちゃって。言い訳にしたくないけれど、日中ずっとフル稼働しているとどうしても「今日はまぁいいか」となってしまって、それが続くと、塵も積もれば山・・・
書けるときに書くって、それが継続できる人は本当にすごいです。尊敬します。
さて、最近おもしろい質問がありました。
耳の聞こえない私に「口の形で、読み取りやすい人とそうでない人がいるみたいだけど、どんな風に違うの?」。
耳が聞こえなく、相手の声がほとんど聞こえない場合、口の形を読み取る(いわゆる、読唇術という)作業を行います。この作業、イメージができない人は今すぐ、目の前にあるテレビやYouTubeで消音モードに切り替えてみて。
あるいは、家族に「口パクで何か言ってみて」と頼んでみて。
ほーら、読み取れたじゃん。なんだ、読唇術って意外と簡単だったのね。と思った人はおそらく、耳が聞こえないのでは?(冗談)
5分間ずっと口の形を読み取ってみると色々な発見があるかもしれません。まぁ、歯型が気になるっていう人もいますが、聞こえない私から見れば「それどころじゃない!」となります。口から出てくる情報が、大事なのかどうかを判断しなければこの世の中生きていけませぬ〜
男性と女性の違いはあるものの、口の形が分かりやすい人の共通点は「日頃からのコミュニケーションを丁寧にできている」「身近に聞こえない人がいる」「外国人との会話も不自由なく伝えられている」「考えていることを言葉にできる」「リアクションが大きい」のいずれかに当てはまり、他にも共通点はいくつかあると思います。
自分の口の形、どんな感じでしょう。スマホでなく、たまには鏡で向き合ってみるとおもしろいかも。
社会の制度を知るための漫画
外国人に話しかけられたら
電車や新幹線で移動していると「あの、◯◯はどこかしら?」「この電車、◯◯に行く?」と話しかけられます。
話しかけやすいように見えるのかな、と思うけれど、「すみません、耳聞こえないのですが」と答えるとたいていは、「あっ、そうですか。すみません」とそそくさと立ち去ってしまいます。
頑張って口の形を読んだりしても結果的に、間違って答えを教えてしまうと責任持てないので、「耳聞こえません」と断りを入れて、紙に書いてもらえたら…と思っています。が、紙に書く前に立ち去られてしまうことが多いです。
先日、出張先に向かう新幹線を待っていたら旅行者らしき外国人がホームでウロウロ。切符を片手に、列に並んでいた日本人に何かを聞いていました。おそらく英語なのでしょう、日本人はすかさず「はい」か「分かりません」のどちらかで答えた後、目をそらしていました。
外国人は困ったような困ってないような表情で別のところへ移動していきました。
結果的に、もしかしたらその日本人の回答によって正しく電車に乗れたかもしれません。でも、何だか気になってしまいました。
私もその後すぐに来た新幹線に乗らなければならなかったので、外国人が無事、旅行できたかは分かりません。
気になったのはどうしてなのか。
その日本人の態度、に妙な引っ掛かりを覚えたからかも。
正しい答えを出したかもしれないけれど、その先に「通じたかどうか」の確認作業が無かったから。
そもそも、その確認作業は必要ないといえば必要ない。通じていれば良いので。
でも、聞こえない立場にとって、この確認作業は初対面であればあるほど、重要な情報であればあるほど、必要な作業です。
次のアクションを起こすための情報を、間違って受けてしまったら?
今の答えを、果たして私が理解した答えと一致しているか?
