うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

情報の価値は自分が決める

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世の中は3連休。今日は敬老の日。「今日は何の日でしょう?」と学生時代にあれほど言われていたにもかかわらず、カレンダーを見ておかないとちょっと自信がないワタクシ(今日はちゃっかりスマホで検索)。

 

 

先日、地元では有名なお蕎麦屋さんがリニューアルオープンしたというので足を運んでみました。市街から離れているところとはいえ、新幹線が停まる駅から徒歩10分以内で行けました。綺麗な外観に、和風でおしゃれな看板が目印です。

案の定、行列ができていました。

 

店内に入り、リストを見ると5組が待機中。私たちは6組目になるということ。

しかし、友人が次の電車に乗らないといけないため、間に合うかどうか。行列の横で「どうする?今回はやめようか」という会話をしていたら、行列にいたおじさんが「君たち、蕎麦が好きなんだね?」と声をかけてきました。

 

正確には、手話で話しかけてきました(実際に声も出ていたか、ワタクシ耳が聞こえないので分かりません)。

あまりにも自然体で話しかけてきたので思わず「あ、はい。左様です(んなこと言ってない)」。

 

おじさんは流暢な手話で「それなら、駅の裏口にもう一店美味しいところがあってね、行ってみたらどうじゃ」。

「駅の裏?歩いて近いんですかね」「うむ、そうじゃ、5分もないかな」。

 

店名を聞いてからお礼を伝えて、私たちは移動。案の定(2回目!)、そのお店も混んでいました。

おじさんからの情報は、普遍的な情報だけれど、耳が聞こえないワタクシにとって価値のあるものでした。なぜなら、行きたかったお店に入ることができなくて次の選択肢を考えようとしたタイミングで情報が入ってきたから。

耳が聞こえていれば、聞き耳を立てて「ん?どうやら、他にも美味しそうなところがあるようだ」と何となく情報を得ることができてしまう。それが、耳が聞こえないとなると、情報が自然に入る、ということが難しくなってしまう。

 

おじさんの情報が、私たちの町歩きに付加価値をもたらしたようなものです。

手話で話しかけられたので尚更、価値のある情報に。

「なんだ、蕎麦が好きかって?んなこと知るか」と懐疑的になる人もいますが、「おお、ありがとうございます!」と喜んで受け止めた方が自分にとっても町の魅力に触れる良い機会になります。その情報に価値を感じるかどうかは自分次第。

 

ところで、その日の帰り道で、おじさんは聴者か難聴者(少し聞こえる人)のどちらかかなと友人たちと話していました。

外見上、耳が聞こえるかどうかは一見分からないものですが、見知らない私たちに声をかけ、お店の情報を教えてくれている姿を見ると、聴者もしくは難聴者の可能性が。

 

ろう者の場合、「あ、手話使っている!誰だろう。君、誰?」「どこの学校出たの?」という質問から始まるケースが多いような気がします。

 

全員が必ずしもそうだとは限らないけれど、あらためて比較してみるとおもしろいですね。

 

今日もごきげんよう

 

生きる術は知らないうちに

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「相手が戸惑っていると、ついフォローしてしまう」。

 

ろう者の友人と話していたら「やっぱり、初対面で相手が戸惑っているのを見るとどうしても、具体的なアクションについて助言してしまうよね」。

 

お店で買い物をする時、何かを注文する時、耳が聞こえないことが分かると「え?」と戸惑いの表情を見せる人とそうでない人に分かれます。外見上、あまり気付かれないので口の形が読み取れてしまえば、向こうも終始「いつも通り」の状況になります。

まさか、さっき対応していたお客様、耳が聞こえないなんて!ということもあります。

 

聴者(耳が聞こえる人)が戸惑った時、「あ、大丈夫ですよ。紙に書いてください」「あ、大丈夫です。ゆっくり話して」「あ、大丈夫。スマホに打ち込んで」とろう者の方がフォローする。

こちらが聞こえないことを察して(知って)、「書きますね」「手話分かりますか」と向こうからアプローチを変えてくることもあります。でもそういう人はそう多くなく、大抵は「あ…どうしよう」という空気が一瞬、醸し出てきます。

 

