うすいの気まぐれな日記

手話、聴覚障害、マイノリティなどなど

読んだ本を読んだ人

今日はフライデー。フライを食べるデー(うう、さむぅ)。

最近、嬉しいことがありまして。

 

何気ない会話から「そういえば、こういう本を読んでて」という話になり、ストーリーを聞いてみると、なんと私が過去に読んだ本と同じ。

全国で、県内だけでも数多くある本の中から、同じ本を偶然、読んだことがあるという。嬉しいですね。

 

今日もまた本を一冊。今、読んでいるのはこれです。

全ての装備を知恵に置き換えること (集英社文庫)

全ての装備を知恵に置き換えること (集英社文庫)

 

 

タイトルがなんとなく難しそう、堅そう!と思いますが、なんのこっちゃ、旅の本です。まだ旅の途中なのでレビューらしいものは書けませんが、国、地域の違いを超えて、著者がその時に感じたことを文字化しているので、臨場感あふれる内容になっています。

 

読書の秋にぜひ。 

隣人からの相談

ちょっぴり涼しくなってきたので、コーヒーを片手にホッと一息つこうと思ったら、誰かが隣に座ってきた。

「ちょっと相談したいことがあるけれど」。

 

話を聞いてみると、どうやら、自分の行動について周囲がとやかく「やめなさい」「あなたは頭がいいんだから、そんな人たちと一緒にしないで」と言うらしい。

 

なんのことか分からなかったけれど、話を最後まで聞いてみると、こういうことらしい。

自分で考えて決めた道だけど、周りは頑なに反対する。頭が良いだろうが悪かろうが、学歴なんてものは関係なく、自分はこれでいいと思って前に進んできた。でも最近になって、本当にそれでいいのか不安になってきた。このまま振り出しに戻った方がいいのか、それとも…。という内容。

 

自分と向き合って生きている人なら誰でも通る道であり、前に進めば進むほど、これでいいのかと時々振り返ってみては、不安になったり、心配になったり。初めて通る道を、車で走らせるにしても、歩くにしても、きっとほとんどの人が「ちょっと待って、この道で合ってるかしら」と後ろを振り返りたくなる。

そして、振り返ってみたら真っ暗だったり何もなかったり。前を見ても、なかなかゴールが見えなくて、ほんとに大丈夫?私?という感じに。

 

そこから、後ろに引き返すか、前に進み続けるか。

立ち止まったままでいることもできるけれど、必ずどちらかの道をいかないといけない。そんな状況に出くわすことが、人生の中では何回かある。

知らない間にいくつかの選択肢があって、一つ一つ選んでいくうちに、今の道になっていることの方が多いけれど、ほとんどの人は気づかない。周りが用意したレールに乗る、という生き方もあるけれど、用意してくれただけでなく、自分がそのレールに乗っていくことを選んだということも事実。

 

無意識のうちに選択している人生が数多くある中、自分で自分の生き方を決めることは勇気が要ることかもしれない。勇気を勇気だと思わず、そのまま猪突猛進のように進む人もいるけれど、たいていは「そんな道、誰も選ぶわけないじゃん」という道こそが、本人にとってとても価値のあることかもしれない。それぞれの生き方、決め方がある。

 

その上で、周りが反対する理由を見極めながら、最終的には自分で決めて、自分で決めたことに責任を持つことができれば、その道はあながち間違っていない。

 

コーヒーが冷める頃、隣に座った人は「きっとこれからも迷うことはあるけれど、でも周りに言われたからそうした、という理由だけは避けたい。自分の人生だから」。

 

世の中には、生まれ育った環境によって最初からその道が閉ざされて諦める人もいる。

現実的に難しい状況に置かれている人もいる。

何かの本で「あなたにとっての明日は、誰かが必死に生きたかった一日でもある」ということが書いてあった。

 

私は彼にその言葉だけを伝えて、コーヒーを飲み終えた。

 

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便利なものについて

今週、早くも折り返し地点に。最近は水曜日と木曜日をちょっと混同してしまい、「ん?金曜日だったけ?」と勘違いしてしまうことも。明日は木曜日です、サーズデイ。

 