そういった確認作業を、特に聴こえる相手と行なっているのでどうしても態度が気になってしまったのかもしれません。
もしかしたら、外国人にとっては気に留めていないし、日本人との間で、見えない形(声によるコンタクト)があったかもしれません。
小さな出来事とはいえ、人のふり見て我がふり直せならぬ、人のふり見て我がふり見つめる、でした。
今日もごきげんよう。
どうやって声を出していますか
聞こえる人から時々、こういった質問があります。
「声、聞こえますか?」
声を出す。
普段、会話をしている人にとって声を出すことは当たり前の作業。
それが、耳が聞こえないとなると、自分の声が聞こえなくなってしまい、どうしようもない不安になるとか。
確かに私自身、耳が聞こえないので声を出して話すこと自体どうしても不思議に映るようです。
声を出す。
ろう者、難聴者の中で声を出すことは特別なことではなく、普通に行われる作業の一つに過ぎないけれど、自分の声が聞こえないことについて、もしかしたら聴者との違いはあるかもしれません。
聴力に個人差があるため、一概には言えないのですが、私の場合は自分で話をするときに、耳で確認することは物理的に全くできない状態(補聴器があっても、雑音と一緒に聞こえてしまう)。
自分の声が聞こえないのにどうして声を出すのか、出せるのか。
発音の明瞭度は、相手の聴力や話すときの環境(静かなところか、そうでないか)によるため、判断が難しいところ。
感覚的にいえば、私の発音はおそらく、相手が「慣れれば分かる」程度。
声を出す作業は、幼い時からの訓練で身についたものであり、いわゆる「口話教育」というもの。ろう者、難聴者の多くは声を発する方法を体感的に覚えていきます(ただ、社会人になった後に口話を必要とすることができなくなってしまったために声を出すことを自らやめてしまうケースもあり)。
発音の明瞭度はともかく、声を出して且つ発音を使い分けて話す、という作業は、聴者が思っている以上に難しい作業です。それを幼いときに訓練させられているため、難しいという認識はなく、自然に声で喋る、というのが当たり前になっていく感じです。
声帯が震えるのを体で感じ、声を出していることを確認。
そして、口の形(舌の動きも含める)を体で感じ、発音を使い分けていることを確認。
二つの作業を同時に行なっています。
それに加えて、声のボリュームを調整していますが、これもなかなか難しい作業です。聴者の反応を見て、調整することはしょっちゅうです。
聴者の皆さんは、どうやって声を出しているのでしょう。
ろう者、難聴者の皆さんは、どうやって発音を調整しているのでしょう。
とても興味のあるテーマです。
君のことしか考えられない。
手話レッスンに行ってきました。
プレゼンやスピーチ向けのレッスンは、どちらかというと、日本語がベースになりやすいです(本番まで練習時間が足りないのもあるけれど、母語で伝えたい内容をまとめてからでないと難しいので)。
何かを発表するとき、改まった姿勢で聴衆に伝えることが得意な人もいれば、どのように伝えたらいいか分からない人もいます。
日本語(母語)で書かれている原稿を読んでいると、本人たちの伝えたい内容が分かる一方、手話に置き換えてみると一工夫を要するものが多いです。
例えば、「君のことしか考えられない」。
日本語ならキュンとくる言葉。
しかし、手話にそのまま置き換えると「君のことは考えてない」に。日本語が分かる立場で見れば、手話を見ても日本語のベースで解釈するので問題はないけれど、手話ベースで見ると「うわ、そう言われたら凹みそう」。
手話(単語の順)
君 だけ 考える できない
極端な例ですが、手話の単語をそのまま日本語に当てはめると意味が正反対になってしまうことがあります。
もっと細かく言えば、手話は単に単語を並べるだけではなく、顔の動きも含まれることによってニュアンスはもちろん、否定文だったり肯定文だったりと表せます。
そういった部分も含めて、言語を学ぶことはかなり時間のかかること。
もう少し時間をかけて丁寧に取り組みたいところだけど、外国語スピーチコンテストの中に手話も含まれるようになり、言語としてコンテストが開かれることはとても意義のあること。
なので、今日のレッスンが少しでも学生さんたちにとって成長の一歩になれたら。
そして、君のことを考えている、というメッセージを大切な人に贈れますように。
今日もごきげんよう。
電話は未知の世界
先日、電車に乗っていたら、駅と駅の間が不通(平成23年あたりから)になっており、タクシーを呼ばないといけないという事態がありました。
タクシーを呼ぶためには電話が必要で、待っているだけでは本当に来ないという田舎。
普通ならその場でスマホから電話をかけて、タクシーを呼んで、というふうにスムーズにいきます。
今回は同行メンバーが全員、耳が聞こえないので駅員さんに頼んでみました。
「ウチはそんなの、できまへん」。
仕事の範囲を超えているからなのか、理由は分からないけれど断られました。
他に人がいないか探してみたものの、ここは田舎。誰もおりませんでした。
交番を探してみたら、3km離れているところにあるという。
そんな状況の中、久しぶりに使いました。電話リレーサービス。
スカイプのアプリを使って、タクシーを呼ぶ用件を通訳オペレーターに連絡します。