ろう者が口の形が読み取れてその場を何事もなかったかのように対応できてしまうと、聴者にとっては「まさか!耳が聞こえないなんて」ということになります。かといって、ろう者たちがわざわざ「紙に書いてください」とか、「スマホに打ち込んでください」と申し出なければいけないわけではなく、何も申し出ることなく聴者が気付かないうちにスムーズに対応できていたこと自体が不思議に見えてきませんか。

 

聴者からアプローチを切り替えてくるたびに「おお!」と感動するのは、やはり日頃の生活の中で戸惑ってしまう姿を多く見てきているからかもしれません。

 

なので、どうしても「紙に書いてください」「スマホに打ち込んで」といった具体的なアクションについて助言をする。これは誰かに教わったというよりも、聞こえなくて困るのは自分なのでそういう行動を取らざるを得なくなる。

 

生きていくために必要な術。困ることを無意識のうちに知ってしまったから。

 

仮にこの世の中を生きるマジョリティ(多数派、聴者)が、マイノリティ(少数派)になったとしたら?

 

以前、YouTubeで街の人々が手話を使って話す人ばかりで、手話ができない人がポツンと彷徨った動画がありました。

街に出てみると、道行く人が全員がASL(アメリカ手話)を使っていて、一人の聴者が「Excuse me」と声で話しかけても街の人々は「What's?(なんだって)」と手話で答える。聴者は他の人に話しかけてみるものの、他の人も手話で答える。それで困ってしまう、というような内容。

 

現実的にはありえない話だけれど、逆のバージョンは現実的に起きています。それも毎日。

 

聞こえなくて困るのは自分、ということを無意識のうちに知っているから、生きる術として「書いてください」「口を見ればなんとなく分かります」となります。(ほんとは、口の形だけでは断片的な情報しか得られないけれど、口の形を見れば分かります!と胸を張って言える人もいるので誤解されやすいかもしれません)。

 

相手の「戸惑い」がやがて「自然体」に変化していって初めて、やっと対等に話ができる!この喜びは、聞こえない人なら誰でも感じたことがある感情です。

 

フォローされたらフォローしつつ、お互いにその場を気持ちよく過ごせたらいいですね。

今日もごきげんよう

 

パーツを組み合わせてみると

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アメリカで今月末に公開される「Kingsman」、SNSで予告編がかなりたくさんアップされています。

しかも、それぞれシーンが違うので「あ、こんなシーンもあるんだ」と発見の連日。「もう本編を見なくてもいいんじゃないの」とからかわれるくらい、ここ数日は予告編をよく見ます(日本語バージョンは2つか3つくらいしかない)。

この作品は2本目で、1本目は去年公開。スパイアクションの映画とはいえ、人間味あふれるストーリー。

kingsman-movie.jp

 

世界各地で年内公開される中、日本は何故か来年1月(日本語字幕、日本語による吹替作業もあるから?)。

それまで待てない!海外へ観に行く!というツイートも。

 

海外だと日本語字幕もないし、吹き替えもないのは承知の上で「アクションシーンもあるし、なんとかなるでしょ」というのだから、世の中はすごいものです。飛行機のLCCもあるので、日本じゃ遅いから海外で、ということも容易く実現できるものなんですね。

 

ところで、海外の映画館ってどんな感じ?とググってみると…

matome.naver.jp

 

寝転がって観れるなんて最高ではないですか。リラックスして観れるなら、そうしたい。

でも個人的には、寝転がって字幕を読むのはちょっと落ち着かないかも。

 

よく考えてみれば海外旅行の経験はあっても、海外の映画館で映画を見る、という日常的な体験をする機会はほとんどなかったです。北欧旅行で1泊の大型フェリーに乗った時、確か映画館があったようななかったような。

でもやはり「なんでわざわざ海外に行ってまで映画を?」というのがあったので、そういう選択肢はもともと入れていませんでした。

 

映画チケットの買い方、入場する方法、映画の始まり方と終わり方もどんな感じなのか、今となってはすごく興味が湧いてきます。湧いてきませんか。

 

ところで、なんで映画の話を書いたのか。予告編をいくつか見ると、本編を見たときに「ああ、あの場面はこういうことだったのか」と点と点が結びついて線になります。これって、人と接する時も同じことが言えるんじゃないかな、と。

 

普段、何気なく関わっている人でも、いろんな場面によって態度が違ってたり、見たことがない表情を見せたりと。毎回会うたびに、接するたびに性格や好みというものはある程度把握できます。

 

