人は出会うべくして出会う
少し前に友人と話していたこと。
「失恋は、その時はすごく痛いけど、次の人に出会うために必要な時間」「付き合ってくれた人には感謝しなきゃね」。
人の出会いは、自分にとって「今」のタイミングで必要だからこそ出会うもの。
もし1年前だったら?もし1年後だったら?そんなのは分からないけれど、少なくとも今、ここで出会ったということは「偶然ではなく、必然」。
そして、当時に出会った人で、今も関係が続いていることは本当にありがたい。SNSでも繋がっているとはいえ、実際に会った時に一緒に過ごせることは、ありがたいこと。
今日も良き出会いがあったことに感謝です。
次のステージへ進むために
今のNPOを立ち上げて6年。
写真もかなり溜まってきました。今後も使えるように、仕事の合間に整理しています。自分は覚えているつもりでも、案外忘れかけていた場面がありました。そこが写真の良さ。
誰と一緒にいたのか、を客観的に見ると恥ずかしいような、懐かしいような。
そこで思わず、はっとしたのがありました。
設立当時からずっと一緒にいたスタッフ、ほとんど全員が笑顔で写っていました。
活動自体、忙しくて大変だったはず。当時は運営費も貯蓄も少なかった。それでも活動の幅を広げながらいろいろな人の繋がりを作っていたのは事実。
経営すること、運営することは当然、活動の基盤を築くこと。その上で、スタッフたちが生き生きと動けていた事実が写真に出ていて、嬉しくなりました。
今はそれぞれの道を歩み、県外へ行ってしまった人も何人かいます。
そして、どんなときでも一緒にいたスタッフが数年前に去っていった時は、かなり堪えました。
お互いに意見を言い、時には話したくないと思ったときがあったものの、最後まで一緒に仕事を進めていた矢先、「辞めます」という言葉を直に言われたときは、その場で何かか崩れ落ちたような感じでした。当然、顔には出さないように努めていたけれど。
経営、運営していく流れで、この経験は誰でも通る道。全員がいつも同じような気持ちでやっていくって難しい。今なら割り切れても、当時はそれができなくて、この先どうしたらいいのか見えなくなってしまいました。
NPOを作り、継続していくことの難しさを嫌というほど実感。それでも次に進まないといけない。
忘れかけていた、忘れようとしていたこの感情を再び、写真が呼び起こしてくれたのは、次のステージにいくために、必要なタイミングだったかも。
人生、時には立ち止まると、見えなかったことが見えるようになるものですね。
あらためて、働きやすい職場を作っていきたい。作っていきます。
いくつかのハードル
「講演を聴きに行ってみたい」。
ポスターやチラシを見かけたとき、いくつかの選択肢があります。
講演に行ってみる、都合が悪いから行けない、友人を誘ってから考えてみる、行かない、などの選択肢の中から一つ選びます。
講演に限らず、スポーツの試合やライブも同じ。
いくつかの選択肢の中から選んで決めるだけ。友人に誘われたから行くというのも、一つの選択肢。
車椅子の方が、上記の場面に遭遇したとき、どんなことが考えられるか。
その中の一つに、車椅子が会場に入れるスペースがあるかどうか、ちらっと考えると思います(以前、車椅子の友人と一緒に出かけたときも、「あ、わたしゃ、そこには入れんと思う」と何気なく言った)。
ろう者の場合、どんなことが考えられるか。講演に手話通訳があるかどうか、要約筆記があるかどうかを気にします。
ここが、上記にあった選択肢の中から選ぶ行為の前の問題であり、ハードルでもあります。
通訳なんて要らん、一人で大丈夫という方もいます。ケースバイケースですからね。
通訳の質を気にする場合もあります。通訳があっても、講演の内容が専門的だから通訳を利用しても大丈夫かなという不安。
ここは難しいところであり、手話通訳者を信用していないという意味合いではないです。
手話通訳をボランティアとして見なす風潮がある限り、一流としてプロとして通訳の仕事をする方は少ないです。少ない人材の中から、派遣してもらうか、直接依頼するかはともかく、スキルを持った通訳者がいたら、このハードルは躊躇無く、超えられます。
そのハードルの前に、もう一つのハードルがあることは案外知られていないかもしれません。
ろう者の中には、手話と日本語が両方できない方もいます。
