公園の散歩
5月になりました。新潟にとってはチューリップが最もきれいに見れる時期。
晴れた日は公園へ!
ということで、出かけてみたところ、土の上を歩くのは久しぶりでした。
微妙にでこぼこした、土の膨らみ、へこみ、歩きながら感じ取ってみると春の香りがします。晴れた日に公園を歩くって気持ちが良い。
何かに行き詰まったら(いえ、行き詰まっておらんぞ)公園を歩いてみるといいかも。
日本語での読み方はいつ、どこで覚えるのかな
堅すぎない表現でおもしろく、さくさく読み進めることができて嬉しいです。
言語にまつわる疑問はいつでもどんなときでも出てくるのですが、その一つが「読み方はいつ、どこで知ったの」。
アルファベットの読み方、「エー」「ビー」「シー」という音の出し方は、私たち日本人はどこで、いつ身につけてきたのでしょうか。
エー、ビー、何か海老が出てきそうですね。シーは正確には、シィでしょうか。
ろう者の間では、血液型で「A」「B」を使うので、読めないことはない。でも「C」からになると、だんだん雲行きが怪しくなってきます。シィ、ディ、え、えっと・・・
音が耳に入ってこれない以上、文字を見る生活になります。
口の形を読み取りながら、音を想像する人もいますが、ろう者のみなさん全員が読唇術バッチリ!とは限らないのです(読唇術って、集中力と想像力と視力がないと、お手上げです)。
となると、アルファベットの読み方はどうやって覚えていくのか。
学校の英語の授業は週一、二回くらいのペース。その上、社会人になった後に使わないと忘れてしまう。
手話を学ぶ人が、指文字(50音を一つずつ、手の形で表すもの)を覚えるとき時間がかかってしまうのも、週一くらいのペースだからですね。
週に二日以上、ろう者と24時間付きっきりだったらマスターできるかも。
指文字は結構、指を動かします。「あ」だったら親指を横に伸ばして、「い」だったら小指を立てて、というふうに複雑な動きを伴います。
身につけられた人はホントにすごい!
日本人の多くはアルファベットをすらすらと読めるような気がします。ろう者にとってなかなか難しい、っていう人もいます。毎日、声に出して読んでいれば不可能ではないかもしれませんが、自分の声が耳に入ってこない以上、どうなんでしょう。
日本語に対する概念や語感が、ろう者と聴者でそれぞれ違う部分があるので、紐解いてみたいです。
平日に休むとメリット多し
ゴールデンウィークになりましたね。
予定が毎日入っててあちこち行かないといけないという話を聞くと、連休そのものが懐かしいです。
(古本屋で有名な神保町にて)
連休といえば、今の職場はゴールデンウィークも仕事。でも有給休暇取得率が高めなので調整次第で休めます。
祝日の朝、出勤すると道路が空いてて快適に走れます。電車通勤のスタッフからも「あれ?なんでがらがら、と思ったら祝日でしたな」。
「いいなぁ、連休で。休みたいのに」という羨ましい気持ちも分からなくはないです。友人や家族と一緒に休めて、一緒に行動できることが連休の良さ、です。
一方、平日に休むと普段混んでいるところが空いていて快適に過ごせるのが良さの一つ。また、旅行に出かけるにしても宿泊先の料金がリーズナブルだったり。
そして、銀行に行きたいときに行けるので助かります。そもそも土日に何で開いてくれない?平日の午後3時に閉まっちゃうなんて困るなぁと思ったことがあるけれど、平日が休みというのも悪くないですね。
連休中、事故や怪我にお気をつけて。
スマホは文明の器
「クルーズ船が入港してきた」「タッパーにおかずを入れる」「バイオリンを弾く」・・・
カタカナ表記に対して、理解しづらい人がろう者の中にいます。
特に高齢のろう者は「え?今のは何?」と分からなくなります。文脈の流れで何となく、理解できるケースもあれば、そうでないケースも。
聴者の高齢者にもありがちですが、ろう者の場合、耳から入る情報が限られてしまっているのでカタカナを見ても一瞬、何のことか全く想像できなくなり、分かったふりをしてしまうことがあります。