そういった小さなパーツを日々積み重ねていて、やがてある時に「ああ、こういうことだったのか」と分かってくることがあります。

「どういうこと?」と理解ができなくても、後になってみれば「ああ、もしかしたらそういうことだったのか」と全体像が見えて落ち着ける。心の持ちようによっては、やたらと振り回されることなく臨めることもあり。

 

人と接していて、分からなくなってしまったり理解できない場面に遭遇した時は「今はまだパーツを拾っている最中」「分からないこともあって当たり前であって、これからもいろいろなパーツを拾いながら、知っていけばいい」というようなことを考えていけば、少しは気疲れしないかも。

 

それにしても日本公開が待ち遠しいです。

 

今日もごきげんよう

 

(写真)新潟県越後湯沢にて。英語で書かれてて不思議な雰囲気。

 

 

ポジティブな休み

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「職場で休みを取ると何か引け目を感じちゃう」。

 

職場で有給休暇を取る時、「すみません、明日はお休みをいただきます」と一言伝える場面を見かけます。できるだけ有給休暇を取ってもらうよう働きかけているので、他のところはどうなのだろうとちょっと調べてみたら、中小企業の有給取得率は40%台。

 

従業員の規模が大きければ大きいほど取得率はアップしていました。

逆に言えば、従業員が少ないところでは有給取得率が低く、休みにくい職場が多いようです。

 

参考資料(厚生労働省

http://www.mhlw.go.jp/toukei/itiran/roudou/jikan/syurou/15/dl/gaikyou.pdf

 

私の職場は小規模とはいえ、有給休暇は大事なものと考えていてほぼ毎月、職員が取得しています。「あと何日ですかね、しばらくは控えます」というくらい、上限に近い状態になることも。

 

有給休暇も含めて、休むことについて。

管理職の立場から言うと「休むのは構わないし、むしろ有給休暇をしっかり取ってほしい。その代わり、別の担当者にしっかり引き継いで対応してほしい」と話します。

 

ところが、休むことについて罪悪感を持っているからか、「本当にすみません」と謝ってばかりしています。

謝る気持ちも大事だけれど、休むことについてポジティブに捉えて「この日は休みなので、これとあれ、お願いしますね」といったコミュニケーションが取れるようにしたいところ。

「すみません、申し訳ございません。明日はよろしくお願いします」か、「すみません。A案件はここまで進めましたので、明日はこれとこれをやっていただけると助かります。B案件は明後日でも大丈夫ですので、明日は手をつけないで、Aだけをお願いします」のどちらが良いかは一目瞭然。

 

人間、休んだって問題なし。

問題なのは、休む時に響くもの。それを想定せずに、謝って休むだけでは時代遅れになってしまいます。

前向きに休んで、且つ他の人にしっかり頼むこと。それを徹底するだけでも、取得率はアップするのでは?

 

と、いろいろ考えることがありました。

 

今日もごきげんよう

運良く助けられて

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昼間の暑さはともかく、朝夕がめっきり涼しくなってきたこの頃。

県外出身の友人から「せっかくだから片貝まつり行かない?」とお誘いが。9月とはいえ、花火大会が行われるお祭りです。

 

新潟市在住の人たちに聞いてみると、花火といえば長岡花火(日本三大花火大会の一つ)は行ったことがあるけれど、片貝は行ったことがないという人も。ちょっとマイナーなイメージがある片貝まつり。

新潟県小千谷市長岡市の隣)にあり、人口5,000名の町に世界一大きな花火(四尺玉)が打ち上げられるという、片貝まつりが毎年9月に行われています。

katakaimachi-enkakyokai.info

 

花火大会はあまり積極的に行く方ではなかったので(混雑しているところが苦手)、今回は友人に誘われたのと予定が入っていなかったというタイミングが合って「それなら行ってみるか〜」という感じで行ってみました。

 

町中全体で取り組んでいることがうかがえるくらい、花火が打ち上げられる浅原神社周辺の家には提灯が掲げられていました。写真撮りたかったのですが、人様の家なのでそこは遠慮。

 

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予想はしていたけれど、やはり人、人、人…混雑していました。

真夏日だったらきっと倒れていたかも。そして、ビールが恋しくなるくらい、夏の風物詩があちこち。冷きゅうり、浴衣、うちわ、焼きそば(いや、これは通年)など、お祭りムードを味わいながら散策。

 

