人生の階段
目の前にある課題が一つ片付いた!と思ったら、もう一つ課題が出てきて、クリアしたと思ったら、また次が。
まるでファミコンとかプレステでやるゲームみたいです。多分、こうやってレベルアップしていくのでしょう。
でも、現実的にはゲームのように「現在のあなたはLevel10です」とか「レベルアップしました、おめでとう!」という目に見える結果ばかりではないので、一つ片付いたと思っても実感が湧きにくいのかも。
クリアしたつもりでも次の課題に直面し、気持ちが対応しきれず凹むことも。
そんな時は、後になってこういうケースがあったんだ、とストーリーとして説明するために、今この時に用意されているのだと思うようにしています(それでも、一時的には気持ちが落ち込むこともあり)。
こうやって人生の階段を登り続け、時には休憩したり、降りてみたりと。
相田みつをさん風に言えば、「階段に登るも降りるも、自由。人間だもの」。
今日もごきげんよう。
右と左は違う
ジムで身体を動かしている最中、ふと足元を見たら「きゃああ!」。
もちろん心の中で叫びました。
靴下の色が、右足は紺色、左足は黒色。
いやぁ、恥ずかしい!やってしまった!
もちろん、誰にも言わず知らないふりしました。
似た色とはいえ、よく見れば気づけるのに。
「モルダー、疲れてるのよ」のスカリー風に、自分を宥めながらジムを後にしました。
さて、右と左といえば、手話を習っている人から「左右それぞれ違う動きをするものは、難しいんです」と相談を受けます。
両手で同じ動きをするもの(例:勉強、スポーツ、綺麗)なら覚えられるけれど、
左右それぞれ別の動きをするもの(例:パソコン、弁護士、電車)はちょっと頭を使うような感じで、ちょっと時間がかかるそうです。
視覚優位の人であれば、難なく使えるようになれる。でも、そうでない人にとっては難しく感じると言われています。
脳の仕組みについてといえば、この本がありました。
言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか (中公新書)
- 作者: 酒井邦嘉
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2002/07/01
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これも紹介されていました。
「手話の理解も左脳優位」
http://mind.c.u-tokyo.ac.jp/Sakai_Lab_files/NewsJ/JSL_Sakai_2005.pdf
手話表現について、右と左がそれぞれ違うことについて、必ずしも「左がこうで、右がこうでなければならぬ」というのは無い(はず)。
手話を学ぶときに「右と左は違う」、そこからスタートになります。
その前に、靴下の色を見分けて履けるようにしないといけませんね。
今日もごきげんよう。
通じないのは手話が下手だからではない
「なんで分からないの」「なんで通じないんだろう」。
職場や学校、家庭などに起こりがちな現象の一つ。手話を使う人々の間にも聞かれます。
特に、ろう者と手話を学んでいる聴者との間で「手話が分からないのは、勉強不足」「手話が読み取れないのは、下手だから」と、いかにも学習者に責任がありそうな話が出てきます。
聴者が話す音声言語と同じように、手話を使うときにその人の特徴が出てくるのは当然のこと。ネイティブでも、癖のある話し方だったり、流暢な印象を受ける話し方だったりと個人差があります。
それなのに「下手だから」「勉強不足だから」で片付けるのは、ちょっと諦めるのが早すぎない?と思います。
個人差があるとはいえ、日本語と手話の違いの一つに「ハイコンテクスト」「ローコンテクスト」があります。
直接的な表現を好まず、聞き手の判断に委ねる(期待する)話し方をするのがハイコンテクスト。
その逆で、推察に頼らず、話し手が責任を持って言葉として伝える話し方をするのがローコンテクスト。
日本語はハイコンテクスト、英語はローコンテクストに入るそうです。