手話通訳に関わっている人たちが、ろう者に「これは何?」と聞かれた後、賢明に説明する場面をよく見かけます。雑談の中でも賢明に説明、説明・・・。すぐに理解できればお互いにストレスを溜めなくても済むけれど、どうしても通じないとき、とっさにほかの方法に切り替えられるかどうか。
聴者にとって手話が通じるだけでも大きなことだから、どうしても言葉で説明することに終始しやすいかもしれません。聴者同士なら言葉で伝え合って、お互いのイメージをより近づける作業を行います。
しかし、ろう者の場合は言葉のやりとりで話を深めていくよりも、視覚的に情報を得ることに慣れきっているような気がします。
上記のカタカナが出てきたとき、相手が分からなければ速やかに他の方法に切り替えてスマホで写真を見せたり、メールの文をお互いに確認して説明したりと工夫することによって、「あ!見たことがある」という概念を確かめてから、次のステップに進んでいくことが大事になってきます。
ろう者にとって日本語を不得手とする気持ちは理解できます。私も時々、迷うので。
その上で、ろう者にとって分かりやすく伝わる、伝える方法について積み重ねていくとコミュニケーション力が高まります。
私も時々、通じなくてもどかしくなる時がありますが、コミュニケーション力を高めていきたいですね。
相手は、必ずしも自分と同じではない
「私の場合はそうだった。だからあなたもできるはず」
「私はこの練習をして成功した。だからあなたもできるよ」
「私はこれで失敗した。だからあなたもそうなるよ」
こういった助言は相手を思いやっているのが伝わるけれど、本当の意味で助言になっているのかな。
成功と失敗、それぞれの経験は事実。実際にそういう経験が起きた。
自分がそこに置かれた環境、タイミング、周囲との関わり、様々な要因が絡んで初めて結果として出てきたもの。
それを抜きにして、結果だけで助言するには、一見シンプルだけれどどうなんだろう。
でもシンプルさは、時には威力を発揮します。
おぼれている人が目の前にいたら、切羽詰まっている人が目の前にいたら、それこそシンプルなメッセージが響くこともあるので使いよう、なのかもしれませんね。
東京から遠い新潟、新潟から近い東京
出張で東京に行く度に「わざわざ遠くからお疲れ様です」と何かと疎遠されてしまう新潟。
東京~新潟を結ぶ上越新幹線で、最速1時間ちょっと着く便があります。1日1便だったような(いや、新幹線を呼ぶ個数は「1本、2本」だったのではないか・・・?)。
遅くても2時間ちょっとで着くと話すと、たいてい驚かれます。
そ、そんなに遠い山奥のあたり、と思われているのでしょうか。
北陸新幹線が去年開通したのもあり、新潟駅~金沢駅は繋がっていると思われているみたいなので「いえ、開通前は繋がっていたんですけど」と話すとまた驚かれます。
開通前は、新潟駅~金沢駅は特急一本で移動できましたが、今は乗り換えないといけないか、バスで行かないといけないです。
ところで、東京を結ぶ上越新幹線は2階建ての車両があります(車両の入れ替えにより、もうすぐ無くなってしまうそうです)。この車両の1階に座ると、乗客の皆さん、ほとんどは驚くのでは。ホームの下に座っているような位置になるので、目のやり場に困ってしまいます。
慣れればあまり気にならないですが、夜の移動でない限り、いつも2階を使っています。
そして、東京~越後湯沢あたりの長いトンネルが有名。
川端康成さんの「長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」の一文にあるように、トンネルが長く続くのでスマホから離れるチャンスになります。
かといって、退屈かどうかは人によりますが、トンネルとトンネルの間から見える山々が時々、神秘的に映るのです。「ああ、素敵!」と感動するときも。
東京の天候とは真逆で、同じ日本列島なのか、と一瞬疑ってしまうくらい不思議な体験ができます。
東海道新幹線と比べたら、本数の少なさにびっくりしてしまいますが、上越新幹線に乗れば「東京は近い」。