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日が落ちた頃にドーン!!花火が打ち上げられました。

今回は近くで見たので、音の響き方が早かった感じ(今まではちょっと離れたところから見ることが多かったので、花火が上がったあと数秒後に、体に響いていた)。体で感じる音を楽しみながら写真撮ってみました。

 

そこまでは良かったのですが、花火大会が終わった後がタイヘンなことに。

当たり前といえば当たり前ですが、帰るときは全員同じ方向に帰るわけで、大大大行列。シャトルバスで帰りたかった私たちは、時計を見ながら急いでいたものの、途中で警備員が何かを話しながら見物客を誘導し、まっすぐに続く道に2列になるのが見えました。

 

右側が大大行列のままで全然動く気配なし。左側が空いていたので、シャトルバス乗り場に向かって歩いてみました。ところが、この2列の意味が分かったのは乗り場に着いてから。

右側は、シャトルバスに乗る人のための列。

左側は、バスに乗らず、遠く離れている駐車場に向かう列。

 

警備員が何かを話している時点で「何ですか?」と聞けば良かったのに、ここでは「聞こえないから何言ってるか教えて」と頼むのが面倒くさい(警備員も忙しそうにしているし、混雑している状況で真っ暗闇の中で会話するのはちょっとタイヘン)と思ってしまいました。

 

私たちが停めた駐車場は歩いて1時間はかかるんじゃない?という距離。はてさて、困ったものじゃ。シャトルバスの列に割り込むにはちょっと厳しそう。

 

ということで、乗り場の近くに「ハイヤー常駐」という情報があったので行ってみました。ハイヤーというのはタクシーですが、そこに行ってみるとタクシーが一台もない。

ハイヤーって電話して呼ばないといけないんですね。

 

友人が「あのう、耳聞こえないんで、、、」と近くの警備員に話してみたものの、電話してくれる気配がない。はてさて…と困っていたら「1台呼べばいいのね?私たちも呼ぶところだから電話しておくわ」と若い女性陣が友人に話しかけていました。

咄嗟に私たちは「ありがとうございます!」とお礼。

 

道もだんだん、車とシャトルバスでだんだん混んできてタクシーが本当に来るのかどうかちょっと不安になりながらも、他の見物客と待機。シャトルバスに乗る行列もなかなか動かないし、田んぼと山に囲まれた地域なので真っ暗。

高速道路も混んでそうだなぁと待ち時間がとても長く感じられ…そこでタクシーが1台やってきました。当然、電話してくれた女性陣が先に乗り、私たちは後から来るタクシーに乗るものと思っていたら「お先にどうぞ、乗ってて」と。

 

いやいや、呼んでくださっただけでもありがたいので…と断ろうとしたら「大丈夫、乗ってて」という感じでした。他の見物客もいたので急いで乗り込んで私たちは移動。

お名前も聞けず、ちゃんとしたお礼も言えず。

 

シャトルバスに乗りそびれた上、電話ができなくて困った…でも私たちは旅慣れている者同士なので結局は何とかなると思うけれど、それでも咄嗟に「電話しますね」と頼んでもいないのに、様子を見かねて声をかけてくださったあの方々に助けられた感じがしました。本当にありがたいことです。

 

運良く、そのあとはスムーズに渋滞にハマることもなく帰れました。世界一の花火もすごかったけれど、こういう小さな出来事のほうが、私の中でずっと「すごいなぁ」と彼女たちに対して尊敬の念を抱かずにはいられませんでした。

 

今日もごきげんよう

忘れものほど大切なものはない

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朝、車を走らせていると道路脇に中学生らしき学生が一生懸命走っていた。

確か、あの子は毎朝学校まで歩いている。でも今日はなぜか逆方向へ。

きっと忘れものでもしたのかな。

 

忘れもの。

人は誰でも「あ!しまった、なんてこった!」と思うことがある。引き返して取りに行くこともあれば、絶望的になりながら目的地に向かうことも。

 

カバンを新しく変えたり、たまたま置く場所を変えていたり、いつも忘れていたり…と人によって忘れ方は異なるけれど、忘れものをした出来事はなぜか案外、覚えている。

 