できないというよりは、語彙数がとても少なく、言語面でのアクセスができにくい。通訳を見ても、概念がないので理解ができない(ここは通訳のスキルがどうのこうのよりも、ユーザー側の言語運用能力に左右されるかもしれません)。
ろう者自身の勉強不足、努力不足だけが原因なのでしょうか。割合はともかく、勉強不足もある中で、なぜ勉強できなかったのか、なぜこれまでできなかったのかという要因のほうにも目を向けてみると、生活言語を使う段階での環境が十分でなかった可能性もあります。
日常生活で必要な言葉を教えてもらえず、知る機会があったにもかかわらず、知るためのアクセスができなかったことも考えられます。
手話通訳があっても、十分に活用することができないという、この2つ目のハードル。
このハードルをどうやって乗り越えるのか。その前に、乗り越えないといけないハードルなのか。
いくつかの選択肢の中から選んでいる自分は、もしかしたらハードルのない道を歩いているだけなのか。この課題はしばらく、続きそうなテーマです。
自分に足りないもの
学生時代、「今やっておいた方が良いものってありますか」と周囲の社会人に聞いた中で最も印象的だったのが【自分に足りないものが何なのかを知ること。そこから勉強していくこと】。
今の自分に足りないもの・・・?と当時は、学業もあったし、社会人経験なんて数ミリセンチもないと思っていたので何からどう手をつければ良いの?という感じでした。
でもこの言葉が今でも活きているのは、それくらいインパクトがあったのかもしれません。
自分に足りないもの、を考えるとき、【今の自分】というポイントが大事で、将来何をしたいかということが明確にできていないときは特に。
料理できないのを【今の自分にとって足りないもの】と考えたなら、自炊できるレベルまでやってみる。教えてもらう。もしくは、身近な人に作ってもらって学ぶ。方法はいくらでもある中で、自分次第というのは大きい。もちろん環境もそれなりに影響はあるけれど。
今の自分にとって足りないもの、をしっかり見つめていきたい(嫌になっちゃうときもあります)。
でも、人間だもの。ですね。
地域を元気にする
今日、新潟駅周辺を通りかかったら「仮面ライダー」に遭遇しました。
(新潟駅 南口)
運転中だったので写真撮れず・・・。思わず「あ!」と目で追いかけそうになりました。
この仮面ライダー、年に1回は見かけるか見かけないかの確率(あくまでも個人的に)で登場します。特に人が多く集まるエリア(万代、新潟駅周辺)に、ふつうに出てくるので気付かない人は気付かないかもしれません。
容姿は、本物にそっくり。巷では、全身手作りといわれていますが、詳細は不明。
見かけた人は幸運といっても過言ではないくらい、ふつうに街中を歩いていたり、バイクで走っています。ご当地キャラではないけれど、見かけたとき「あ!」と何だか嬉しくなります。これって、地域を盛り上げようというのが伝わってくるから?
もし子どもだったらすっごく喜んで「握手して!」と追いかけるかもしれません。
地域の中に溶け込んで「あ!」といわせる存在感、なかなかそう簡単ではないのにヒュ~っと疾走していた姿、地域を楽しくしようという工夫が伝わってきます。
次に見かけることができたら、一緒に写真撮ってもらいたいものですね。
「お土産」という気配り
今日も「3時のおやつ」が配られました。5年前にNPOを立ち上げたときは全然、そういう余裕がなかったけれど、今はほぼ毎日、お菓子が出てきています。
一気に仕事に集中してしまうタイプなので、このタイミングでお菓子が出てくると「ああ、もう3時か~」と少しばかりの息抜きに。
このお菓子はありがたいことに、お客様からの差し入れやスタッフたちのお土産から出ています。今日は九州方面の珍しい豆。ちんちん豆。なんともお恥ずかし。
お土産から繰り広げられる会話も、その地域ならではのリアリティな情報が出てくるので雑学にもなります。
くまモングッズ専用のデパートがあるとか。新潟から離れている九州なので、特にアクセスしにくい地域の情報は重宝。
お菓子を味わいながら息抜き、そんな時間も少しできるようになりました、今年の5月。
小さなお土産、ぴりぴりした職場にちょこっと差し入れにいいかもしれません。
くまモン、というキャラは人を和ませる力があります。
さて、ちんちん豆、どんな味がするのでしょう。
交流だけで身につけられるのか?