聴者と話をしていると、こちらが察すること、相手が察することでうまく事が運ぶという経験が少なからず、あります。
ろう者が相手となると、察することよりも、言葉を通して情報を伝え合うことでスムーズに進むことが多いです(一方、相手方の日本語力が高ければ高いほど、ハイコンテクストとしてコミュニケーションができるため、多くの伝え合いを不要とすることも)。
ろう者が全員、ローコンテクストでのコミュニケーションで通用するとは限らないけれど、手話を使って話すときに「あれ?今のは通じていないな」「全然読み取れなかった」ということがあれば、もしかしたら、ローコンテクストのように直接的な表現や情報を多く伝え合うことで多少は解決できるかもしれません。
分かりやすい例を挙げると、
日本語の「ちょっと、それは・・・」は、「あ、何かまずいことをしてしまったかな」と相手に気づいてもらえます。
それを手話に当てはめてしまうと、「あ、何か少ないのね」と情報として捉えます。
(「ちょっと」を手話で表すと「少ない」という表現)
日本語の意味を手話に翻訳するなら、「まずい!」という手話表現になります。
ろう者はストレートな言い方が多いと言われるのも、ローコンテクストだからです。
しかしながら、ろう者の中にもバイリンガルとセミリンガルのケースがあります。
バイリンガルのろう者なら、日本語に近い表現でも通じます。
セミリンガルのろう者となると、どうしてもストレートな表現にならざるを得ません。
そういったプロセスを飛ばして(省略して)、「だから私は手話が下手なんだ」と決めつけてしまうのは、あまりにも勿体無いすぎませんか。
言語の違いについて、もっと根本的な部分を少しでも知れたらきっと学習しやすくなるのでは。とはいえ、私自身もあらためて説明するとなると、ちょっと難しくて、ハイコンテクストとして聞き手に委ねてしまいそう。
自分に予約を入れる
うっかり。
「なんで花火大会、見に行かないの?せっかく近くに住んでいるのに〜」と今年も、ツッコミを受けました。
住んでいるところから近いといえば、新潟県長岡市。県外から多くの方が集まるくらい圧巻とした、壮大な花火だそうです。
確かに「いっつも混んでるけれど、いやぁ、やっぱり見る価値あるわね」と周りがよく言います。ラストのフェニックスと言われている場面は、迫力ありすぎだそうです。
「そ、そうなのか。そこまでおっしゃるようならば、是非とも見に行かねば!」
と毎年思っているのですが、今年もうっかり。すでに他の予定を入れてしまいました。
今更キャンセルはできないし、その予定も半年前から準備して調整していました。
自分で自分に予約を入れた以上、泣く泣く諦めます。
それならば!
1年後の自分に予約を入れちゃおう。
来年の手帳はまだ届いていない(同じ手帳を毎年愛用。来年も買うつもり)けれど、メモメモ。
予約を入れるということは、未来の自分に約束をすること。
どうせ約束するなら、楽しいもの、価値を感じるものにしていきたいですね。
今日もごきげんよう。
応援で盛り上がる夏
デフリンピックの結果が報道されるようになっていますね。
デフリンピックでなんぞや?という方が少しでも減り、「耳の聞こえない人が出るオリンピックなのね」という方が増えることを願いつつ。
甲子園出場を賭けた高校野球の地方大会、少しずつ代表校が決まってきています。
連日の猛暑、まさに天候との戦い(静岡県の決勝戦、なんと土砂降り!)。
熱中症にならないかと心配になりつつ、目指しているものに対してひたむきになれる姿は心打たれます。
って、もう第99回を迎えるのですね。「横浜高校 vs PL学園」の激闘から19年。
毎年この時期になると、普段野球の話をしない人でもテレビに夢中。「決勝戦を見たいから、この仕事、なんとかしてくれ」という人もいます。
そこまで惹きつけられる高校野球って、やはり、ひたむきな姿が共感を呼ぶのでしょうか。
ともあれ、熱中症と怪我だけは本当に気をつけて。
そして、一人ひとりが「やり切った!」と思えるように。
コメント書けるよう設定しました。