私にとってその一つが「補聴器を忘れたこと」。

耳が聞こえない人が通う聾学校に、私は通っていて、きまって毎朝チェックされるものがあった。

ハンカチ、鼻紙(今はティッシュというカッコいい言い方)、教科書だけでは不十分。

補聴器、というものがとても大事。ハンカチは忘れても、補聴器となると先生のお怒りモードが。補聴器なんて耳につけていても、ほんとに聞こえない。

正確には、聞こえるけれど雑音と人の声が全く同じに聞こえてしまって、聞き分けることが全然できないので、困ったもんだ。そんなわけで補聴器をつけても、あまり意味がない状態だった。

 

にもかかわらず、補聴器だけはしっかり忘れないように!と意識していたせいか、忘れたことは数回程度だった。先生に怒られるのが嫌だったからかも。

補聴器って、夏になるとタイヘン。暑くて、耳の中が気だるい状態に。もう補聴器を外したくて仕方ないしかたない。

それでも、補聴器は毎日身につけていた。ハンカチよりももっと身近な存在の「補聴器」。

 

地域の小学校へ交流に出かけた時に「え?持ち物リストに、補聴器がない!」と衝撃を受けたものだ。当たり前といえば当たり前だけれど、子供心ながらに「何で補聴器がない?」と思わず反応してしまった。

 

忘れもの。

忘れものは、大事に思っているからこそ気づくものであり、そうでなければ、忘れたことすら忘れてしまう。

 

それは思い出も同じ。

昔付き合っていた人や疎遠になってしまった人を今でも思い出せるとしたら、きっと大事に思っている証し。そうでなければ、もう忘れてしまっていることに気づくこともない。

 

「しまった、なんてこった!」というのは、大切に思っている証し。

時には、忘れものしたっていいんじゃない?

人間だもの。

 

 (写真)新潟といえば…朱鷺。とき。

 

 

 

だから言葉はおもしろい

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「手話はいろいろな表現があって難しいんですよね」

「地域によって手話が違うから覚えられないです」

「人によってクセがあるので読み取れません」

・・・

 

ネガティブなコメントばかり。手話ってそんなにネガティブな言語なの?

 

「日本語はいろいろな表現があって難しいんですよね」

「地域によって日本語が違うから覚えられないです」

「人によってクセがあるので聞き取れません」

・・・

 

なんか違和感ない?特に2番目のコメント。

地域によって日本語が違う?そんな言い方はあまり聞かないような。

 

「英語はいろいろな表現があって難しいんですよね」

「地域によって英語が違うから覚えられないです」

「人によってクセがあるので・・・」

 

やはり2番目のコメントが気になりますね。だいたい、英語を始めたばかりの人にとって「アメリカ全土に通じる英語を覚えなきゃ!」とまでは思っていないはず。

 

でも手話になると、なぜか欲張りになっていませんか。

 

日本語も英語も地域によって話されている言葉が違うけれど、あまり気にならない?

覚えなくても別に困ることはない、これは手話にも同じことが言えるんじゃないかな。

 

「手話もいろいろな表現があるのね」

「地域によって表し方が違うのね」

「人によってクセがあるけれど、おもしろいね」

 

そうおっしゃる学習者もいます。今まで手話を教えてきた中で「だから言葉はおもしろい!」と前向きに捉える人は多くないような気がします。

前向きな人の共通点として、

  • いくつかの言語に触れていること(英語、韓国語など)
  • 好奇心が強い(だから言葉はおもしろい!って思えている)
  • 相手の話に耳を傾けられるほど感受性が豊か

あくまでも私個人の勝手な見方ですが、好奇心は特に大事。

 

手話はいろいろな表現があって困ると言われがちですが、英語だって「見る」の単語がlookとwatch、というのは中学生レベル(今は小学生!?)でも知っていること。日本語も「感じる」「感じ取る」といった似ている語彙があるし、手話も「話す」の中にいくつかの表し方があります。

 

あくまでも言語学習として「今日はこういう表現を学ぶ」と割り切っていけば、積み重ねがやがて実を結ぶことになり、言葉の魅力をさらに感じることができます。なので、肩肘張らずに楽しんでいけたらいいんじゃないかな。

 

今日もごきげんよう

 

(フランスのとある街で見たニュース)

 

 

閉ざされた世界での小競り合い

耳が聞こえない人は国内で約35万人、中でも手話を使う人は1割くらいと言われています。いわゆるマイノリティ(少数派)と呼ばれています。当の本人たちは「マイノリティ?なんぞや?」と普段あまり気にならない、気になったことがない人もいます。

 