昨日、タクシーを使う機会があり、iPhoneで支払いを試してみました。Apple Payという電子決済のものですが、とても快適、かいてき。運転手さんもきっと、お釣りを間違えなくてもいいし、現金を盗まれる心配もなく、その方が楽なんだろうなぁ。

それにしても、10年前では考えられなかった時代の変化、すごいですね。

 

使いすぎ禁物。今日もごきげんよう

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(夢のようなものが今は現実的に。だから夢を持つことは無限大)

 

 

かぼちゃの仲間

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そうめん瓜、初めて見ました。新潟・長岡野菜として指定されているみたいです。

nigata.japanfoods.net 

地域によって呼び名が異なるみたいですね。

 

そうめん瓜はカボチャの仲間で、その多くが岡山・石川・長野県産です。岡山では「そうめんなんきん」、石川だと「金糸瓜(きんしうり)」と呼び方が異なります。

 

services.osakagas.co.jp

 

今日はかつて調理関係の仕事をしていた方の家で、お料理を教えていただきました。

もともとお料理の予定はなかったものの、「そういえば、そうめん瓜って分かる?」と聞かれ、ちんぷんかんぷんな私に「では、少し作るから見てみて」。

 

サクサクと切って、鍋を用意しながら。瓜の表面が硬く、普通の包丁ではなかなか難しそうだったので別の包丁を。これぞ、元調理師ならではの手さばき方で、普通に切れました。

 

作り方はいたって簡単。
①鍋に水を入れて沸騰するまで待つ。
②その間に、瓜を輪切り。
③沸騰した鍋に入れて、柔らかくなるまで待つ。
④柔らかくなったら取り出して、水をかけながらザルの中で、皮だけになるまで中身を取り出す。
⑤お好みの調味料をかけて完成!

そんな感じ。


そうめんのような細い形になってるから、そうめんなのか!とちょっぴり雑学が増えた気がして嬉しかったです。

 

そんな日曜日の昼下がりでした。今日もごきげんよう

聞こえないから分かること?

今週は連日連夜、ずっと出かけていて更新が止まってしまいました(止めてました)。

毎日続けることって、しんどいと思いながら、でも何のために書き続けるのか。更新していない(しない)間にずっと考えてたら…。

 

聞こえないことを中心に、徒然なるままに発信することで誰かにとって「ああ、そうなのね!」とプラスになれたらと思って始めたブログ。でも最近、毎日書く作業が目的化していないかなって。

 

これから時々、「あ、また更新されてないな」と思ったらハッパかけてください〜

 

 

ところで、前からずっと気になっていたことが。

耳が聞こえない人の中には、手話を知っている(使える)人もいます。手話が使えない人もいます(むしろ、後者の方が圧倒的多数派)。

 

耳が聞こえないのに手話が使えないのは、様々な背景があります。

  • 地域の学校に通って、周りには聞こえる人ばかり、手話を覚える必要性に迫られていなかったから。
  • 周囲に手話のできる大人がいなかったから。
  • 前はふつうに聞こえていたのに、途中で聞こえなくなったから。
  • 歳をとってから、だんだん聞こえにくくなったから。
  • その他

こうした背景を知ろうとせずに「耳が聞こえないのに手話ができないの?」という見方は、「耳が聞こえないのに、手術しないの?人工内耳にしないの?」という見方と同じ。

 

中には、人工内耳をつけて、手話もできる人もいます。ほんとに、ひとことで聴覚障害者といっても、背景が様々。人間だもの。

 

「聴者(聞こえる人)ばかりの飲み会には行きにくい」

 

時々、そういう声を聞きます。行きたくなかったら、行かなくてもいいのですが、会社の付き合いで止むを得ないという事情がある人にとって、聴者ばかりとの飲み会は精神的にもキツいそうです(手話ができる聴者なら、話は別)。

 

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このような状況、手話ができない聞こえない人にとって「手話だけで話されている飲み会は行きにくい」状況と似ています。