本を読んでいて良かった瞬間
最近、巷で本を読む人が減ったという記事を見かけます。
小学時代は本を読むなんて苦しい作業でした。何が書いてあるのかさっぱり分からなかったし、そもそも文字だけでは堅苦しかったからというのが理由(そういえば、このブログも文字だけだった・・・すてきな写真をどなたか提供してくだされば掲載します)。
読書感想文、書くだけでも大変なのに課題図書も読まないといけない・・・。小学時代に書ける人は本当にすごいです。
せめて挿入絵がある本だけでもいいからと探していた時に出会ったのが「シャーロックホームズ」。割とスムーズに読めた記憶が。日本語を身につける中で挿入絵は役に立っていました(視覚的なイメージと日本語の文字が一致できたという”すっきり感”が気持ちよかったのかも)。
読書は苦しい作業、と書いたけれど、日本語がおぼつかない状態で読んでいた時期は「苦痛」だったのかもしれない。
年齢を重ねるにつれて集団生活や様々な経験が、言葉と結びついて概念ができあがり、理解できることが増えると、読める本もそれなりに増えてきました。
読書が趣味かというと、ちょっと違うのかなぁと最近思います。
情報を得るため、という明確な目的があるから?
それはさておき、久しぶりに会った友人と話をしていたとき。
「そうそう、星野源さんファンなんだ。とっても面白い人だよね」という話になったとき、テレビを見ていれば分かるかもしれないのに、あいにくテレビのない生活をしているので面白いという度合いが分からなくて。
でも偶然、星野源さんの本は去年読んだばかり。文体が独特で面白い印象を持っていたので友人の話に応えられたときは、「ああ、読んでいて良かったなぁ」。
読書は一見、成果が見えにくいものだけれど、積み重ねていくことで面白味が増えていくもの。堅苦しく考えずに、興味のあるものは飛びついて読んでいきたい。
日本語のリハビリにもなりますね。
読み方が分からない
テレビのない生活を送っている、と話すとたいてい驚かれます。
ネットが普及しているから驚くほどではないのになぁと思うけれど、それでも「ええ?何で?困らないの?」と真っ先に言われるので、テレビがいかに国民の中に根付いているかよく分かります。
最近は好きな番組、好きな時間帯で複数のチャンネルで録画できるとか、見逃した番組をもう一度見れるとか多様な機能がついているみたいですね。買ってみようかな。
字幕もデジタルになってからほとんど付くようになっているし。
20年くらい前までは、専用の受信機器がないと字幕がつかなくて「何じゃこりゃ?」と想像力を働かせながらドラマをよく見ていました。
その際、字幕にルビ(ふりがな)がついていて、とても助かっていました。
漢字の読み方が様々なので、「この漢字は何て読むのかしら」と分からないときにルビがあると「こうやって読むのか~」と感心することもしばしば。
耳が聞こえていたら、音声を聞きながら読み方を知ることができる。たまに、聞き取れなくて「私も分かんないわ、読めませぬ」と言われることはありますが。
耳が聞こえないのでどうしても、読み方を間違えてしまうことがあります。
「日」。
この漢字はいくつもの読み方があります。
「にち」「ひ」のほかに、二日(ふつか)、四日(よっか)などなど。
同じ漢字なのに、読み方が異なる漢字に遭遇すると「うわぁ~何て読むんじゃあぁ?」。
そんな場面に時々出くわします。そんなとき、スマホが手元にあるとすぐに調べられるので便利。
でも、調べることに慣れていないと「めんどうくさいな、もういいや」。
そんなときは周りの人に聞いてみればいいけれど「聴者に聞くなんて恥ずかしい。馬鹿にされるから」と頑なに聞こうとしない人もいます。
外国人が「この漢字、どう読むのじゃろ?」と聞いてもたいていの日本人なら「ああ、これはですね、こう読みますよ」と気さくに答えると思う。でも、同じ日本人に聞かれたら「なに、そんなことも分からないの」とやや軽蔑的な反応にならないだろうか。
そこがとっても不思議に思えて。