手話を使うと、一般社会では珍しい存在に映るのか、「なんとなく私達とは違うなぁ」という目で見られることもあります(これでもひと昔と比べたら、だいぶ変わってきた)。「言語が違うなんて珍しい」と反応してしまうのは日本人だからかもしれません。

 

去年、ニューヨークで「I'm Deaf」と自己紹介し、「道が分からないの。教えて」と通りすがりの人たちに聞いた時の反応がほとんど「OK!」だったことに驚き。

異なる言語を持つ人たちが入り混じっている街だからなのか、「Deaf」という言葉に対して嫌悪感を示す人が一人もいなかった(地域によるかもしれないし、たまたま出会った人が良い人たちばかりだったかもしれない)。友人の行動を真似て、ニューヨークの空港で「I'm Deaf」と前置きし、用件を伝えたらすんなりと案内してくれました。ヨーロッパでも同じような反応。

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それはさておき、国内外問わず、手話を使う人たちが集まったコミュニティがいくつかあります。中には、聞こえない人たちだけが集まるところもあり、手話で情報交換がされています(今はSNSの発展で、わざわざ集まるまでもない、とコミュニティの必要性が減っているところもあるようです)。

 

聞こえない人たちだけが集まるなんて、なんて閉鎖的なんだろう!と思う方もいます。

 

聞こえないという聴覚障害について、ポジティブに受け止めて自らの能力、可能性を伸ばし合ったり、当事者だけで問題解決を探るといった、セルフヘルプ機能を果たしているコミュニティもあります。しかしながら、一部のコミュニティで閉鎖的になっているところもあります。

 

普段の生活で、聴者から見えない抑圧を受けているろう者(聞こえない人)が、同じ立場にいるろう者に対して、力関係を築きたかがるケースがあります。「見えない抑圧」というのは、いろいろな場面に出てきますが、例えば話し合いをした時に、聞こえないからという理由で意見を聞いてくれなかったり、話が分からなくて確認したかったけれど聞きにくかったりという「目には見えない抑圧」。

 

そうした抑圧をそのまま、他の人に与えてしまう。そうすることでしか、自分を保つことができない人もいます。聴者の世界ではちっぽけな人間。だからもっと認められたい!と、聞こえない世界に求めてしまう。

同じ障害を持っているから仲良くできる、というのは理想論であり、現実的には難しいこともあります。自分は良かれと思って行動しても、結果的に嫉妬されることも。

 

そうした閉ざされた世界の中で、「あなたは間違っている」「あの人がそう言っていた」という小競り合いがあります。

しょうもないことで何で争う?何で足を引っ張る?と思うことがたくさんあります。

 

閉ざされたコミュニティだからこそ、外部からの情報がますます入らなくなり、多様な価値観を知るすべがなくなる。そうなると、感情的に強く意見を言った者が勝ち、のような構図になります。

 

もう少し、なぜ分かろうとしないのか、なぜ多様な生き方を認めようとしないのか、と時々思います。

 

聴覚障害は、耳が聞こえないだけでなく、情報を受け取るための部分が弱くなりがち。

聞こえないという障害を乗り越えるのではなく、いかに上手に付き合っていくか。それこそ、当事者同士で話し合って解決するセルフヘルプ機能の役割なのではないでしょうか。

そこにコミュニティの存在意義があると思います。

 

 

と、毎回、小競り合いの話を聞くたびに思ったのでありました。

 

 

不便だから先回りする

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街中を歩いていると、誰かさんが何かを説明しているみたい。

 

目の前には美味しそうな一品料理が。多分、作り方や素材の説明?はたまた、便利なキッチン道具の使い方の宣伝?

 

と想像しながら、一旦立ち止まってみるものの、耳が聞こえないので、話されている内容が分からないし、「あのう、なんとおっしゃっていますかの?」と誰かさんにお願いするまでもないので、そのまま通り過ぎる。

 

もし内容が分かっていたら、どうなっていたか。「なんだろ?」と耳を傾けてみたかもしれないし、それでも同じように通り過ぎていたかもしれない。

 

でも、この「通り過ぎる」は、説明内容を聞いて「あまり大したことないな」と判断した上で行動したもの。

 

冒頭のような状況だと「大したことない」という判断に行き着けない。耳が聞こえないから、内容が分からなくて「あれはいったい何だったのだろう?」と気になって仕方ない。

 