ブログを書き続けて3ヶ月。それなりに発信してきたけれど、コメントが書けない設定になっていた(ブログ開設当初からオフにしていたみたい)ので書き込めるように設定してみました。
(蓮という名前がつく駅で、蓮をパチリ)
コメントって何かを評価するみたいな感じですが、いたってシンプル。感想みたいな感じかな。評価も感想も同じようなものですが、辞書で調べてみると、
評価・・・どれだけの価値、価格があるか見定めること。
感想・・・物事について、心に感じたことや思ったこと。
という、微妙に違う意味になっていました。
コメントは、「問題や事件などについて意見や見解を述べること。論評、解説、説明」。ううむ、ちょっと身構えないといかんのかなぁ。
SNSで使われる「コメント」はもっと柔らかい感じなので、ブログも同じようにいたってシンプル、と思って書き込んでいただけたら嬉しいです。
今日もごきげんよう。
とっさに書けること
街を歩いていると、見知らぬ人に声をかけられることもあります。
「あ、すみません。聞こえません」と耳を指差す。
「あ、そうでしたか、では書きますね」ととっさに紙に書いてくれると、もうそれだけで安心します。道を尋ねられ、「すみません、書いてもらえますか」と話したら逃げられた、という経験は少なからず、耳が聞こえない人の間では「あるあるネタ」です。
手話で返ってきたら「おお、すごい!」と感動しちゃいます(日本語が通じない環境に長い間いて、そのあと日本語が話せる人に出会ったときの喜びに近いかも)。
とっさにコミュニケーション方法を切り替えられる人は、普段の生活でもコミュニケーション能力がきっと高いはず。手話を学ぶ人たちの中に、日本語の語彙力が豊富な人、英語をはじめ外国語が好きな人はたいてい、手話の上達も早く、流暢に使えています。
プロとしての手話通訳ができる人は、本当に日本語力があってメールだけでも勉強になります(私にとって日本語は、耳から得ることができないので、文字を読むだけになるので、メール文から日本語を知ることも多い)。
今回の旅先でも、聞こえないことを伝えたら、とっさに行動できる人たちがいました。本当にありがたいし、気持ちよく過ごせます。
逆にいえば、手話を知らない聴者や難聴者と話すときにできるだけ、確実に通じ合う方法を選択していきたい。今までもそうしてきたけれど、やはり必要なことなので、今後も続けていきたいですね。
(花にも多様性があって、それぞれが輝いている)
口がかたい
一年中ホットコーヒー派でしたが、さすがに暑すぎて飲む気になれないです。
新潟で高温注意報が出ました。どうりで暑すぎる!
(あんまりにも暑いので、グイッと)
でもこの暑さでも、エアコンをもったいないから使わないという家もあります。額に汗をかいているけれど、暑くないという。歳をとればとるほど、自分の身体に鈍感になってしまうのは本当みたいです。
周りが畑作業に出かけたり、お茶飲みに出かけていたら声かけて水分補給を勧めています。
あまりにも暑過ぎて口の中まで渇いてしまう人もいるので、気をつけたい時期。
口の中といえば、聞こえない高齢者が「最近、口がかたくなった」と話していました。秘密を守る、という意味ではなく、舌の動きや口を開けたりするのが難しい、ということでした。
ろう者の中には、幼い時から発音、発話練習のため口を開けたり、舌を動かしてきた人もいます。しかし、訓練時期を経て、社会に出た後、発音が通じないから筆談だけにした場合、口を動かすのは、食べる時くらい。
手話使って話しても、日本語を話す時と比べてそこまで口を動かすことは少ない。
(聞こえる人が朝から晩まで、毎日手話使って、腕が何となく疲れた、という感じ)
その時期が長かったため、何となく違和感を覚える。
という背景があるのですが、健康的に過ごすためには口を動かすことも必要。介護施設で行われている口腔運動は、まさにそういうこと。
聞こえない高齢者の中には、かつての口話教育を思い出して嫌気がさしているかといえば、それも人によって違うようです。
もっとしっかり話せるようになりたかった、と話す人もいます。
ともあれ、口の話からいろいろな生活背景がうかがえますね。
今日もごきげんよう。