ろう者の「漢字が読めない」というのは、外国人とそう変わらない。本人の努力不足がすべてと言い切ってしまったら希望も何も持てなくなってしまう。
本人を取り巻く環境も大事。聞かれたら「これは、こうやって読みます。意味は一緒に調べてみましょう」というスタンスで答えたいものですね。
体を動かすメリット
縁あってジムに通っています。
でないと、車での移動が多いのでどうしても運動不足になりがち。
車は便利だけれど、「灯台もと暗し」になりがち(いや、これは私だけ?)。車で走っている道を、あらためて歩いて回ってみると意外なところにお店があったり、意識していなかった場所に建物があったり・・・。
運動不足解消の目的でジムに通っていますが、インストラクターとマンツーマンで指導していただいています。
でないと、サボったり何をやればいいのか迷いがち。
指導受けながら様々なプログラムをこなしていくと、身体がだんだん軽やかになっていく感じに。
そして、何よりも、身体を動かしていると余計なことを考えずに済む。
これが一番のメリットで、スマホから離れる絶好の機会にもなります。
これからも動かし続けていくのみ、ですね。
手話通訳を知らないろう者
いつの頃だったか、メールのやりとりを通して「今度お会いしませんか」という流れになって、待ち合わせしていたとき。
私を見て、「え?ろう者ですか」。相手は手話ができる方なので、一言二言交わして、ろう者ということが分かったそうです。
「私はろう者です」という内容をメールしなかった私が悪かったかもしれないですが、なぜ驚くのか不思議だったので聞いてみると、「いやぁ、日本語でのメールがスムーズだったもんで」。
ろう者にとって日本語は、外国語のように見えてしまう人もいます。
差し出された筆談の紙を見ても、アラビア語のように見えてしまう。
どうすればいいのか分からなくて、その場しのぎの反応を示しておくだけ、という人もいます。
逆もしかりで、ろう者にとって、手話のできる聴者に出会うと「え?聞こえるの?」と驚くこともあります。
驚く理由を聞いてみると、「いやぁ、手話での会話がスムーズだったもんで」。
(ここでいう、手話のできる、というレベルはろう者によって千差万別)
日本語と手話。
情報保障としての「手話通訳」があります。ざっくりいうと、二つの言語を行き来し、通訳することで両者のやりとりを円滑化させる仕事があります。
世界で二番目に古い仕事が、通訳と言われているくらい、人と人が関わり合う上で不可欠な存在。
ろう者にとって、日本に住んでいるとマイノリティの立場なので、マジョリティとの関わりを持つために手話通訳を大いに活用しているというイメージがあるかもしれません。
しかし、「手話通訳、お願いできるの?」というならまだしも「通訳って何?」というろう者もいます。
今までどうやって生きてきたかというと、必要最低限の会話を紙に書いてもらって、煩わしい契約書などはすべて家族や親族で対応してきた、というケースも珍しくありません。必要最低限の内容なら、日本語の単語で何とか対応できます。
英語も同じように、文法が間違っていても何となく単語を並べておけば、相手の察する力によって救われることがあります。
(それが正しいとか間違いとかではなくて)
きっとそれが「筆談でも、ろう者があいづち打っているから通じているね」と誤解しやすい部分かもしれません。
手話通訳を知らないろう者は、手話のできる聴者に会った経験がほとんどない。手話のできる聴者に出会うと、「この人、聴者?ろう者?」と近くにいる人に確認する癖があります。
差別化したいのではなく、あくまでも確認作業として「自分の手話が通じる相手なのかどうか」という不安からくる質問、と私は見ています。
そこから一歩踏み出して、手話を通して聴者との関わりを増やしていくことは、共存共栄の社会作りへの一歩だと思います。
ろう者にとって音声言語の日本語をうまく使いこなすことが難しいのなら、手話という言語を通して人との関わりを深めていく選択肢が、ろう者の中にあってもいいのではないでしょうか。