手話を学ぶ聴者の中には、「ろう者ばかりの飲み会、交流で手話を覚えました!」というケースがあります。だから、手話ができないのなら、学ぼう!という気持ちで参加すればいい、という容易な解決策を提案するにはちょっとどうなんだろう、って。

 

手話ができないことによって、いわゆる難聴者と呼ばれるのですが、そういう人にとって「同じ聴覚障害者でありながら、話の中に入れない」という状況は、普段、聴者ばかりの環境にいながら、同じ障害を持った人とも分かり合えない。

これを苦しみと捉える人もいれば、諦めている(割り切っている)人もいます。

 

そうした人との関わりを持っていると、「情報があること、情報がないこと」について考えさせられます。

手話だけの飲み会では、手話で会話のやり取り(話の内容はともかく)が行われ、自分にとって有益な情報なのかどうかの判断ができるかどうかは、手話を読み取る力に関係しています。

 

手話を普段使わない、手話を知らない人にとって、手話を読み取るというのは相当努力が要るもの(中には、天才的な頭脳を持っている人も!)。そして、手話を使うろう者にとって、情報がない(入らない)ことの苦しみは、聴者よりも知っています。体感的に。

 

残念ながら、それでも、手話が分からない人にとって「今、情報が入っていない」という状況に気づける人は少ないようです。さりげなく、「今の話はこうだよ」「ちょっと書くね」という配慮(声がけ)があるかどうかによって、手話に対する見方が変わるのに「聞こえないのに手話ができないの?」と見下してしまうことがあります。

 

一体、どうして聞こえない人同士であるのに、分かり合おうとしない?

 

共に生きること、とはどういうことでしょう。飲み会が続く連日連夜の中で、ふと思ったのでありました。

 

今日もごきげんよう

 

見えない音

先日行った新潟市美術館についてブログ書いていたら、知人から「あのスペースには、実は音楽が鳴ってて…」と教えてくれました。

syuwakoushi.hatenablog.jp

 

確かに、写真展の中にスライドショーというか、スクリーンに映し出すスペースがありました。でも、目の前に繰り広げられていたのは、森の茂みにいるような風景。

静止画として数枚の写真が次々へと緩やかに変化していっていました。

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(先日の新潟市美術館

 

 

当然、私は耳が聞こえないので、知人からの情報に「まさか、音があるなんて考えもしなかった」と思いました。よく考えてみればBGMのような音楽があってもおかしくない状態なのに、音があること自体、全然考えもしませんでした。

 

「あ、今救急車が近くを通ってるみたい」

「ん?今の音、なんだろう」

「鳥のさえずりが気持ちいい」

「うわぁ、今の鳴き声、ほんとにうるさいわ」

などなど、耳が聞こえる人と話をしていると、時々そういう話題になります。

私にとって、この話はリアリティさがあって、未知の世界なので、聞くたびに胸が高鳴るような、とっても興味津々!というような気持ちに。

 

で、時々この質問は、聴者を困らせるみたいです。

「へぇ、今そういう音があったのね。どんな音?」。

 

当たり前の世界のど真ん中にいる人に聞くと、たいていは「難しいっす」で終わってしまう(そりゃそうですよね)。

そんな中で、懸命に考えてくれる人もいます。「ウ〜〜〜〜」「ぎゅるるる」「ガタガタ」なんでもいいので、少しでも音に近い表現(擬音語;オノマトペ)を教えてもらえると、見えない音に対して何となく愛着がわいてくるような。

 

あらためて、耳が聞こえない立場での「音」は、聴者にとっての「音」を、一生経験することが難しい。できない。

 

聴者の中にも、いろいろな聞こえ方がありますが、ある程度、常識だと言われている「音」について、どんな風に聞こえるのか、とても興味深い。例えば、救急車のサイレンを聞いて「これは救急車の音」と認識できるのはどうしてなのか、不思議に見えます。

 

私の聴力が、補聴器をつけてもほとんど聞こえない状態(聞き取りの判別ができない)なので、聞こえることがどういうことなのか、断片的でもいいので「聞いてみたい!」という衝動に駆られることは、たまーにあります。