以前、手話講師を務めていたとき「交流だけで手話を覚えてきました」という聴者がいました。交流というのは、ろう者との交流であり、ろう者との関わりを通して日常会話が手話でできるようになったという。
ろう者の一部からは「飲み会やイベントに出ればろう者と交流ができる。交流すれば手話できるようになる」という話もあります。
交流はとても良いことであり、ろう者の世界を知る上では不可欠。しかしながら、手話を学ぶときに必ずしも交流をすることだけがベストではありません。
手話を学ぶ人自身が、母語である言語(日本語など)での交流に長けていて(社交性)、その場で親切に手話を教えてくれる人がいたり、交流しやすい相手だったりと様々な要因が絡んでこそ、交流することで身につけられた、というプロセスがあります。
言語学は専門ではないので偉そうには書けないけれど、交流はあくまでも学習の一つであってそれが全てではない。交流(実践)と学習(理論)が一体になって初めて身につけられるものがあります。
ろう者の手話講師からは「こういう表現は自然にできるもの」と時々、教えるのを見かけます。私自身もかつては「どうやったら身につけられるのかって?自然にできるものでは」と教えることを避けてしまっていました。
その「自然」がネイティブの立場であり、学習者にとっては「モヤモヤ感を残す」ことになってしまいます。
手話を学びたい、身につけたい人が突如、交流の場に放り出されたとして、果たして自らの力でどこまで泳ぎ切れるのか。かえってモチベーション低下に響かないか。
交流と学習のセットを繰り返していくことにより、第二言語、第三言語として身につけていきます。
ろう者自身もそろそろ「手話が分からないなんて困ったもんじゃ」を乗り越えて、「通じるよう、少し頑張ってみようか。手話の先生に聞いてみてね、と助言するのもあり」と思えるようになったら、きっと一緒に泳げるようになります。
手話を学んでいる聴者のみなさん、応援しています。
ネイティブ同士でも通じない
今日は久しぶりに手話レッスンに参加してきました。
手話を教えることを生業としていたときは、教え方や学習者のニーズを分析したり教材を用意したりと何だか忙しかったけれど、久しぶりに参加してみると初心に返る思いがしました。
手話を始めたばかりの学習者にとって、指文字(50音の文字を一つずつ表すもの)一つ読み取るだけでも戸惑いが見られます。すぐに理解できていない様子でした。
そこからスタートして少しずつ成長していくのを見ると、教える側としても嬉しくなり、講師としても日々研鑽していかなきゃ、と気が引き締まる思いがします。
初心者にとって手話は何もかもが初めて。
ろう者同士で話をするときに「早くて読みとれない」と困惑してしまうケースもよくあります。それでも、学習の積み重ねによって話が分かるようになってきます。しかしながら、多くの学習者が勘違いされているのが「ろう者同士なら通じている」。
ろう者同士、手話が分かるからという点においては、あながち間違いではないけれど、手話を通して話の内容を理解し合えているか、という点から見ると「あれ?別の話題になっている、今のはお互い分からなかったんじゃないか」と思うこともあります。
手話はろう者全員に通じるものに見えるけれど、手話表現やその人のコミュニケーション力(語彙力、運用能力、理解力、想像力)に左右されます。
「日本人同士なら通じている」。これは事実でしょうか。日本人の中にも、日本語がしゃべれない人がいます。
でも、手話の話になると、通じているように見えてしまうのは、聴者の世界にとって手話は未知だから。日本語なら自分に関係ない話なのか、関係ある話なのかについて聞き耳を立てることができます。しかし、手話はそういかない。目の前で繰り広げられる話がさっぱり分からないから。それが学習と交流の積み重ねで、分かるようになってくるけれど、そこまで行く前に「ろう者同士は通じている」と思ってしまう。
実際には、年代が異なればそれなりに経験値の違いも出てきたり、理解度が異なりすぎて、お互いが一方的になってしまうときがあります。
その上で一度、お互いに分かるように会話をしてみる点からスタートして、お互いに共存共栄をめざしていきたいです。
苦手なことは無理しない
人間、誰でも苦手なことがあります。私も苦手なこと、いくつかあって、その一つが数字。
会計で数字を見るとき、一瞬で理解できないのがネック。
もともと数学が苦手ということで、数字を見てもさっぱり分からない。計算の仕方も「?」になりやすく・・・。
よくこれで管理職できるなぁと思いますが、最近は無理せずに「苦手だったらこの際、ポイントを押さえられるようにしよう」と割り切ることにしました。
暗算はそもそも無理。暗算に神経使うくらいなら、電卓で計算した方が安心。ゴルフのスコア計算も、実は暗算では自信が無いです。「3,5,4,4,5・・・」あれ、いまいくつだったけ?という感じになります。
電卓があれば十分。そして、エクセルは関数を見るようにしています。
これだけでも少しは、苦手意識が減ってきましたが、それでも難しい!というときは、数字に詳しい人に聞くようにしています。その方が無駄な時間を過ごすことなく、詳しい人から学ぶことに時間を割いた方が良い、と割り切ることにしました。
誰でも苦手なことはある。それを放置せず、無理に取り組もうとせず、何が今の時点でベターもしくはベストかという判断をすることで、自分の時間をもっと上手にやりくりできるのでは。
昔から「数学は答えが一つ。国語は答えが無限にある」と聞いていて、「答えが一つなんて面白くない!」と反抗していたけれど、数字も大事な存在なので上手に付き合っていきたいものです。