そこからタクシー会社に伝えてもらい、やりとりを行うというサービス。
チャット形式だけでなく、今はLINEでも対応可とのこと。使ったことがあるユーザーは分かるのですが、非常に助かるツールです。
今時、電話が必要な場面ってそう多くないものの、どうしても今すぐに電話しなければならないという事態が起こった時に、こういうサービスがあって本当に助けられました。便利で素晴らしいサービス。
でも、一つだけ課題が。聴者から、ろう者・難聴者に電話したい時に電話をかけることができないシステムになっています。通訳オペレーターと繋がったとしても、通訳オペレーターがろう者に電話するときの場面、対応ができないようです。この課題解決に向けて取り組みが以前、あると伺っていましたが最近はどうなっているのか気がかり。
さて、電話リレーサービスを使った結果、タクシーは本当に来れたでしょうか。
はい、見事に来れました。タクシーを見ただけでもう安心しきってしまい、行き先を尋ねられたとき一瞬答えられませんでした。
それにしても、電話はろう者にとって未知の世界に映ります。声を出すだけで伝わるのか?と不思議に見えます。
近年はスマホの進化が激しく、メールだけの機能ではもの足りない。スマホでなんでもできちゃう時代だけれど、電話はまだまだ圧倒的な存在感を示しています。
電話ができることが当たり前の環境にいる中、私にとっての電話は「当たり前ではなく、不思議な存在」に映っています。電話が必要だと思った場面が多い中、私の場合は耳から入ってくる音に気付くことができないので使いようがありません。
ろう者側から電話できるだけでもかなりの進展。次は、向こうからかかってくる電話が取れるようになること、電話リレーサービスの改善を祈っています。
タッチ感よりも中身
急に寒くなってきました(月末とはいえ、まだ9月)。秋の夜長に漫画を読んでみました。
昨日久しぶりに読んだ「淋しいのはアンタだけじゃない」。
漫画を読むとき、絵が気に入って買う人もいればあまりこだわらない人もいると思いますが、私の場合はどうしてもタッチ感が気になったらあまり買わない。でも、今回は絵の描き方(タッチ感)よりも、中身が重要だったので1巻、2巻と購入しました。
2巻の方がより、聴覚障害について病理的かつ生物的に研究されているように感じました。当事者の私でさえ、中途失聴者が悩みがちな「自分の声が聞こえない」ことについて、何も感じないと言ったら嘘になるかもしれない。自分の声が聞こえない、それが当たり前のまま過ごしているので、今回の漫画はとても良い内容が含まれていると実感。
漫画家は聴者、聞こえる側。にもかかわらず、専門家に取材したり当事者の話に耳を傾けたりと渾身の一冊になっています。
ぜひ、読書の秋にオススメです。
下手だったら下手のままになっちゃう
ここ数日、新しい仕事も入って一日の時間があっという間に過ぎています。
外に出る時間が増えて、夕暮れの時間になると夏の終わりを実感。なんだか切ないような。センチメンタル。
久しぶりに知人に会い、なぜか仕事の話になりました。
一緒に働いている人が「私、頭悪いからムリ、ムリ」が口癖のようで、知人は困っていました。「つべこべ言わずにさっさと取り掛かってくれ」と言いたいところを我慢しているとのこと。ああ、大変ですね、これは。
そういえば、似たようなケースが手話の世界にもありました。
手話通訳者の中にもそういうタイプの人がいて「手話下手だからごめんなさいね」とろう者に伝えている人がいます。
ろう者のほとんどは「そうですよね」と同意はせず、「いえいえ、そんなことないですよ」とやんわりと否定し、励ますつもりで答えていると思います(というより、そういう対応の仕方しか見たことがない私。「そうじゃ、君は下手じゃ」とストレートに言う人は稀かもしれない)。
手話通訳がなかったら困るのは、ろう者本人。それを一番、本人が分かっているから、できるだけ通訳してもらえるよう、下手なことを言わないようにすることもあります(そこまで考えているかどうかは別として、生きていくためのスキルとして染みついている)。また、日本人である以上、極端な言い方を好ましく思わない風潮があることを理解し、敢えて言わないまま、というケースもあります。
そこで通訳者はなぜ、そこまでして予防線を張っているのでしょう。
「そうじゃ、君は下手じゃ」と言われる可能性は低いはずなのに、やはり嫌なことを突っつかれたくない、のが人間の本能ということでしょうか。
「手話が下手だからごめんなさい」ではなく、「手話、まだ勉強中なので下手かもしれないけれど頑張ります!」の方が、私は応援したくなるし、頼もしい!と思うのだけれど。
下手と思ったら本当に下手のままになっちゃうし、無理と思ったら本当に無理になってしまう。必要以上に、予防線を張らないで勇敢にチャレンジしていくプロ意識がもう少しあれば、ろう者も通訳者を敬い、社会資源として様々な方向へ活用していくことができるのでは(面接会や講演会だけに限らず、セミナーやイベントでも手話通訳をつけることができる機会)。
久しぶりに手話通訳について考えてみました(普段は、仕事上、スタッフと同行して通訳を使うこともあれば、パソコンの文字通訳みたいな形で打ち合わせています)。
今日もごきげんよう。