 

普段何気なく聞いている音について、あらためて見つめ直してみると新しい発見があるかもしれません。

 

今日もごきげんよう

 

世界を撮り続ける写真家

周りに写真好きの人が増えているこの頃、今日は写真展へ。8月10日から開催中です。

www.ncam.jp

 

偶然、喫茶店にあったポスターで写真展を知り、「石川直樹」というキーワードがあったから行けました。

もしそのキーワードがなかったら、多分ポスターを見ただけでスルーしていたかも。

 

石川直樹さんを知ったのは、航空会社ANAのサイトがきっかけでした。インドへ一人旅?高校生の時に?という驚きに始まり、旅に出かける際のグッズの紹介があって「なんか、すごそう!」と印象に残っていたのです。

www.ana.co.jp

 

この記事を読んだのは2年前だったと思うけれど、このサイトを読んだからといって石川さんの活動を調べるとか全然していなくて。でも、先日、ポスターを見て「あ!そういえばANAの!」と思い出せたあたり、よほど印象強く記憶されていたのでしょう、自分でも驚きました。

 

今回の写真展、意外と空いていました。写真一枚ずつ、ゆっくり眺められました。

写真に説明文がついていると思ったら、あれれ?タイトルと説明文がない写真が多くて。でも、きっと意図的にそうしたのかも。

変な先入観がないまま、写真の向こうにある世界を見て、想像してみる。そして、写真から離れたスペースに石川さんの考え、思いが書かれた文章があり、読んでみる。

そこで初めて、写真の意味を知ることができる。その繰り返し。

 

そして、何よりも印象的だったのが石川さんの著作の多さ。雑誌とハードカバーなど含めて、軽く10冊は超えていて「ええ?そんなにたくさん出版しているの?」と驚いてしまいました(このあと、2冊購入)。

隣のスペースには、石川さんの登山グッズや読書した本、スタンプなどがずらりと並んでて、本人のコメントも書いてありました。

 

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なかなか楽しく回れる写真展でした。

 

石川直樹さんのウェブサイト。トップページの写真がうっとりするくらい、素敵です。

www.straightree.com

 

そでのした

袖の下というのは、「人目につかないように袖の下から贈る物。賄賂(わいろ)」。

袖の下(ソデノシタ)とは - コトバンク

 

手話の表し方も、まさにそんな感じ。テレビドラマの時代劇を見たことがあれば、なおさらイメージしやすいです。「ふふ、お主も悪よのう」。

 

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そんな言葉ですが、ポチ袋に書かれている「そでのした」は、あくまでも冗談の一つであって、ユーモアさに笑うか、「ナンジャコリャ」と半ば呆れるか、という反応が見られます。

 

しかしながら、日本語を知らない人、日本語を学んでいる人から見れば、真に受け止めてしまいかねない表現でもあります。写真のようなポチ袋を受け取ったら、おそらく「む、無理です!こんなの受け取れません!」という反応があるかもしれません。

 

どうして、こういうギャップが起きるのでしょうか。

 

「好き」という言葉も同じで、日本語を母語とする人は「こういうの、好き」から「あなたが好き」と幅広い意味で使っています。当たり前すぎて「何?幅広いって?」とハテナ状態になりますが、日本語を学ぶ人の間では、手話での「好き」という表現は誤解を招きやすいです。

 

上記の「そでのした」と同様、「む、無理です!好きって言われても…」と真に受け止める反応が見られます。ろう者の誤解を嘲るような人がいますが、日本語をあまり知らない、知る機会がないろう者にとって、周囲の誤解はとても厄介でタイヘンでもあります。

 

言語の違いといえば、文法、語彙の表現が異なるだけでなく、文化的(言語的?)な背景も含まれているので、とても奥深いです。

いわゆる「日本語対応手話と日本手話」の論争に近いものがありますが、当事者の間では言語の違いから来るギャップについてあまり丁寧に語られてきていないように思います。なぜ、ズレてしまうのでしょうか。

 

続きはまた次回。今日もごきげんよう