・・・

耳が聞こえなくて不便なことは、そういうことです。

冒頭のような場面は、別に内容が分からなくても生死に関わるレベルではないから大したことないですね。

でも、耳が聞こえないこと=誰もが当たり前に入手できる情報すら得られないこと、として考えてみると、状況によっては生死に関わる場合だったり。

 

普通に得られるであろう「情報」を得ることができないため、いくつかの不便さが出てきます。

 

  • ラジオからの情報を分かっていれば高速道路の渋滞を迂回できたかも(今はスマホで調べられる)。
  • 気の利く営業マンなら、もしかしたらお得な割引の情報が聞けたかもしれない(デキる仕事人なら、障害を持っている顧客に対しても対等に扱う)。
  • おしゃれなフランス料理のメニュー名が分かれば、もっと興味を深められたかもしれない(親切なところだと紙に書いて教えてくれる)。
  • 隣のテーブルの会話が聞こえていたら、もっと気の利いたセリフを言えるようになっていたかもしれない(聞こえる友人に教わりながら日本語力を高める)

 

いずれも、生死に関わるレベルではないけれど、ラジオや人が話している情報を、自分から取っていかないといけない。自然に、耳から情報が入ってくる人とは違って、「ん?なに?」と自ら情報を得ないと、何も分からない状態が続きます。

(周りが手話で話していれば、手話は分かるので、情報の取捨選択が初めて可能になります)

 

不便を「ああ、聞こえないって不便だわ・・・」といつまでも嘆いてたら、前に進めない。それを本能的に知っているので、ある時は想像力をフル稼働し、ある時は目の前にいる人に聞きまくったり、ある時はじっと観察しながらスマホで調べてみたり、ある時は聴者の友人に頼んだり、と常に先回りしながら自分が困る頻度を減らせるよう、考えて過ごしています。

 

世の中の聞こえない人が全て同じ行動をしているかといったら、そうではないのですね。情報を得ることをすでに諦めてしまった人、必死に周りが何を話しているか常に目を光らせている人も。いろいろなな生き方があります、人間だもの。

そして、こういう生き方が果たして良いのか悪いのか正解がないけれど、そうしないと今の仕事ができないから。

 

これは他の障害を持つ人も同じことが言えると思うので、今度その話を聞いてみたいですね。

 

 

(写真)天寿園にて。夏はライトアップで見れます。

 

手紙を書いてみる

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メールよりLINEが定番になっているこの頃。LINEなんか使ってないぞ!という方も少数派になり、「メアド教えて」より「LINE持ってる?なら交換しよまい」が多いようなこの時勢。

 

スマホなんぞ持っておらんし、そもそも携帯電話なんて持ってないぞよという方に出会うと「ああ、いいなぁ」と羨ましさを覚えます。仕事でスマホを使っている身分なので、なおさらそう感じます。

そもそも、そういう人なんているの?実際にいるんです。

 

うちの親が、そうです。「あんな小さな電子機器、文字も小さいし、読めるの?」と不思議がるくらい。離れて暮らしているので、連絡手段はどうしているのかというと、緊急連絡は別として、普段は手紙を書いています。

 

正直、手書きよりもパソコンで打った方が断然早い。

でも、手元にプリンタがない(引越しの時に処分。必要あればコンビニで印刷できます)し、手書きの手紙が来るので必然的に「私も手書きで書いてみよう」。

 

そんな感じで文通をしています。メール、LINEならパパッと打てるのに手書きとなると、書き方に気をつけるようになります。伝えたいことは、これとあれと…というように、ゆっくり時間が過ぎていく感じになります。

 

いつのことだったか、「最近、何か急いでいるの?」と突っ込まれました。私の書いた字が、殴り文字だったみたいです。そんなつもりはなかったけれど、なんとなく焦っていた時期だったのでバレてしまいました。

 

時々、聴者が電話で話す時、相手の声を聞くとなんとなく「今はこういう気分かな」「ちょっと元気ないな」「テンション高い」等、顔が見えなくても想像してみる、という話を聞きます。

耳が聞こえないので電話はできない。でも、手書きの文字を通して、顔が見えなくても「今そういう時期なのかな」と想像することができる。

これが、手書きの手紙の良さ。

 

バレないようにゆっくり書いたとしても、きっと不自然に映るのかもしれない。だったら、もう素直にありのままに書いていこう。そういう気持ちで、いつも手紙を書いています。

 

 

(写真)昨日ギネスビール飲みました。